ARTISANA ANGKOR

シェムリアップにあるARTISANA ANGKOR(アーティザン・アンコール)の工房に立ち寄ったのは、2014年9月のことでした。アーティザン・アンコールは、1992年にカンボジアの文部省とフランスの外務省とによって設立された職業訓練校として始まり、1998年にはEUからの援助により団体として設立、そして、2008年に、カンボジアの登記会社となりました。現在ではカンボジア伝統工芸の技術学校、工房、店舗などを運営しています。
右写真は、シェムリアップのアーティザン・アンコールの一画にあるギャラリーで、訓練生たちが作った製品が展示販売されています。
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入口を入ると、経営理論を記したパネルがありました(左写真)。
アーティザン・アンコールは、農村に住む若い世代の人々に、高い水準の技術トレーニングを行い、そして生計を立てることができる職業を供給し、実状彼らが故郷にて仕事ができるよう手助けしています。(自立支援)今日、アーティザン・アンコールは、1000人以上の人々を雇用しています。農村への工房設置により、農村で生活をしているカンボジア人の家族全体の所得が増加し、シェムリアップ周辺の人口過疎化を防いでいます。 また、アーティザン・アンコールは、カンボジアの社会政策のモデルでもあり社会保障と医療手当が完備された条件のもと、全社員と会社間にて、正式な雇用契約が交わされています。 職人達は組合を形成し、アーティザン・アンコールの20%の株を所有しています。
右写真は、工房の中に貼ってあった手話の表です。この工房では、耳の聞こえない人も働いているので、彼らとのコミュニケ―ションを図る一助になっているのでしょう。工房が目指す農村の若者の自立支援の中には、身障者の自立支援も含まれているようです。
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工房では漆、石彫り、木彫り、金属工芸、磁器など実際に職人たちが作業をする様子を見学することができました。工房で習得できる技術は、カンボジアの伝統工芸品としての石仏彫りや木彫り、細工を施した木製の小物などです。
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工房の中では、クリーム色のシャツを着た人と、あづき色のシャツを着た人とが働いていました。確かなことはわかりませんが、クリーム色のシャツを着ている人たちは訓練生で、技術を持っていて、会社と雇用契約をしている職人の人たちがア付き色のシャツを着ているようです。
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クリーム色のシャツを着ている若者たちは、見本を傍において作業をしていました。彫刻のモチーフは、アンコールワットに彫られている伝統的なクメール模様が多いということです。
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石彫り工房の入口に、色の異なる石が置いてありました。ここでは、これらの石を使って、仏像などを彫っていました。
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台の上に、お手本の彫刻を置いて、見ながら作業をしている様子が印象的でした。彼らが彫っていたのは、アプサラ、仏、象などをでした。
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伝統的な彫刻を伝え引き継いでいく姿勢は、壁面に掛けられた仏像頭部の形や比率などが記されたパネルからもわかりました。
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木彫りも、石彫りと同様に、お手本を見ながら、寸法や形など丁寧に測っては彫っている姿が印象的でした。木彫りの木造頭部には、右写真に見るように製作者の番号が刻まれています。空港の土産物売り場で、その番号を伝えると、その人の作品を出してきてくれると聞きました。単なる土産物ではなく、作った人に還元される仕組みもあるのかもしれません。
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工房内には、黄色い蚕の繭と、繭から紡いだ生糸が色染めされて展示されていました。
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シェムリアップのアーティザン・アンコール工房の位置と、シェムリアップ近郊に展開している工房などがが記されてた地図パネルもありました(左写真)、右の緑の円がシェムリアップ市街地です。市街地を東西に通っている赤い線が、国道6号線で、国道6号線の北に長方形で西バライが記されています。前回紹介したプオック地区のシルクファーム(中写真)は、西バライの左上に記されています。市街地にある工房から西へ約16kmほどのところに位置します。また、西バライと国道6号線を挟んだ南にあるゴックトライ村のARTISANS ANGKOR工房(右写真)では、20人ほどの村人が働いているとのことです。
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カンボジアにおける社会政策の一つのモデルと位置付けられているアーティザン・アンコールでは、会社と全社員との間で正式な雇用契約が交わされ、社会保障と医療手当が完備されているということです。一方、農業を生業としてきたカンボジアですが、シェムリアップ近郊では、農地を持たない若い人たちも増えています。彼らの大多数は、雇用の不安定な建築現場で働いたり、土産物を売ることによって生活を支えている現状があります。

写真/文 山本質素、中島とみ子

シルクファームで働く村の女性たち

ピエム村内のプノン・ルー遺跡から4㎞程西南西に、アーティザン・アンコールが運営するプオック・シルクファームがあります。 左写真は、シルクファームの入口の立て看板です。敷地内の畑では、桑が栽培されていました。
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プオック地区に造られたシルクファームは、8ヘクタールの敷地内に何棟もの建物があり、蚕の飼育、絹糸の撚糸、織物作りなどが行われています。
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ピエム村からシルク・ファームに働きに行っている若い女性2人にインタビューをしました。(2015年12月)

★Sさん (24歳、女性)
ピエム村出身のSさんは、ドーン・ケオ地区 T村出身の夫(27歳)と2014年に結婚し、インタビュー時は、妊娠8カ月でした。写真はSさん夫婦の家です。子どもができるので、父親の土地に家を建て(約600ドルの経費がかかった)、5か月前に実家から、この家に引っ越してきたそうです。実家(ピエム村)では米、野菜、果物などを作っています。Sさんは8人兄弟姉妹(男3人、女5人)の上から3番目で、2番目の姉は結婚してピエム村に住んでいます。
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☆Sさんとシルクファーム
Sさんは、シルクファームで働いて3年目になります(2015年12月時点)。シルクファームに務めるきっかけは、シルクファームで行われた従業員の募集でした。若い女性も応募できることを知り、面接を受けて採用されました。シルクファームでは、Sさんはランドリーとアイロンかけを担当しています。ランドリーでは彼女を含めて13人が働いています。Sさんは、バイクや自転車を持っていないので、シルクファームまでは同僚と相乗りで通っています。シルクファームで働いて3年目、月100ドル前後の安定した収入があります。また、出産前後には約3か月間の産休があり、50%の給料を受け取れます。
夫は建築労働者で、給料は1日7ドルですが、未払いなどがあり、収入は不安定です。 Sさんの弟もシェムリアップで働いていて、一緒に通っています。

☆Sさんの結婚式
結婚式には、800人くらいを招待し、広い空き地にテントを建てて行ないました。テントやテーブルの設置は、1か所5ドルで会社に依頼し、料理は村の人6人にコックさんをお願いし、1テーブル75ドルくらいで作ってもらいました(ドリンク代は別)。700人分の料理を用意し、材料や調味料の費用は自分たちで負担し、結婚式全体の費用(約2,000ドル)は、夫の家族が支払いました。

