ワット・ダムナック(Voat Damnak)

ワット・ダムナック小学校の校庭から、どっしりとした祠堂塔を臨むことができます。この塔の建っている場所が、ワット・ダムナックのほぼ中央にあたります。塔の左後ろに見えているのが本堂で、左隅の白い建物は、インターナショナル・イングリッシュ・スクールのようです(左写真)。中央に建つこの塔には、プリア・コーなど多くのアンコール遺跡と同様に、扉の両側に門衛神ドヴァラパーラが彫られていました。そして、扉の上には、釈迦のレリーフがありました。
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写真の高い塔は、火葬塔のようです。ハスの花を手にしたデヴァターのレリーフが、各段の扉や偽扉の左右を飾っていました。
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カンボジアでは、人が亡くなると棺に入れてお寺に運び、火葬塔で荼毘にふされます。遺骨は、寺院で用意した場所にみんな一緒に納めてもらいますが、仏塔を寄進してその中に納める場合もあります。カンボジアでは、仏塔のことをチャイダイと呼ぶそうです。
ワット・ダムナックには、寄進されたチャイダイがたくさん並んでいました。右から2番目写真のチャイダイには、両側に名前が書かれていました。右側には祖考**公之墓、左側には祖妣考**公之墓とあり、それぞれ、生年と終年が記されていました。漢字で記されたこのチャイダイは中国系の人のお墓のようです。
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新しく建設中の塔は、コンクリート製のようですが、扉の上には、ナーガに囲まれた釈迦像がありました(左写真)。長方形の池(貯水池)の中に建つ黄色い建物にも、釈迦が描かれていました。2013年12月に撮影した写真ですが、雨期には、周囲の水を飲み込んで水かさが増すのでしょう。人工の池インドラタターカ(インドラヴァルマン1世がロリュオス地方に開掘)の中心に建てられたロレイ祠堂(ヤショヴァルマン1世(889~910頃)が建立)や、 東バライ(ヤショヴァルマン1世の統治時代(900年頃)に造られる)と東メボン(ラージェンドラヴァルマン1世(治世944-969)が952年に建立)などと規模は異なりますが、込められた思いは同じでしょう(右写真)。
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池の南側に並んで建つ明るい建物は、僧坊でしょうか?中ほどに石棺が置いてあるのが見えます。小学校は、この建物の後ろ側に建っています。
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丸い小さな池の中に造られているのは、須弥山を象ったものでしょう(左写真)。寺院に尼さんはいないので、写真の女性は、寺女と呼ばれる女性かもしれません(右写真)。
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階段の両脇を白い象が護るこの建物が、本堂です。天蓋を備えた釈迦像が、円形のハスの池の中に立っていました。近くに置かれたテーブルには、若い女性たちの姿がありました。 DSC02482

ワット・ダムナックの西門へ向かうと、門から男子生徒が入ってくるのが見えました。自転車置き場にも、若い女性の姿がありました。時間は16時25分。インターナショナル・イングリッシュ・スクールは、この時間から、授業が始まるのかもしれません(左写真)。
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ワット・ダムナック(Voat Damnak)付近の地図を再掲載しておきます。(参照地図:http://www.angkorresort.com/map/map_watdamnak.html)

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オールド・マーケット・ブリッジの東岸、Higt School R.d(北)とワット・ポーロード(東)に囲まれた区画に、ワット・ダムナックは位置しています。その区画内の北側、Higt School R.d沿いには、ホテルやレストランなどができています。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ワット・ダムナック小学校

シェムリアップ川に架かるオールド・マーケット・ブリッジの東岸に、ワット・ダムナック(Voat Damnak)があります。(参照地図:http://www.angkorresort.com/map/map_watdamnak.html)私たちは、ワット・ダムナックの南東の角に建つ小学校(WATDAMNAK Primary School)の門から、寺院の敷地内へ入りました。
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時間は午後4時20分。入口付近で、赤い紐のついた笛を首から下げた女生徒に会いました(左写真)。校庭の奥では、数人の男子生徒が国旗を降ろしている最中でした(右写真)。
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カチューシャをした少女が駆け出しました。周りを見ると、校庭にいた生徒たちも、一斉に動きだしています。みんな教室へ戻るようです。DSC024692

