クワイさんの家

サンダイ村に住むクワイさん(左写真)には9人の子供がいますが、現在は長男の家族と一緒に暮らしています。右写真の男性が、クワイさんの長男で、彼には8人の子供がいます。
????? DSC06026息子51歳

写真右にある高床式の家屋が主な住居で、左手前のアシで葺いた小屋が炊事場になっていました。その奥の小屋は、穀物倉庫のようです。クワイさんの家の庭には、ここへ移ってきてから植えた木々が育っていました。
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木陰に置かれたイスでくつろいでいるのは、クワイさんの家族です。網を修理しているのは、クワイさんの長男です。井戸のそばにも、魚を獲る籠が掛けてあったので、近くで漁もできるようです。
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2人の少女がオートバイで戻ってきました。制服(スカート)を着た後ろの少女を、学校まで迎えに行ってきたようです(左写真)。彼女たちはクワイさんの孫です。家の前に開いた店でパームシュガーなどを売っているのは、クワイさんの孫とその子供(ひ孫)です。
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クワイさんの庭にはミルクフルーツの木もありました。下の方にまだ青い実しかないのを見ると、クワイさんの息子さんは、いとも簡単にその木に登りはじめました。
DSC06014ミルクフルーツ DSC06017

そして、木の上の方で熟したミルクフルーツをとってきてくれました。
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リンゴのようなミルクフルーツは、割って食べるとミルクの味がしました。
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州知事の指示で道路沿いに転居してきたクワイさんの家族は、サンダイ村で生まれたひ孫も含めた大家族で暮らしていました。この村で生まれた男の子のふるさとはサンダイ村ですが、彼らを見守る家族たちにとっても、サンダイ村がふるさとになっていくのでしょう。

写真/文 山本質素・中島とみ子

ヤシの実

パームシュガー造りが盛んなサンダイ村ですが、ココヤシの木もたくさんありました。左写真で、手前が砂糖ヤシの木(オウギヤシ)で、奥に見えるのがココヤシの木です。クワイさんの屋敷内に、芽を出したココナッツの実が何個もまとめて置かれていました(右写真)。
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少し離れたヤシの木の下には、1メートルほど茎の伸びたココヤシの実がやはり何個もまとまってありました(左写真)。ヤシの木はこのようにして芽を出し、成長して数十メートルにも育っていくのでしょう。
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クワイさんの息子さん(51歳)が、庭にあるココヤシの木を見上げていましたが(上右写真)、おもむろに登り始めました。そしてあっという間に、ココナッツの実を採ってきました。
DSC06004ヤシの木に登る息子 DSC06011

しばらくすると、今度はジーンズをはいたクワイさんの孫が、同じココヤシの木に登っていきました。
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そして、ヤシの実を胸に抱えて、するすると降りてきました。
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周辺の森で暮らしてきた男性たちは、いともたやすくヤシの木に登っていましいた。男性たちのこうした能力が、ヤシの木の樹液採取に生かされて、パームシュガー造りを支えているのでしょう。

写真/文 山本質素・中島とみ子

バームシュガー造り

サンダイ村には、大きく育った砂糖ヤシの木がたくさん生えています。パームシュガーは、この砂糖ヤシの花穂からとれる液で造られます。左写真で明るい緑に見えているのが花穂のようです。
私たちがサンダイ村を訪れたのは午前8時半ごろでしたが、樹液はすでに回収されていました。クワイさんの息子さんが、ペットボトルに入った樹液を運んできました(右写真)。
DSC05997  DSC05980パームジュース

あちこちに、樹液の入ったペットボトルと竹筒が一緒に掛けられていました。ペットボトルは、口の部分を切り取ったり(左写真)、底を切り取ったりして(右写真)使われていました。右の写真には、立ち木に掛けられた砂糖ヤシの実が写っています。
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左写真でテーブルの上に置かれているのは、液を採取した後の花穂の茎です。液を採取すると花穂は枯れて実はなりませんが、1つの花穂から数十回も樹液の採取ができると聞きました。右写真は、ロハール村で見た砂糖ヤシの実です。
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村の中には、お椀を伏せたような土のカマドがいくつもつくられています。このカマドに大きな鍋を乗せて、樹液を煮詰めていきます。大きな鍋は市場で買ってくるそうです。写真奥のカマドに火が点けられていました。
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煙の上がっているカマドでは、これから樹液を煮詰めてパームシュガーを造るようでした。カマドには、比較的太い木の枝がくべられていました。燃料になる木の枝は、たくさん集めて積んであります。パームシュガーに煮詰めるには、多くの燃料が必要のようです。
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煮詰めた樹液は、型枠に入れて乾かすことになりますが、売店の横では少女たちが、すでに乾いたパームシュガーを型枠から外して、カゴに集めていました(左写真)。右写真の少女は、、2つのスプーンを上手に使って、空いた型枠に、下の鍋から煮詰めた樹液を入れていきました(右写真)。
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型から抜かれたパームシュガーは、プラスチックの容器やヤシの葉に包まれて土産物として売られていました。それはサンダイ村の土産物売り場だけでなく、町の土産物店やシェムリアップ空港にも並びます。
CIMG0890  DSC05986パームシュガー