☆Sさんの生活時間
1、朝4時に起き、食事を作る。
2、シルクファームの就業時間は朝7時半から12時までと、13時半から17時まで。
・昼食は職場で弁当を食べる。中身は干物やプラホックと白米。 朝ごはんと昼ごはんは同じおかずが多い。
・夜のおかずは、仕事で疲れているときなどは市場で買って来ることもある。
3、夜は寝る前にテレビを見て、21時頃に就寝。

☆生活費
・食費は月に150ドルくらい。
・電気は引いていない。バッテリーを60ドルで購入した。ソーラーパネルもある。
それまでは石油ランプで生活していた。
・生活水は、近くにある井戸を利用している。この井戸はNGOが作ったもの。

★Hさん (26歳、女性)、Tさん(31歳、男性)、
Hさん(ピエム村出身)は2010年に結婚し、家族は、夫のTさん(K村出身)、2人の娘(3歳と1歳3か月)、Hさんの母(46歳)と、弟と一緒に暮らしています。写真はHさん夫婦です。後ろに見える高床式の建物がすまいで、Hさん夫婦は1階に住み、母と弟が2階に住んでいます。子どもたちは、Hさんの母が世話をしてくれています。Hさんは長女で、弟が2人、妹が1人います。上の弟は専門職の大工で、結婚して他の村に住んでいますが、下の弟はまだ若いので仕事にはついていません。妹はハンドメイドの仕事をしています。
農地をもっていないので農業はしていませんが、アヒルを5羽飼っていて、パクチーを栽培したりしています。
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☆Hさんとシルクファーム
Hさんは、シルクファームの倉庫係として勤務して9年目になります。初任給は60米ドルでしたが、5年前から毎年6%の昇給があり、現在の給料は、1か月に約100ドルです。シルクファームまではバイクで通っています。
夫のTさんはシェムリアップで専門職の大工として15年以上働いていて(日給は8ドル)、シェムリアップまでは、自転車で約1時間かけて通っています

☆Hさんの結婚式
結婚式はピエム村のHさんの家で行い。料理は村の人にコックさんを頼み、テーブルやテントの設置はピエム村内の店に依頼しました。結納金は800ドルで、招待状は100人くらいに出しました。

☆Hさんの生活時間
1、朝は5時に起き(夫が朝6時に家を出るので)、家族4人の朝食と弁当を作る。
2、17時~18時には仕事から帰ってくる。掃除や洗濯などをして、夕食を作って18時に食べる。
3、テレビを見て20時から21時くらいに寝る。

☆生活費
・米は月に50kg(25~30ドル)購入する。
NGO倉庫のメンバーではないので、米は市場で購入する。食品は、毎朝バイクで村まで売りに来る人から買っている。学校付近の店で買ったりもするが、朝は買えないこともある。
・朝ごはんのおかずは揚げた魚か、卵焼きが多い。
・昼食は勤務しているシルクファームの食堂で食べる。月に7ドル。
・電化製品はテレビだけ。家屋の1階と2階にそれぞれ1台づつある。テレビは貯金をして購入した。貯金は1か月に10ドルくらいができる。
電気はバッテリーで、2日に1回は充電する。バッテリーの充電は1,500リエル(0.375ドル)かかる。       <2015/12/31時点での10,000 カンボジア リエル は、2.4526 米 ドルですが、日常生活では1米ドル=4,000リエルで換算されています>
  夜は、石油ランプで灯りを取る。
・携帯電話は、旧式の機器を持っている。

☆まつり
ピエム村では、正月前(3月)にラン・ニャ・ターと呼ばれる祭りがあり、 3月の祭りは、村人のうち、寺の役をしている人が中心になって行われる(村の人は自由参加)。祭りの前や正月前には、村人が集まって、村長さんや地区長さんの話を聞きます。村の会合(ミーティング)は、学校で開かれることもある。
11月にシェムリアップで行われた水祭りには、家族で行き、ボートレースを見てきました。アンコールワットへは、正月(4月)に行くことが昔からの習慣になっていて、毎年、旅行するような気持ちで行きます。

ピエム村からシルクファームに働きに行っている女性2人のインタビューからは、働くことで自らの収入を得て、自立の1歩を踏み出している様子が感じられました。しかし、その収入の大部分は、食費や電化製品の購入など、生活費として使われている現状もわかりました。かつては、実家の屋敷内に親や兄弟姉妹と暮らし、農業を生業とした自給自足的な生活を支えていた女性たちでしたが、外で働いて給与を得ることで、加速度的にその生活が貨幣経済に組み込まれていくようにも見えました。

写真/文 山本質素、中島とみ子

牛の飼育頭数の変化

ピエム村の道で、少年が乗った牛車と出会いました(2014年9月)。私たちの前を通り過ぎると、少年は牛に鞭を入れて脇道へと曲がって行きました。*ピエム村情報:西バライの北西、ドーン・ケオ地区。ロンノル時代までは、「ポム・プノン・ルーン」(プノン・ルーン遺跡のある村の意味)と呼ばれていたが、ポル・ポト時代に、「プノン・ルン村」になり、さらにポル・ポト政権崩壊後に「ピエム村」となる。
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このころまで(2014年9月)、ピエム村の世帯の半数ほどが、耕作牛(雄牛)を2頭くらいずつ飼っていたそうです。2014年5月時点の家族数(世帯数)は277家族であり、村全体では200頭以上の牛が飼われていたことになります。村の多くの高床式家屋の1階部分は、牛を飼育するための場所として使われていました(以下12枚2014年9月撮影)。
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草場では、草を食む仔牛の姿も見られました。牛を、クメール語では「コーウ」といいます。ピエム村では、牛を所有している人が忙しくて世話をすることができないような場合に、雌牛を預けて育ててもらう「プロワス・ダイ」が行われてきました。「プロワス」はクメール語で「交代/交換/互いに」を意味し、「ダイ」は「手」を意味する言葉です。牛を預けて飼ってもらう「プロワス・ダイ」では、仔牛が生まれた場合の1頭目は持ち主の所有とし、2頭目は預かって育ててくれた人の所有とし、仔牛が2頭生まれた場合には1頭づつ分ける、また、雌牛は所有者の分、などとあらかじめ取り決めをしておきます。牛のプロワス・ダイは「牛で返す」とされています。繁殖用の雄牛を飼っている人は、道端に看板を出しておくそうです。
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2014年12月、ピエム村の道を走る私たちの車の前を、数頭の牛が横切っていきました。角のある牛の後から仔牛がついていきます。牛の角は雄雌の区別なく生えますが、多くの牛は角を切られ、角を残している牛は、繁殖年齢の雄牛が多いと聞きました。オートバイも、牛たちが通り過ぎるのを停まって待ちます。時刻は11時過ぎ、牛を曳いて歩く子どもたちにも会いました。刈取りが終わった田んぼに牛を連れて行くのは、子どもの仕事の1つなのでしょう。
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2014年12月、ピエム村の副村長さんの家では、豚を飼っていました。豚小屋では、まだ生まれて間もない子豚10頭ほどが、ワサワサと動き回っていました(左写真)。隣の囲いにいたのは親豚です(右写真)。家畜である 豚について、プロワス・ダイが行われることはほとんどないようです。豚は育てて売ることができるために、近年、その価値は上がっています。
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2015年9月、村内を歩くと、コンクリートの柱に改築した高床式家屋が何軒もありました。写真の家屋は、コンクリートで持ち上げて二階を造っているところでした。庭に、女性たちと子供の姿が見えたので、立ち寄らせてもらいました。階下には、耕耘機が置かれていました。
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屋敷内は、バナナの若木がたくさん植えられ、野菜も育っていました。牛を飼っていた気配は残っていましたが、牛の姿はありませんでした。
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2015年9月ごろには、ピエム村内で牛を飼っている世帯は3~4世帯だけになったそうです。ここ数年の間に飼育されている牛の数は、数百頭から十頭ほどへと激減したことになります。「建物が増えると、牛の餌としての草が減ることにもなるので、ピエム村では牛の数が減ってきた」という話も聞かれました。「カンボジアの家畜飼育2006 年( http://yk8.sakura.ne.jp/ADC-1/Pages/Cambodia-J/Cambodia-tips08-3J.html)」に、牛の売買について以下の記述がありました。牛の販売価格(成牛)は、よい牛なら300$以上、最低でも200$以上で販売できる。輸入牛の血が入っていて、大きな牛なら1000$以上になるというまた、痩せた牛を買い取って、太らせてから肉牛として売る仲介業者もいるそうです。
シェムリアップ近郊の村々と同様に、ピエム村にも、マイクロファイナンスの勧誘業者が訪れるようになり、融資話の一環として、牛の買いとりの話もされているのかもしれません。牛を売ったお金は、家を改修したり、耕耘機やバイクなどの購入費に充てられているのでしょうか。