少女たちは、2~3年生くらいでしょうか。学校で友達と一緒にいることが、楽しくて仕方がない様子に見えました(左写真)。国旗を降ろしていた男子生徒は、降ろした国旗を風になびかせながら走っていきました(右写真)。
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つぎつぎに生徒たちが走っていきます(左写真)。一部の生徒たちが、校庭の一画にあるポンプ井戸のところへ向かっていました。カンボジアでは、子どもたちに手を洗う習慣があまりないということも聞きました。小学校では、遊んだ後に手を洗うことを教えているのでしょう(右写真)。
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後ろの方から、男の子たちがふざけあいながら歩いていきました(左写真)。生徒たちは、それぞれの教室に入っていきます。日本でいえば、1日の授業の終わりのホームルームが、これから始まるのでしょうか。遊んでいるときも、教室へ戻るときも、生徒たちは体中で楽しさを表現しているようでした。
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生徒がいなくなった校庭には静寂が戻り、校庭の先には、ワット・ダムナックの建物や塔が現れました。
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カンボジアでは、多くの寺院に小学校が併設されています。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ワット・ボー(Wat Bo)

2013年12月26日午後4時50分ごろのワット・ボー・ロードには、多くの僧侶たちの姿が見られました。僧侶たちは、布製の袋を肩から掛けたり、手に冊子を持ったりしていました。ワット・ボー・ロードは、シェムリアップ川に架かるワット・ボー・ブリッジを渡った、川の東側を通る道路です。道や橋にワット・ボーの名が付けいているのは、これらの道や橋が、ワット・ポーへの寄付金によって造られたものであることを示しています。 DSC025221

18 世紀に建立されたワット・ポーは、現在、シェムリアップの中で最も僧侶の多い寺院です。シェムリアップにある寺院の僧侶数は平均25人くらいですが、ワット・ポーには、100人から120人くらいの僧侶がいるそうです。
遠藤宣雄氏が2002、2003年に調査したワット・ポーでの僧侶の一日を、以下に示しました。
04:00 起床/ 04:00-06:00 祈祷/ 06:00-07:00 托鉢(バン・バッ)/ 07:00-07:30 朝食/ 07:30-09:30 ボー寺院の学校でパーリ語学習/ 09:30-11:00 自学自習/ 11:00-12:00 昼食/ 12:00-14:00 仮眠または自学自習/ 14:00-16:30 ボー寺院の学校で学習(仏教史、仏教経典、教養学科など)/ 16:30-19:00 英語・自学自習/ 19:00-20:00 祈祷/ 20:00-21:00 または22:00 まで自学自習/ 22:00-就寝
ワット・ポーは、カンボジアにおける僧侶の修行施設としても機能しているということです。
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1970年代以前のカンボジアでは、田舎で暮らす男性のほとんどが出家したそうです。出家する理由の1つは、知識を増やし、社会のことを知り、真の男になるためであり、周囲の人々も「人間的に偉くなった」とみなしてくれるためと言われます。 2つめとして、大人の男性として認められ、結婚ができるようになると考えられています。そして、3つ目に挙げられるのが、「ボーッ・サォンクーン・マダイー」と言われるもので、母に善行を返すためとされます。参照:http://www.cambodia-j.com/colum/Sotheavin_colum/Sotheavin_01.html
現在でも、多くの男性が一時僧として出家を経験するそうです。
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ワット・ポーの方向から、バイクタクシーに乗った僧侶が出てきました(左写真)。バイクタクシーを使う僧侶たちは、少し遠出をするのでしょう。右写真の建物の前に、オーナメントが置いてあるのが見えました。DSC02538 DSC02552