写真/文 山本質素、中島とみ子

農作業のプロワス・ダイ(交換労働)

私たちが 最初に訪れた時(2014年9月5日)、ピエム村は田植えの真っ最中でした。それぞれの田には、夫婦あるいは親子と思われる2人ほどの人たちが、苗を植えつけていました(以下4枚2014年9月5日撮影)。*ピエム村情報:西バライの北西、ドーン・ケオ地区。ロンノル時代までは、「ポム・プノン・ルーン」(プノン・ルーン遺跡のある村の意味)と呼ばれていたが、ポル・ポト時代に、「プノン・ルン村」になり、さらにポル・ポト政権崩壊後に「ピエム村」となる。
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ピエム村で、田植えや稲刈りなど農作業の際に、プロワス・ダイと呼ばれる手伝い合い(労働交換)が行われてきました。プロワス・ダイは「プロワス・クニア」ともいい「プロワス」は、クメール語で「交代/交換/互いに」を意味し、「ダイ」は「手」、「クニア」は「お互い/お互いに」を意味する言葉です。
ピエム村に住む女性(65歳)が、50年以上前にピエム村で行われた最も大きなプロワス・ダイの様子について話してくれました。50年前のカンボジアは、シハヌークが、フランスの保護国から独立を宣言した時期にあたります。 13~4歳のころ(50年以上前のこと)、最も大きなプロワス・ダイが行われた。3ヘクタールの田植えの時に、手伝いの人数が50人を超えていたという。1家族から何人もが作業に出ていたし、いろいろな家族が集まって楽しい作業だったと述懐する。当時は、50人くらいで田植えを行うことは通常のことで、まれに70人くらいで作業をしたことがあったという人もいる。 1日の作業に全部で10人のプロワス・ダイを頼んだ場合は、それぞれの相手先に頼んだ人数分を合計して10人分の「手(手間)」を返すことになる、手間を返すときに家族だけで足りない場合は、人を頼んで人数分をそろえて先方へ連れて行く。この場合には頼んだ人数分の費用を支払うことになる。 プロワス・ダイに出るのは男女とも18歳以上、50歳くらいまでときまっていたが、昔は学校に通っていない子が多かったので、13~4歳の子どもがプロワス・ダイに出ることもあった。若者には年長者が教えられるように、田の持ち主(その日のプロワス・ダイの主催者)が年長者と若者を組み合わせるなどの配慮をしていたという。

同じ日(2014年9月5日)、ピエム村で活動をしているバンテアイ・スレイNGOが借り上げている田では、大勢の人たちが田植えをしていました)。ピエム村では、2006年からバンティアイ・スレイNGO(以下BSNと記します)が支援活動を行っています。主な活動は、BSNが借り上げた水田を、田を持たない村人が耕作し、労働と引き換えに米を受け取ることができるという支援です。 具体的には、ピエム村の家族を田の所有という点から、①水田を所有していない世帯が67、②少しの水田を所有しているが、家族が食べるには十分ではない世帯が50、③家族が食べるのに充分な水田を所有している世帯は68と3段階にわけました。そして、高齢で田を耕作することができない③の人から田を借り上げて、①②の人たちに米を作ってもらい、労働の対価として安い金額でコメを購入できる仕組みを提供しています。村には、BSNが管理する米の備蓄倉庫がつくられ、前述の水田の余剰米や、収穫期にBSNが買い上げた米などが備蓄され、村人に米が行き渡るように支援しています。
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2015年9月には、ピエム村の道で、耕耘機を手に田に向かう男性とすれ違いました。コンクリートの柱で高く持ち上げられ高床式家屋の階下に、牛に変わって耕耘機が置かれている家も見かけられました(2015年9月)。農作業のプロワス・ダイが行われなくなったのは、耕耘機などの購入も大きな要因としてあげることができます。マイクロファイナンスなどから経費を借りて耕耘機やオートバイを購入した村人たちが、返済のために、現金収入が得られる建築労働者として町に働きに出るようになっているためです。DSC07060 CIMG6249 - コピー

プロワス・ダイも、(前回紹介したチューイ・クニアと同様に)ポル・ポト時代の強制移住等により、全く行われなくなりましたが、ポル・ポト政権が終わった1993年以降、他の村に移住させられていた人たちがピエム村に戻ると、再び盛んに行われるようになりました。しかし、シェムリアップ市内にオートバイで仕事に通う村人が多くなった2年ほど前から、日中に村内の働き手が減って、ピエム村ではプロワス・ダイを行うことが難しくなってきています。
プロワス・ダイは、日本の交換労働の民俗慣行と類似した慣行と捉えることができます。日本社会の農村においても、交換労働の民俗慣行(相互扶助慣行の内の交換労働で、各地で「手間返し」「手伝い合い」「結(ゆい)」などと呼ばれています)は、高度成長期以降に大きな変容を経験しました。ピエム村などで続いてきた農作業のプロワス・ダイ(労働交換)も、個別の現金収入を優先する生活形態へと変化する中で、その役割を失いつつあるようです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

家の改築とチューイ・クニア

ピエム村では、2006年からバンティアイ・スレイNGOの支援が始まっています。すでに紹介しましたが、左写真のコメの共同倉庫もバンテアイ・スレイNGOの支援活動として設置されたものです(2014年9月撮影)。共同倉庫のあるこの場所は、NGOのボランティアもしているドイさんの敷地で、左奥にはドイさんが所有する脱穀機の小屋があります。その奥に家族が住む高床式家屋があります。2014年9月に訪れた時は、コンクリートの柱の上に住居部分がありました(右写真)。元の高床式の床を高く持ちあげてコンクリート製の柱に換える改築は、専門家に頼んで5日間かかったそうです。4mほどの高さがあるコンクリート製の柱は、12本で400ドル。ドイさんの家には16本使われています。
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2015年9月に訪れると、ドイさんの高床式家屋の1階部分がレンガで囲われていました(左写真)。レンガで壁を造る作業は、親戚などに手伝ってもらって(チューイ・クニアで)2日間で出来上がったそうです。下右写真の男性が、ドイさんです。
ピエム村では、家を改築する際に手伝い合う仕組み「チューイ・クニア」が、現在でも多く行われていました。
クメール語のチューイは「助ける」、クニアは「お互いに」の意味で、あわせて「助け合うこと」「助け合い」になります。家を造るときだけでなく、結婚式、出産、葬式、祭(長寿の祝い、家の祭り)などの際にも行われる手伝い合いのことで、チューイ・クニア・タウィンは手伝いに「行く」こと、チューイ・クニア・タウマオは手伝いに「来てもらう」ことの意味です。 家を作るチューイ・クニアに行く人は道具などを持参し、一方、頼んだ家ではチューイ・クニアで来てくれた人に料理を用意します。
前回紹介したティエップさんが、1979年に家を造ったころは、木を伐ってきてヤシの葉で造る家だったので、姪や甥などの親戚や知り合いなどにチューイ・クニアで手伝ってもらい、10人以上の手伝いがあったので1日で仕上がったそうです。

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 CIMG6235改築には16本使った。残りは息子の家の改築に使う予定

2015年9月のピエム村では、コンクリート製の柱を使って床を高く持ち上げた高床式家屋をいくつか見かけました。左写真の家は、二階の住居部分に大きく張りだし部をつけていました。そして、右写真の家は、一階部分に大きな張り出し屋根を持ち、一部はコンクリートで囲ってありました。2枚の写真で高床式の家の左に見えるヤシの葉で壁面を葺いた建物は、炊事場のようでした。
ピエム村で、住居の改築が盛んに行われているのは、住居の新築がアプサラ機構によって規制されているためです。アプサラ機構は、遺跡周辺の環境を維持することを目的に、新しい住居や棟を作ることを厳しく規制しています。そこで規制区域内にある村々では(ピエム村も含まれます)、家族数の増加に対して、屋敷内にある小さな建物や家屋(居住していない小屋・炊事場など)を改築したり、高床式家屋の1階部分を囲って居住スペースを確保するなどの工夫をしています。
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チューイ・クニアはロン・ノル時代より以前から行われていた助け合いの慣行です。ポル・ポト政権下では全く行われなくなりましたが、ポル・ポト時代が終わると、村に戻ってきた人々が、既に壊されてなくなっていた自宅を再建するためにチューイ・クニアが盛んに行われるようになりました。現在でもチューイ・クニアを頼まれた時、それが大事なことであれば、2日間くらいは自分の仕事を休んでチューイ・クニアの依頼に答えることもあるようです。しかし、村内の働き手の多くが外に出て働くようになった2年前ころからは、チューイ・クニアを頼むことより、賃金を払って仕事をしてもらうことが多くなってきているそうです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ピエム村の家族(ティエップさん)

ピエム村の古老、ティエップさん(88歳、男)の家を訪ねました。ティエップさんの屋敷に入る手前、道路沿いに高床式住居が建っていました(左写真)。ここはティエップさんの生家があった場所で、現在は彼の息子さんが住んでいます。その脇の道を奥へ進むと、ティエップさんの屋敷があります。屋敷内には住居が3軒と、それに付随した炊事小屋などが建っていました。
彼には8人の子どもがありましたが、戦死したり、ポルポト時代に亡くなったり、病死したりして、現在は5人になっています。子どもたちのうち娘2人がそれぞれ家を建てて、この屋敷内で暮らしています。
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ティエップさんが寝起きしているのは、下左写真の孫の家です。トタン屋根の高床式住居の前面に、ヤシの葉で大きく下屋が張り出ていました。下屋の部分の内に置かれたイスにティエップさんが座っていました。
1927年生まれのティエップさんは、25歳の時に隣で暮らしていたイトコ(母の姉の娘)のチャープさんと結婚しました。

★結婚のチューイ・クニア*親戚を中心にした「助け合い」を「チューイ・クニア」といいます。家を作るとき、結婚式、出産、祭(長寿の祝いなどの家の祭り)の場面で行われる手伝い合いのことです。
ティエップさんの結婚式のときは、親戚以外にもたくさんの人にチューイ・クニアを頼みました。ちまきづくりや、伝統的な菓子を作るなど、主に準備の手伝いをしてくれました。結婚式は、昔も今も女性側の家で行います。結婚後は、慣習としては妻方の家に住むことが多いそうですが、家が狭い場合などにはお互いの親が相談の上で、新婚夫婦がどこに住むかを決めます。ティエップさん夫婦の結婚後の住まいはティエップさんの親が決めてくれたもので、土地(田)は30メートル×40メートルくらいありました。

★家を造る時のチューイ・クニア
ティエップさんが、父母の畑のあったこの場所に家を建てたのは、ポル・ポト時代が終わってからの1979年でした。家を造る時にも、姪や甥などの親戚や知り合いなどにチューイ・クニアで手伝ってもらったそうです。 木を伐ってきてヤシの葉で造る家は、10人以上の手伝いがあれば1日でできますが、手伝いの人数が少なければ壁を作るのは後日になることもあります。チューイ・クニアで手伝ってくれた人には、頼んだ家の人が料理を用意します。
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左写真で小さい子供を抱いている女性が、一緒に住んでいるティエップさんの孫です。周りの少年や少女たちもティエップさんの孫やひ孫になるのでしょう。外の庭にも、子どもたちや女性の姿がありました(右写真)。右写真に見えている高床式家屋は、娘さんの住居です。
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★出産の時のチューイ・クニア
出産のときは、いつも、ピエム村内の産婆さんに来てもらい、隣近所の人にチューイ・クニアを頼みました。男性には薪を運んできてもらって焚火をしたり、女性には赤ん坊に産湯をつかわせてもらったりして、産婦が無事に眠る状態になったときに、皆に帰ってもらいました。