この建物で、寺院のオーナメントを修復したり、造りなおしたりしているようです。
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建物の階段を、白い上着を着た男性たちが上がっていきました(右写真)。彼らは寺院に寝泊まりし僧侶の世話をしながら修行する寺子と呼ばれる人たちのようで、ワット・ポーには、70人以上いるそうです。
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大きな太鼓が置かれていて、1人の僧侶が叩いていました。その横には仏像も見えました(左写真)。ナーガの形に整えられた植込みの横を、自転車に乗った少年が走ってきました(右写真)。
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車輪の小さいマウンテンバイクのような自転車に、木陰にいた少年が興味津々で近づいてきました(左写真)。傍のベンチでは、2人の僧侶が冊子を読んでいました。出家僧と少年たちとが、当たり前のように一緒にいる風景に、カンボジア社会における寺院の存在(身近にあること)を感じました。
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上左写真がワット・ポーの本堂だと思いますが、本堂には、ラーマヤナの話や、フランス人がカンボジアに入植してきた当時の様子を描いた壁画があるそうです。ワット・ポーは、タイの領土であった18世紀から、フランスの保護国(1863年~1953年)であった時期、シアヌーク時代、ポルポト政権そしてそれに続く内戦の時代を、地域の人々とともに見てきたのでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子

シェムリアップ川と橋

アンコール王朝が栄えた要因の1つに、年間を通して流れるシェムリアップ川の存在があるとされます。以下に掲載したシェムリアップ川の地図は、CITY RIVERレストランに貼られていたものです。
自然河川であるェムリアップ川の全長は、約90㎞。北のクーレン山に源を発し、トンレサップ湖に流れ込んでいます(左写真地図)。その流れは、かつては、東バライ(東西7,150メートル、南北1,740メートル、約5,000万立方メートルの水を保持)へと注いでいましたが、現在では、東バライに沿って南西へと流れ、アンコール・トムの東側で南下します。そして、アンコール・ワット寺院等の環濠や灌漑用水として一部取水されながら流れ下って行きます。この辺りが、源流から約70㎞の地点になるそうです(右写真地図)(参照:http://www.chs.nihon-u.ac.jp/institute/nature/kiyou/2014/pdf/2_5.pdf)*東バライ情報/ 位置:アンコールワット東門から東バライの南西角まで直線距離で約4㎞ / ヤショヴァルマン1世の統治時代(900年頃)に造られる。
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アンコール遺跡の間を南下したシャムリアップ川は、約80km地点でシェムリアップ市街地を流れます。左写真の地図(以下地図Aと記す)には、市街地を流れるシェムリアップ川に架かる橋の名前が、北(上)から、「Naga Bridge」、「Stone Bridge」、「Wat Bo Bridge」、「Wat Prom Rath Bridge」、「Old  Market Bridge」と記されていました。
 右写真の橋は、地図Aでいちばん上(北)にあるNaga Bridge(ナーガ・ブリッジ)です(2012年12月撮影)。
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ナーガ・ブリッジの下流(南)に、最近整備されたスピアン・ニヤップがあります(2013年12月撮影)。 スピヤンは「橋」、ニヤップは「龍」とういう意味です。路肩に置かれたシンハ像は、整備される前からこの橋を護っていたのでしょう(右写真)。
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以下4枚は2012年12月、スピアン・ニャップからStone Bridge(ストーン・ブリッジ)までのシェムリアップ川沿いの橋と風景です。カンボジアの乾期にあたる12月、シェムリアップ川の流れは穏やかで、土手のあちらこちらに、釣りをする人の姿が見えました(左写真、下右写真)。
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地図Aでは、ナーガ・ブリッジとストーン・ブリッジの間に、4本の橋があります。、一番上の橋がスピアン・ニヤップ、下流の3本のうち2本が写真の橋です。名前はわかりませんが、シェムリアップの東西の岸をつなぐこれらの橋の東岸には、寺院を示す赤いマークが記されています。DSC09735 DSC09739

シェムリアップ川と国道6号線が交わる橋が、ストーン・ブリッジです。左写真は、東岸のリバー・ロードから西岸を写したもので、橋の先には、ロイヤルガーデンがあります。右写真には、下流のWat Bo Bridge(ワット・ボー・ブリッジ)が見えています。
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ワット・ボー・ブリッジは、両岸にナーガ像が立ち、欄干は仏像のレリーフで飾られていました。地図Aで、シェムリアップ川の東岸Wat Bo streetの東にある赤いマークがWat Boです。
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写真は、Wat Prom Rath Bridge(ワット・プロム・ラット・ブリッジ)です。西岸にはWat Prom Rathがあります。シェムリアップ川に架かる橋の多くは、両岸にある寺院へと続いていました。特に、東岸には、寺院と僧坊を中心に、人々が生活する地域がひろがっているようでした。
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Old  Market Bridge(オールド・マーケット・ブリッジ)の西岸に、オールド・マーケットがあり、そして東岸に、voat damnak(ワット・ダムナック)があります。シェムリアップ川の東西に広がる市街地には、60,000人もの人々が住んでいるということです。
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オールド・マーケット・ブリッジのすぐ南に、東岸のシェムリアップアートセンターへと続く、屋根つきの橋が2本架かっていました。この橋は、人が渡るためのものです。
DSC09381(1階=2階)テラスから

ナーガ・ブリッジからオールド・マーケット・ブリッジまでのシェムリアップ川の東岸を走る道路は、リバーロードと呼ばれています。リバー・ロードは、フランス領時代に造られた細いアスファルトの道で、時を経て、崩れたりしていました。カンボジアに国連が入った1993年から、カンボジア全土での道路の整備が始まり、観光地であるシェムリアップは、比較的早く、2000年頃からJICAの援助で、道の舗装が行われるようになりました。リバー・ロード も、そのころに整備されたようです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

タノールの人々

タノール地区は、コースノール地区の北に位置します。以前はタノール村と呼ばれていましたが、内戦後に行政区が再編される過程で、ロハール村に編入された地区です。写真は2013年3月に、ロハール村内を東西に走る道路から田んぼを隔てて撮影したタノールの寺院です。タノール地区は、この寺院の北側に広がっています。*ロハール村情報/位置:アンコールワットから約4㎞北東、バンテアイ・クディの北側。西はタ・プロムに接し、東は北スラスラン村と接している。
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寺院を訪れると、奥の建物の入口で、僧侶と少年にあいました。少年は、手に持ったおにぎり(?)を食べていました(左写真)。時間は午前9時50分。寺院の炊事場には僧侶の姿があり、カマドからは煙が上がっています。朝の托鉢を終えて、食事の準備をしているようでした(右写真)。
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スツーパが立つ南側には田んぼが広がっていますが、この田は、タノール地区に属していないそうです。スツーパの隣には、大きな木が2本、涼しそうな木陰をつくりだしていました。その下にはベンチやハンモックがありました。
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2013年12月には、集会所を兼ねたこのタノールの寺院で、地区の人々へのアンケート調査を実施させてもらいました。朝7時半ごろ、寺院を訪れると、少年が集会所の掃除をしていました(左写真)。奥には僧侶の姿も見えました(右写真)。
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アンケートに協力するために集まってくれた人たちは、スツーパのまわりや、木陰になっているベンチの周りなど、思い思いの場所に坐っていました。寺院の境内には、新たな石碑が建てられ、灰色だったスツーパは、濃いオレンジ色、尖塔の部分は金色に塗られていました。DSC027191

集会所の前に腰を下ろす人々の中には、髪を短くしている女性も多くみられました(右写真)。カンボジアでは、夫を亡くした女性が頭髪を剃ることもあるそうです。
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境内では、子どもたちが遊ぶ姿が、あちこちに見られました。DSC02724 DSC02721DSC02714 DSC02727