★出産に関するマジナイ(禁忌)
後産(のちざん)は、占い師に方角を選んでもらって、夫が埋めに行きました。埋める場所は自分の土地の中です。
産婦用のベッドを作ることはしませんでしたが、住まいが高床式なので地面から1mくらいの床に母子が寝て、その床下で夫が薪をたくと、母子は暖かく眠ることができました。産婦が「熱い」といえば火を小さくするなど、夫は火のそばに寝て、火の調節をしました。火が消えてしまうと産婦の具合が悪くなるといわれていました。
産婦は、産後1週間は家の外でおこした火で湯を沸かし、ぬるま湯にして浴びました。浴びた湯は床下に掘っておいた穴に流れ落ちるようにして、穴にはトゲのある木をかぶせておきました。今の人は病院での出産が多くなったので、そのようなことはなくなりました。

ティエップさんの屋敷内では、キュウリなどの野菜が栽培されていて、穀物を入れる小さな小屋もありました(左写真)。正月に供物を載せた棚が、そのまま置いてありました(右写真)。
正月は、4月13日、14日、15日のいずれかの日に、各家ごとに棚を作って供物をあげて祝います。
村全体でも正月を祝い、毎年新しい神様(ブラフマ神の子ども7人)を入れ替えます。神様がいつ降りてくるのかは、占いで時間・分・秒までわかるので、供物として果物、ご飯、飲み物、香水、線香、ろうそくなどを村の人が持って集まります。内戦前は、村の人たちがコック・チャーに集まって正月を祝いましたが、現在では小学校かプノン・ルーン遺跡で行っています。
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インタビューの途中で、スコールがありました。ヤシの葉をつたって落ちてくる雨水は、トタン板から大きな水瓶に集められています。両側にある娘さんたちのヤシの葉で葺いた住居も雨に濡れていました。「昔の人は葉の屋根や壁が好きなので、今もたくさん残っている」とティエップさんが言うように、彼の屋敷内には、ヤシの葉の家屋が丁寧に管理されていました。
CIMG6384娘家族1の住まい CIMG6395娘の家族2の住まい 

屋敷内にある井戸の柵に干した洗濯物も、雨に濡れてしまいました。右写真のオートバイは、ティエップさんの孫のものです。今年の4月に購入したばかりというオートバイのハンドルには、2本の赤い紐とお札が下がっていました。赤い紐は、「オートバイが家族になった」ことを意味し、お札にはお経が書いてあります。お母さんは「お札」のお経は、まだ覚えていないそうですが、お札を結ぶ時、「お金が戻ってきますように」という意味のお経を唱えてくれたそうです。オートバイの価格は約1,100~1,600USドルと高額ですが、オートバイでたくさんお金を稼いで、買ったときのお金がもどってくるようにという気持ちが込められているようです。
CIMG6393井戸は3家族に3つ CIMG6386四月に購入したバイク

「今でも、この村ではチューイ・クニアをお願いすれば、お金を払わなくても助けてくれる」と、ティエップさんは話します。ティエップさんは2年前までチューイ・クニアなどの手伝いに行っていましたが、最近は娘や孫たちが行っているそうです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ピエム村の家族(チョーンさん)

ピエム村の人々が、変化する時代をどのように生きてきたのかを知るために、ピエム村生まれのチョーンさん(70歳・女)からお話を聞きました。

チョーンさんの屋敷の入口は、高床式家屋に使われるコンクリート製の柱が利用されていて、門扉は、細い木で作られていました。門から住居まで石を敷く作業は、娘さんがしているそうで、もう少しで仕上がるようでした。
CIMG6126話者宅敷石作業は養女の子 CIMG6127

左写真が、チョーンさんたちが暮らす家屋です。高床式家屋の1階部分も、住居として改修されていました。屋敷内には、ネアクタが祀られていました。ネアクタの後ろにはポンプ井戸があったように思います。
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家の中では、男性が体にお湯をかけていました。彼は、チョーンさんの夫のピアンさん(74歳)で、体調が悪かったので、お湯で身体を温めていたのだそうです。ピエム村出身のピアンさんは、16歳の時まで1年間、西バライのそばのワット・スウイ・ロミエット寺院で修行しています。昔は、教育を受けさせるために、子どもに僧侶になるように勧めることが多く、僧侶になると村か寺でお祝いをしてくれました。10人中1人か2人くらいが僧侶になりました。
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チョーンさん夫婦には、現在51歳になる養女がいて、その娘たち(孫娘)がチョーンさん夫婦の食事などの世話をしてくれています。現在の家では、鶏、豚、牛を飼って、育てて売るのが中心で、キュウリなどの野菜は家庭用に、少しだけ作っています。
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写真は、チョーンさん(右)とピアンさん(左)ご夫婦です。お二人に「長寿の祝い」について、お話をしていただきました。

★長寿の祝い(誕生日祭り)
ピエム村では、一生の間に50代、60代、70代と、3回長寿の祝いを行います。
50歳から53歳くらいまでの間に、お坊さんに占ってもらい、最も運勢の悪い日を選んで長寿の祝いを行います。この祭りは「もっと命が延びるように」という目的で行われるので、50代の1回目は小さく祝い、60代の2回目は少し大きく、70代の3回目はさらに大きく祝います。祝いは、半日から1日半、続きます。祝いに招く人数によって異なりますが、お金が足りない時は、親戚に供物を頼んだり、余裕があるときは親戚以外の人もたくさん呼びます。
長寿の祝いは、若い人にとっては父母や祖父母の「誕生日祭り」、老人にとっては「生命(寿命)を延ばす祭り」と、村の人たちは捉えています。

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お2人に、これまで生きてきた時代と暮らしについて、振り返って話をしていただきました。

★フランス植民地時代
チョーンさんとピアンさんは、それぞれの母親がいとこ同士だったので、小さいころから隣の家同士で暮らしていました。
フランス植民地時代(~1953年)は、子どもだったので何もわかりませんでしたが、みんなが農業を行っていました。当時は、それ以外の仕事はありませんでした。そのころ、このあたり一帯は森が広がっていて、野生の動物も、オオカミ、イノシシ、トラなどがたくさんいました。野生の動物が怖かったので住まいを高床式にしたのだそうです。フランス植民地時代は税金が高かったけれど、暮らしとしては、それ以後のロンノル時代、ポル・ポト時代より楽でした。

・結婚
結婚したのは妻チョーンさん19歳、夫ピアンさん23歳の時(1964年頃)。結婚の話は、ピアンさんの親が持ってきました。当時の結婚は親が決めるもので、先に男側の親(家族)が女性の親のもとへ行き、話がまとまったら結婚することになります。
結婚後、チョーンさんの父親が、「2年間は同居してほしい」と言ったので、2年間はチョーンさんの親と一緒に暮らしました。その後、両方の祖父母から土地をもらって、村内の1キロ先の所に新しい家を作って移り住みました(1966年頃)。家を作ったときは、親戚の人たちが手伝いに来てくれました。そこでは、農業をして、コメと野菜(スイカ、インゲン、ヘチマ、タロイモ、サトイモなど)を作っていました。暇なときは夫を手伝って箱、ゴザなどを作り、村の人に売ったこともありました。