アンケートを終えて帰る私たちの車を見送ってくれたのも、子どもたちでした。
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2013年のカンボジアの識字率は76・3%ということです(参照:ウィキペディア)。フランスの保護領であった時代、そして、クメール・ルージュ時代に教育が禁止された影響などもあり、年長者の識字率は、高くありません。今回のアンケートにも、付き添ってきて、アンケートの文章をおばあさんやお母さんに伝えてくれていた中学生が多くみられました。

写真/文 山本質素、中島とみ子

コースノールの住居

コースノール集落には、新旧を含めた住居が見られました。
カンボジアの伝統的家屋は、ヤシの葉で屋根や壁面を葺いた高床式家屋です。
写真の住居は、壁面をヤシの葉で、屋根をトタンで葺いた高床式住居です。女性が書き物をしている台の上には、編まれたヤシの葉が積んでありました。撮影日が2013年3月中旬だったことを考えると、正月(4月中旬)を前に、南側の壁面を新しくするために準備しているようでした。日本人が、正月を前に障子を張り替える慣習と似ている感覚なのかもしれません。階段を上った入口には、昨年の正月飾りが掛かっていました。
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少し行くと、高床式の1階にいた男の子が私たちを見つけました。後ろのジーンズ姿の女性は母親でしょうか。足元には、編んだヤシの葉が重ねて置いてあります。この家でも、壁面を新しいヤシの葉で葺きかえるようです。1階では、伝統楽器スコーづくりもしている様子でした(左写真右方向)。高床式家屋の屋根よりはるか高い竹竿が立ち、その先にはテレビアンテナが取り付けてありました(右写真)。
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日中の日差しを避けて、高床式家屋の1階に集まっている家族がいました。こうした光景は、ロハール本村でもよく見られます。カンボジアの家族の住まい方は、一般的に、結婚すると男性が妻の家に住むために、そばに新しく家を建てたり、年老いた両親の隠居家を建てたりしてきました。写真の右側に建っている家屋も、そのようにして建てられたものかもしれません。
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また、壁面を板張りにした高床式家屋や、その1階の一部を部屋のように囲っている家屋もありました(左写真)。右写真は、高床式の1階部分をレンガで囲う作業が行われている家です(右写真)。
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コースノール集落とその隣のロンタオ集落では、高床式の1階部分を住居のようにしている家屋が多く見られました。高床式家屋の1階部分を住居スペースとして使用するようになった背景には、遺跡保護の観点から、新たに家や小屋を作ることが難しくなっていることがあります。以前は、家族が増えるのに合わせて、隣に住居を建て増して住んできた人たちが、高床式の1階を住居として使うようになっているのかもしれません。
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カンボジアで、高床式家屋が受け継がれてきたのは、暑さと雨期の洪水に対応した家屋だったためでしょう。1階を住居として囲うと、雨期の洪水の不安が想像されます。その対策の一つでしょうか、水門がつくられていました。
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道路沿いの家には、塀がつくられていました。塀は、レンガ造りのものばかりでなく、左写真のように、竹とヤシの葉を組み合わせクネなどもあり、様々でした。これらは、道路(公道)との境を明らかにするために、作られているようです。
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ロハール村の中を通る道路を、タ・プロム遺跡の方向(西)へ、2台の自転車が通っていきました。後ろの青年は、伝統楽器スコーを肩に下げています。遺跡を訪れる観光客に売りに行くのでしょうか。その前を行く男性の自転車のハンドルには、弁当箱などがぶら下がっています。時間は11時10分過ぎ。遺跡で働く家族に、弁当を届けに行くようです(左写真)。
道沿いに広がる田んぼで、大勢の人たちが集まって小屋を作っていました(右写真)。
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「結婚式の小屋を、設営しているのでしょう」とガイドさんが教えてくれました。この小屋の屋根に、カラフルなテントがかけられて、結婚式の宴会場になるようです。DSC01677