・井戸と屋敷の境界
新しく家を作った時、井戸は自分たちで掘りましたが、5メートルくらい掘ると水があふれ出てきました。3年から5年使うと、井戸の底にたまった泥をかいだしました。現在は、もっと深く掘らないと水が出ません。ポンプがない場合は20メートルから30メートル掘っています。
当時は、屋敷の中には住まいのほかに台所など、何でも作ってよかった。屋敷の境には、芯があって、アリが食べないような堅い木で杭を打ちました。

・一日の食事
当時の食事は、朝に米をたくさん炊いておき、おなかがすいたときに食べました。夕方(夕食)には、鳥や魚を食べたが、魚は、雨季には自分(チョーンさん)が獲ってきて、乾季には西バライで魚1キロを1リエルで買ってきていました。夫は、16歳から1年間お坊さんだったため、魚を殺したことがなく、漁をすることはありませんでした。その頃は、野菜や米は買ったり売ったりするものではなく、足りないときは親戚や仲の良い人に分けてもらっていました。

ロンノル時代(1970年~1975年)も、その家で暮らしていましたが、内戦が始まると、逃げ回った記憶があります。まだプノン・ルーン村と呼ばれていたころのことです。

★ポル・ポト時代の強制移住
1975年から79年のポル・ポト時代には、ここから40キロ離れたドンム・レイロ地区のドン・ベック村へ移住させられました。強制移住は、家族を把握しやすくするためで、また、同じ村に長く住んできた人たちが、徒党を組んで抵抗することを、ポル・ポト政権が警戒したためだと、当時の人たちは思っていたそうです。
強制移住させられたとき、子どもがいない家族だったので、チョーンさんは土を運ぶ仕事、夫は木つくりの仕事と、別々の所で働いていました。
ポルポト時代は、サハコーという大きなグループが作られ、その中が7個から10個のグループに分かれて食事をしていた。一つのサハコーは100から200家族で構成されていたが、サハコーに米0.25キロ(一人当たりか?)が配られた。その米でお粥を作り、グループごとに食べた。食べ物はパパイアの根なども食べた。野菜の空芯菜やイモがあればよい方だった。シラ(水蓮)のような野菜を米とともに炊いてお粥を作ったこともある。餓死した人は100万人もいたといわれる。200万人の人が殺されたとされ、夫の親戚も4家族が殺されました。

★「ファミリーレコードブック」

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1993年から、クメール語で記載された「ファミリーレコードブック」(ファミリーノート)がつくられるようになりました。それまではフランス語で書かれた住民台帳を警察が所管していました。
結婚すると、妻と夫の2人が記載された、自分たちのファミリーノートを作ります。ファミリーノートは、地区長事務所で発行してもらい、その所管は内務省です。
そのファミリーノートにもとづいて、誕生証明やIDカードが発行されます。
亡くなったときには、地区長事務所で死亡証明書を出してもらいますが、ファミリーノートにはそのまま記載されています。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ピエム村の小学校2015年

ピエム村小学校は、1979年に設立されました。以前は小さなヤシの葉で葺いた建物だったそうですが、地区の費用とNGOの援助により、2007年に1つの建物をコンクリート製にし、翌2008年に2つ目の校舎を造り、今は校舎が3つになりました。それぞれに4つの教室があります。*ピエム村情報:西バライの北西、ドーン・ケオ地区。ロンノル時代までは、「ポム・プノン・ルーン」(プノン・ルーン遺跡のある村の意味)と呼ばれていたが、ポル・ポト時代に、「プノン・ルン村」になり、さらにポル・ポト政権崩壊後に「ピエム村」となる。
カンボジアでは、1997年から小学校と中学校は義務教育になりました。授業料は、公立の小学校・中学校・高等学校は無料です。新学年は10月から始まり、10月15日から8月31日までの学期で、9月1日から10月14日が夏休みです。2学期制が採用されていて、10月から4月上旬が1学期、2学期は4月下旬~7月です。
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学校の授業は午前の部と午後の部に分かれ、生徒は、毎月、午前午後を入れ替えて違う科目を受けます。1日の時間割は、午前の部は7時から11時、午後の部は13時から17時まで行われています。45分授業で15分間の休憩があります。クメール語の授業については、1時間45分の授業です。
以下の写真は10時少し過ぎ、休憩時間になった生徒たちは、次々と校庭に出てきました。生徒はピエム村からだけでなくコッポー村、コ・タ・ノート村など、3か村から通学してきています。
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ピエム小学校の一画に、できたばかりの保育園がありました。担当しているピン・バンハ先生 に、お話を伺いました。バンハ先生は、ポー群のシルクファームの近くに住んでいます。

★★バンハ先生(1974年生まれ、女性)★★
バンハ先生は、子供が好きだったので、先生になって、読み書きなどを理解できるように教育をしてあげたいと思い、先生の道を選んだそうです。
シェムリアップにある師範学校に入った時の同級生は133人。それぞれシェムリアップ州内の異なる群出身でしたが、全員が先生になろうとしていました。小学校の師範学校は州ごとにありますが、中高はまだ多くありません。師範学校(小学校は2年、中高は4年、大学は7年)を卒業し、教員免許状を取得すると公務員として働くことができますが、高校卒業のみであれば契約職員。
ピエム村の学校に来たのは2002年(13年目)で、この学校に来る前はアンコール・チュン(群)の学校にいました。2002年に来たときは、この学校も含め3校ありました。彼女は、昨年度までは小学3年生を受け持っていましたが、今年度は開園したばかりの保育園を担当しています。保育園は3~5歳の園児を受け入れています。教員になって24年目、保育園の先生も同じ公務員です。

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小学校の授業科目はクメール語、数学、社会、技術(テクノロジー)。みんなまじめに勉強をしていて、
毎月行われるテストの順位は、教室に発表されます。また、3か月ごとにあるテストで合格できない生徒は、学期末に再試験が行われ、再試験に合格できなければ留年になってしまいます( 3年まで留年あり)。基本的には、3日以上無断欠席した際は退学ということになりますが、生徒のためにできるだけ退学にならないように配慮しています。
小学校の教科書は、国が作成しカンボジア国内で統一されています。現在使われている教科書は、5年前に教育省で改訂されました。図書室の本は、2002年に政府から支給されたもので、古くなって破れているものが多い。政府からの支給は、その時の1度だけ。子供たちが使用する鉛筆やノートは、筆記用具、教科書、制服等は家庭で購入しています。

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カンボジアの中学・高校では体育の授業が行われていますが、小学校では体育の授業はありません。スポーツの先生がいないのと、ボールが1つぐらいしかなく道具が足りません。毎朝、体操を行ったり、授業間の休憩時間(15分)に、縄跳び等で遊ぶこともあります。運動会や遠足もおこなわれていません。

休憩時間に校庭で遊ぶ生徒たちを見ていると、思い思いに体を動かして楽しそうにしていました。左写真に見える校庭の隅のサンダルは、走ったり素早く動いたりするのに邪魔なので、ここに脱いであるようです。右写真の生徒たちは鬼ごっこをしているのでしょうか?少女の動きは、踊っているようにも見えました。
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下の写真には、日本の子どもたちも遊ぶ「ダルマさんが転んだ」のゲームのように、生徒が集まって、ルールを決めて遊んでいる様子もみられました。左写真の国旗掲揚台の前にも靴が脱いでありました。生徒たちは裸足で校庭を動き回ることを楽しんでいました。
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2015年12月のピエム小学校の校庭には、新たな水飲み場ができていました。上にタンク、下に浄化(濾過?)装置があり、その周り4辺に蛇口が付いていて水を受ける場所もありました。左写真の男性2人は、学校の先生です。蛇口の上にある絵を判読すると、1、蛇口から直接水を飲まないこと、2、水を流しっぱなしにしないこと、3、食器を洗うことができます、4、水を瓶に汲めます、5、料理に使えます、と描かれているようです。
12月は、生徒の中に熱やせき、下痢など風邪の症状が多くみられるそうです。マラリヤなどはありませんが、デング熱はごくまれにかかるようです。風邪などを予防するための方法は、学校では1年に3回、親とのミーティングがあり、手洗いの奨励などを行っています。この水道が設置されたことにより、子供たちの手洗いなどの衛生教育は、進んでいくことでしょう。
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先生たちも、手に飲み物を持って校庭にある休憩所に集まってきました。
ピエム村小学校では、14人(公務員が9名、契約職員5名)の先生が生徒を教えています。ピエム村に住んでいる先生は5人(公務員と契約職員を含む)。契約職員の制度は、小学校の先生が足りないために始まったそうです。ちなみに、公務員の給料は月150ドルくらい、 契約職員の給料は月135ドルくらいのようです。公務員の給料は全体的に昇給(来年から25%昇給)します。
カンボジアの小学校には、「木を切る日」といって、掃除やゴミ拾いなどを生徒全員で行う日がつくられています。ピエム村の小学校では、5週目の木曜日と決まっていますが、ガイドのチャーチさんの学校では、毎週木曜日に実施されていたそうです。
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ピエム村にも、英語学校ができていました。左写真の白い建物は民家で、その裏手に入った場所にある小屋に机を並べて英語を学んでいました。この英語学校は住民がボランティアで開いたものなので、授業料は無料です。ピエム村内からだけでなく、周辺の村からも生徒が集まってきます。
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小学校では、生徒たちの生年月日、視覚・聴覚などの障がいは把握していますが、身長や体重の測定は行われていないそうです。カンボジアへの支援が、これからは学校の建物だけでなく、体育などを含んだ教育プログラムにも広がっていくのでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ピエム村の概要

ピエム村は、西バライの北西、ドーン・ケオ地区にあります。ピエム村の位置を確認するために、2つの地図を掲載しました。左地図(参照:http://homepage1.nifty.com/Cafe_Saigon/cambodia/siemreap.htm))では、シェムリアップ市街地から北へ延びる道路の先にあるアンコール・トム遺跡を挟んで、東に東バライ、西に西バライを確認できます。右地図はアプサラ機構(アンコール地域遺跡保護管理機構: Authority for the Protection of the Site and the Management of Angkor Region、略称APSARA、1995年発足)が指定したアプサラゾーンの地図です。西バライの北西に位置するピエム村は、ソーン1に入っています。アプサラゾーンは、地図右下に記されているように、白地に赤い網掛け部がゾーン1(Monumental Sites、 遺跡地区)、その外側の黄色地に赤い斜線部がゾーン2(Protected Archaeological Reserves、考古埋蔵物保護地区)、白地に黒の網掛け部はゾーン3(Protected Cultural Landscapes、文化的景観保護地区)にわけられます。*西バライ情報/ 位置:アンコール・トムの西側/ スールヤヴァルマン1世(1011~1050)によって開掘が始まり、ウダヤディティヤヴァルマン2世(1050~1066)の統治下で完成。東西8㎞、南北2.2㎞、アンコール朝期最大の人造湖。
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以下に、ピエム村への行き帰りに撮影した4枚の写真を再掲載しました。左2枚は、西バライからの排出溝に架かる国道6号線の橋付近の朝8時頃の風景です。荷台に大きなかごを積み、両側にナベを吊るして西へ走って行くオートバイは、この先の村々に、鍋や食品を売りに行くようでした(2013年12月)。夕方午後5時30分頃には、市街地から国道6号線を西へ向かうバイクや自転車に乗った多くの人々とすれ違いました(右2枚、2014年9月)。
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国道6号線に架かる橋(上左写真)から西に7㎞ほどにある道を北へ曲り、プオックシルクファームの前(左写真)を通って北東に進んでいくと、水路に橋が架かっていました(左写真)。 「この用水は、西バライから引いています」とガイドさんが教えてくれました。橋の左上(北東)方向に、ピエム村があります。
CIMG6346シルクセンター CIMG6189バライからの用水路

橋を渡り東へ向かうと北側に、ピエム村を含む近隣4か村の寺「ワットドウールクポアス」が見えてきます(左写真左)。 「ワットドウールクポアス」の700mほど東には、「プノン・ルーン(Phnom Rung Temple)」遺跡があります。この遺跡は、プレアンコール時代の寺院遺跡で、かつては、レンガを高く積み上げた寺院が建っていたそうですが、今では、1辺130mの方形の土手に囲まれた中心部に、砂岩の基石と大きなヨニだけが残されています(右写真)、

★村の名前
ピエム村は、昔は、プノン・ルーン遺跡のある村、「ポム・プノン・ルーン」(ポムは村の意味)と呼ばれていたそうです。そのころは家数も少なく、村の集会があるときは、プノン・ルーン遺跡の奥にある「コック・チャー」(コックは「島」=「小高くなっている土地」を指し、チャーは「古い」という意味)に男女ともが集まったそうで、この場所が、昔は村の中心部だったようです。プノン・ルーンという村名は、植民地時代からロンノル時代まで使われていましたが、ポル・ポト時代に、「プノン・ルン村」になり、さらにポル・ポト政権下で「ピエム村」に変わりました。
CIMG6213ピエム村含む4か村の寺ワットドウールクポアス DSC07044