カンボジアでは、花嫁の実家で結婚式を挙げ、花婿は花嫁の両親と同居することが一般的のようです。姉妹がいる場合は、農村では、上の娘は家だけ建ててもらい、末娘が両親と一緒に暮らし、田畑も相続するという話も聞きました。

写真/文 山本質素、中島とみ子

コースノールの人々

ロハール村コースノール集落へ、アンケート調査のために、午前7時ごろ行きました。井戸の傍で洗濯をする少女(左写真)や、植物に水をやる女性などがいて、村人の1日はもう始まっていました。
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集落の人々がアンケート調査に協力するために、区長さんの家の前に集まってきました。
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集まってくれた人々の中には、中学生くらいの少年もいました。彼らは、「祖母の代わりに来ました。アンケートを受けていいですか?」と言うので、アンケート用紙を渡すと、真剣に書き込んでいました。コースノール集落には、若い人たちが多く住んでいるようでした。
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8時頃、道路を隔てた場所では、2人の若者が、高床式の一階にレンガを積む作業を始めていました。
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8時50分ごろ、2人の僧侶が、会場の前を通っていきました。彼らは、タノール地区にある寺院から朝のお勤めにまわっているのでしょう。
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9時半ごろ、近くの炊事小屋で、2人の女性が食事の準備をしていました(左写真)。庭に、ポンプ井戸が見えますが、そのそばに、ブルーの管が通っていたので、モーターで水を汲みあげているようでした。
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このころには、アンケートのために集まった人々も、家へ帰っていきましたが、地区の役員さんと子どもたちが、私たちが帰るまで、残っていてくれました。DSC02298

祖母の代わりに来たという2人の少年たちは、アンケート用紙に自分の名前と年齢を書きこんでいきました。このアンケートは、カンボジアの人々の幸福感についての調査を内容としたもので、実施に際しては対象の年齢を設定しています。しかし、少年たちの求める幸福は、これからのカンボジアの方向性を理解するうえで、有用なものになるでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子

村の店舗

ロハール村には数軒の店があります。写真の店は、道標が立つ村の東南入口から約200mほど北へ行ったところにあります。ロハール村を訪れるたびに、通っていたこの店の前を、定点観測してみました。訪れたのは、2012年12月、2013年3月、2013年12月の3回です。*ロハール村情報/位置:アンコールワットから約4㎞北東、バンテアイ・クディの北側。西はタ・プロムに接し、東は北スラスラン村と接している。
まず、1回目は2012年12月です。店の前の道は、南(手前)から北へと通っています。写真は、同行したブティさん(上智人材センター)が、調査のお礼として、店で菓子を買い、子供たちに渡しているところです。店は、ヤシで壁面を葺いた高床式家屋の1階、東南角に作られています。道を挟んで店の東には、カマドがつくられ、ちょっとした広場のような空間がありました。
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左写真が、店の東側に並ぶ商品で、スナック菓子やクッキー、パンなどがビニール袋に入って吊るされていました。台の上のビニール籠には、飴やラムネなどがばら売りされています。右写真は店の南側で、並ぶ商品の中に、味の素がたくさん吊るされていました。
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左写真は、店の裏側、2階へ上がる階段付近から撮影したものです。右写真は、カマドの作られている小屋から、南側を撮影したもので、伐採された木々が見えます。
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2013年3月の店の前です。小さな子供を連れた母親と、その母らしい人が店番をしていました。店の前の道を挟んで、カマドの手前(南側)に、新たに休憩用のテーブルとイスが設置されていました。小さな男の子が座っています。
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そして、店舗の南側の壁面の一部が、赤いトタン板の下屋に変わっていました。2012年12月には、商品が並ぶこの場所は、ヤシの葉で葺いた壁面を少し張り出させて、下屋のようにしていました。左写真で、ヤシの葉が3本立て掛けられているのは、日差しを防ぐためなのでしょうか。右写真、カマドのある小屋の隅には、空のペットボトルが何本も吊るされていました。
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店の商品は,2012年12月の時とあまり変わっていないようでした。店の東側には、前回同様、味の素の袋がたくさん吊るされています。
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2013年12月には、店の横に木材(板がたくさん積まれていました。店を改修するために置いてあるのでしょうか。
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でんぷんを発酵させて製造する味の素は、アジア地域では、主原料としてキャッサバが使用され、発酵させる工場は、タイとベトナムに集約されています。その他の国では、製造された味の素をバルクで輸入し、これをマーケットに合わせてパッキングしています(参照:http://blog.goo.ne.jp/economistphnompenh/e/bb37b5390419d7c45929e378d09d95f1)
カンボジアでは、大量に使われるために、500gと250gの袋詰めになっているそうですが、ロハール村の店では、25g位の小袋が10綴りになった味の素が売られていました。
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2013年12月には、ロハール村の数地区でアンケート調査を実施しました。その際、人々へのお礼の品として味の素を選びました。「カンボジアでは味の素が喜ばれます」というガイドさんの助言によるものです。ちなみに、プサール市場で購入した味の素は、250グラム袋で、値段は3000リエル(約75円)でした。
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2010年9月に、味の素は、プノンペン経済特区に新工場を建設したそうです。『日本経済新聞』(2010年10月6日)の「人こと」欄に味の素・伊藤社長のカンボジアについての印象が紹介されています。そこでは、 「若年層に活気があり、市場の店員の反応も明るい」。「人口1300万人の小国だが、「味の素」の1人あたり年間消費量はタイ、ベトナムに比べ1~2割多く人口以上に成長が見込めると期待」しているとのべられていますhttp://ueda-seminar.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-612f.html
カンボジアでは、ご飯にスープをかけて食べることが多く、スープに入れるうま味調味料として味の素が使われるそうです

写真/文 山本質素、中島とみ子

牛車づくり

ロハール村には、木工細工のできる作業小屋が、何か所かにあります。アプサラの建築規制により、新たに家や小屋を作ることが難しくなっているため、木工細工をする人たちは、交代でそれぞれの小屋に来て、牛車などを作っています。 すでに紹介した2012年12月の様子に続き、今回は、2013年3月16日の作業小屋について紹介します。
この日、最初に訪れた小屋では、2人の男性が作業中でした(10時25分)。1人は、丸太の上に乗せた木片を丸く削っているところで、その後ろでは、もう1人の男性が、細長い板に彫り物をしていました(右写真)。
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1人の男性が、彫っていた板を切り始めました。カンボジアのノコギリは、縦に挽くので、小屋に張った床と土間の高さの差を利用して、板を切っていました。何本ものノコギリが、立て掛けられたり、上から吊るされたりしていました。小屋の外(写真の右)には発電機が見えました。
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別の作業小屋には、3人の男性の姿がありました(10時37分)。小屋の一隅に、大小の牛、子どもを抱いた女性の人形、ヤモリなどの木工品が置いてありました(右写真)。ヤモリは、日本では家を護ることから家守り’の名を持つとされますが、カンボジアでも幸福をもたらすものと考えられているそうです。
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1人の男性は、牛を彫っているところでした(左写真)。その後ろの方では、牛車の部品を作っていました(右写真)。
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上の作業小屋に、翌日(2013年3月月17日9時40分)行くと、昨日とは別の男性が牛車づくりをしていました。
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下の写真は、村の入口に設置されている牛車ツアーの広告板です。今、ロハール村では、手作り工芸の土産物としての牛車を制作するだけでなく、観光客を対象として、実際に牛車に乗って村を回るツアーも行われているようです。
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ロハール村の人々は、牛と一緒に生活をし、村の中では、飼われている牛や荷車をあちらこちらで見ることができます。身近で牛を見てきた村人の経験は、手作り工芸品の牛車に生かされています。観光客を乗せる牛車ツアーは、村の生活にどのような影響をもたらすのでしょうか。

写真/文 山本質素、中島とみ子