★村の田と水源
ピエム村は、昔から現在まで農業を生業としている村で、村落の北側に広い田が続いています(左写真2014年9月撮影)。右に掲載したアンコール地域の地形図(JICA(国際協力事業団が1996年から1998年にかけて行った地形図作成事業)を見ると、西バライの北西にあるピエム村は、等高線20mと15mの間に位置しています。クーレン山からの流れが、ラージェンドラバルマンの分流堰(Cの点)から、1つは東バライ方向へ流れるシェムリアップ川になり、もう1つが西バライ方向へ流れる「O Phaat川」となって、ピエム村まで流れ下っているのがわかります。
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ピエム村の東境に、ナーガの欄干で飾られた橋があります。この橋の下を流れる川が「O Phaat川」で、この流れから、村の田へと水が運ばれていきます。
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★村の世帯数と人口
・2012年7月 244家族、1334人(うち女性は689人)、
・2014年5月 277家族、1,606人(うち女性は770人)というデータがあり、さらに
・2015年の家族数は305、人口は1800以上、と、3年の間に約60家族、400人以上が増えていることになります。 家族数の増加は、結婚して家族の単位に数えられるようになったもの、人口増は、結婚による婚入者の増加と出産による人口増と説明されました。データの取り方に差があるとしても、近年の家族数・人口数の増加は、ピエム村に起こっている経済的・社会的な変化と連動しているものと思われます。
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★アプサラゾーン1指定
最初に示したように、アプサラ機構は、遺跡周辺の環境を維持することを目的に、新しい住居や棟を作ることを厳しく規制しているので、規制区域内にあるピエム村では、新たに家屋を建てることはできません。そこで、家族数の増加に対して、同一屋敷内にあった小さな建物・家屋(居住していない小屋や炊事場などで、屋根があるもの)を改築したり、あるいは親夫婦が住んでいる高床式家屋の1階部分を囲って部屋を作り、生活を始める新夫婦が増えています。
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★バンティアイ・スレイNGOの支援
ピエム村では、2006年からバンティアイ・スレイNGO(以下BSNと記す)が支援活動を行っています。主な活動は、BSNが借り上げた水田を、田を持たない村人が耕作し、労働と引き換えにコメを受け取ることができるという支援です。村には、BSNが管理する米備蓄倉庫がつくられ、前述の水田の余剰米や、収穫期にBSNが買い上げた米などが備蓄され、村人に米が行き渡るように支援しています。
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現状では、アンコール遺跡群の観光化による直接的な影響はあまり受けていないピエム村ですが、村の南西4㎞程のところにつくられたシルクファームは、若い女性たちの働き場所になっています。

写真/文 山本質素、中島とみ子

北スラスラン村の市場2015

2015年12月朝9時頃、市場前の観光道路(アスファルトの脇)に赤い土を敷く舗装が行われていました。この時間、道路沿いの北スラスラン市場の店は、少ししか開いていませんでした。右写真右側に立つゲートは、ロハール村と北スラスランの間を通る道路にかけられているものです。このゲートから先に、村境を意味する「プサーラック」と呼ばれる市場があります。「プサーラック」は、村境の道沿いに70m位続いています。
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ゲートの右側から見た市場入口付近の光景です。シートの上に衣類を広げている店には、大勢の女性が集まっていました。ガイドさんの説明では、これらの衣類はタイから持ってきているということでした。その右のバイク横に立つ巻きスカート姿の女性は、バイクタクシーで買い物に来たようでした。右側の大きな赤い屋根の建物は、レストランです。
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レストランの前に並んで野菜や小魚の店を出しているのは、近隣の村の女性たちです。彼女たちのように、地面にシートを広げて商売する場合にも場所代が500リエルほどかかります。小魚を調理したものをバケツに入れて持ち込んで売っている女性もいました(右写真)。バケツ2個分のスペースで1000リエルほど。ロハール村からも20店舗ほどが出店していると聞きました。
下2枚の写真は、9時8分の売り場の様子です。女性たちの前に山積みの野菜があります(左写真)。
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上の写真から45分過ぎたころ。再び通ると、彼女たちの前の野菜は少なくなっていました。赤いチェックの上着を着た女性の奥は、売っている品物も人も変わっていました。少しすると(10時ころ)赤いチェックの上着の女性が、市場の奥の店で焼き魚などを買っている姿を見かけました。彼女は、野菜を売った帰りに魚などを買って家に帰るのでしょう。
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女性にまじって、パラソルの下でビニールに入れた食品(漬物?)を売っている男性を見かけました。そばに停めてある自転車の後ろに付けた籠の中にも商品が入っているようでした。子どもたちが集まっていた店は、パラソルの下でおもちゃや菓子などを売っていました(右写真)。
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市場の中ほどに屋根がかかった売り場があり、そこでは野菜や肉・魚を売っていました。屋根つき小屋で出店するには、借り賃1日4000リエル(1ドル)が必要で、事前に事務所などで出店の交渉を済ませます。
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鶏肉や豚肉は、小分けした塊で売られていました。
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生きた魚の入った大きなタライを前に、台の上に座った女性たちが巧みに魚をさばいています。こうした光景は、プサールやオールドマーケットなどでも見かけました。
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市場の奥(北)にあるレストランには、ベージュの制服姿のガイドさんたちや、黒い制服姿の警備員(?)の人たちが多く見えました。
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市場の入口付近に戻ると、服の販売していた女性が、荷物を片付けて荷車に積み込んでいました。時間は10時少し前でした。市場で売る商品は、バイクで運んだり、付近の倉庫に保管したりしているようです。
観光道路脇で開いている両替所(右写真)は、シェムリアップの人が運営していて、ここで多く行われているのは、ドルとリエルの両替です。観光産業に関わっている地元の人たちが、1ドル4000リエル以上(4080リエルなど)のレートのタイミングで交換しようと、この両替所を利用しているようです。
CIMG0268 CIMG6020両替所

2014年9月には、ロハール村と北スラスラン村の間の道を、男性たちが大きな水瓶を市場方向へ運んでいくところに出合いました(左写真)。写真の奥が「プサーラック」で、この道が観光道路と交わるところに、右写真のゲートが立ちました(2015年12月撮影)。
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ゲートの左(西側)には、1983年から開かれている「北スラスラン市場」があります。店先に並ぶ果物や野菜は、品数も量も豊富でした。左写真の右側はサトウキビジュースの店で、サトウキビをしぼる機械でがあり、その場でジュースにしてくれます。
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この市場で目を惹くのは、その場で食べられるデザート風のものや、炭火の上で焼かれている串刺しの魚や鶏肉などでした。スラスランとバンティアイ・クディ遺跡観光に訪れる観光客も、この市場に立ち寄っていました。
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写真右側(南)にスラスラン池、手前(西)にバンティアイクディ遺跡があるこの場所は、アンコール遺跡観光の、小回りコースと大回りコースが合わさる場所になっています。観光道路に沿って店が並ぶこの市場は、周辺の村やシェムリアップから50軒以上が出店していますが、出店料は、壁や屋根がある大きいお店で1ヶ月50ドル、小さいお店は1500リエルほど。北スラスラン村は、この奥に広がっています(2015年12月撮影)。
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土地の人々は、観光道路沿いの「北スラスラン市場」と、村の中にできた「プサーラック」とを併せて「スラスラン市場」と呼んでいます。北スラスラン村やロハール村の人たちにとって、スラスラン市場は、朝にはコメを、夕方には焼いた魚や鶏肉などを購入することのできる便利な市場になっているようでした。市場が近くにある暮らしは、女性の社会進出を後押しし、自給自足的な農村の生活をも経済活動に組み込んでいっているようです。

写真/文 山本質素、中島とみ子