2013年8月、バンテアイ・スレイに向かう途中で通り過ぎたサンダイ村には、パームシュガーを造る女性たちの姿を何人も見かけました。*バンテアイ・スレイ遺跡情報/ 位置:アンコールワットから北北東へ約24㎞ / 建立:ラージェンドラヴァルマン(944~968)治世の967年に、バラモンで王師のヤジュニャヴァラーハが建立に着手。
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8月はカンボジアの雨季にあたります。パームシュガー造りは、雨の合間をぬってパラソルの下で行われているようです。
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サンダイ村でのパームシュガー造りは、年々増えていくように見えました。
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パームシュガーは、日本の三温糖のような色合いで、黒砂糖のような香りとあっさりとした甘みをもっていました。

写真/文 山本質素・中島とみ子

サンダイ村

私たちの車の横を、少女たちを乗せた荷車が走っています。道沿いの小屋には、休憩する観光客の姿も見えました。もうすぐサンダイ村です。バンテアイ・スレイの数キロ手前(南)に位置するサンダイ村は、バンテアイ・スレイに通じる道路ができた後、周辺の森で暮らしていた人たちが、州知事からの指示によって、道路沿いに転居してきてできた村です。*バンテアイ・スレイ遺跡情報/ 位置:アンコール・ワットから北北東へ約24㎞ / 建立:ラージェンドラヴァルマン(944~968)治世の967年に、バラモンで王師のヤジュニャヴァラーハが建立に着手。DSC05948

道路に沿って建つ家々の周りには、たくさんのヤシの木が生えていました。
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庭の畑でトウモロコシを作っている家もありました(左写真)。サンダイ村は農業を生業とする村で、、豆やトウモロコシ、そして田ではコメが栽培されています。木々の間に井戸が見えました(右写真)。立て看板の文字は読めませんでしたが、インターネット上に「16基の井戸をカンボジア・シェムリアップ県クナール・サンダイ村に建設」http://shukran.blog.so-net.ne.jp/2008-10-04という情報を見つけました。サンダイ村にも、日本の支援が入っているようです。
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村には、たくさんの砂糖ヤシの木がありました。砂糖ヤシは、扇を広げたようなその形からオウギヤシとも呼ばれています。サンダイ村の人々は、農業の傍ら、砂糖ヤシから採取した樹液でパームシュガーを造っています。右の写真(画像が良くないのですが)砂糖ヤシの木が生えているこの場所は、村の小学校のようです。遊具(滑り台)で遊ぶ子供たちの姿が見えています。
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「パームシュガーは、この村でしか造っていない」と話してくれたのは、クワイさん(75歳写真中央)です。彼の家族も、以前は森の中で暮らしていましたが、道路ができてからここに移り住みました。最初は村人相手の商店を経営していましたが、村の人が造っていたパームシュガーを3年前から造り始め、2年前から観光客の土産物として売っているとのことでした。
土産物売り場にはパームシュガーの他にも、いろいろな品物が置かれていました。
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帽子は、稲わらで編んだものや、葦の葉で編んだものなど、様々な素材のものが並んでいました(左写真)。バックやスカーフなどもありました(右写真)。
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サンダイ村に立ち寄る観光客が増え始めたのは、2010年ころからのようです。シェムリアップ州の観光政策は、はじめに観光地までの道路を整備し、その後に、観光客に土産物を売ることのできる村を配置していくようです。

写真/文 山本質素・中島とみ子

バンテアイ・サムレ

東メボンの数百メートル南に、土産物屋の並ぶ十字路があります。ここを東へ5㎞ほど行くと、バンテアイ・サムレに至ります。*東メボン遺跡情報/ 位置:アンコールワットから北東へ約7.5㎞ / 建立:ラージェンドラヴァルマン(944~968)により952年に東バライの中に建立。
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十字路脇の空き地で、少女たちが縄跳びをしていました。
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バンテアイ・サムレの北駐車場脇にも、たくさんの少年少女たちの姿がありました。課外授業で来ているのかと思いましたが、年齢の大きい子を中心に組織的に、観光客へ土産物を売るために集まっているようでした。大人の姿も数人見えました。子どもたちの土産物を売る声の中を、私たちは北塔門へ向かいました。
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北塔門への参道にも土産物売り場があり、スカーフなどを手にした女性たちが、観光客に声をかけていました。
写真正面が北塔門で、その後ろに(木陰に隠れてしまっていますが)重なるように中央祠堂が見えています。バンテアイ・サムレ寺院に関する碑文は残っていないそうですが、その様式が、アンコール・ワットを建立したスールヤヴァルマン2世の治世(1113-1150)の特徴を持っているところから、12世紀前半の建造とされています。
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バンテアイ・サムレという名称は、バンテアイは「砦」を意味し、サムレはインドシナ半島の古代民族Samré族にちなんだもので、「サムレ族の砦」という意味を持ちます。
写真は、外周壁に造られた北塔門で、門の内側に、内周壁に造られた北塔門が見えています。そして、その先には中央祠堂が続いています。

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バンテアイ・サムレの平面図を掲載しました。外周壁は 83 × 77 m 、内周壁は44 × 38 mで、その内側に、円錐状の塔をもつ中央祠堂と回廊、そして2棟の経蔵などがつくられています。
バンテアイ・サムレ地図

北塔門から外周壁の中を東塔門の方へ歩いていきました。内周壁内に祀られていたリンガは、元からのものではなく、最近、置いたようにも見えました。
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中央祠堂(左写真)と、そこへ続くテラスです(右写真)。
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警備員らしい男性やガイドさんたちの間を通って、中央祠堂に入りました。ちなみに、ガイドさんの多くが薄いベージュのワイシャツにワッペンをつけた服装をしています。「制服ですか?」と、私たちのガイドさんに聞いたところ、ワッペンだけは配られますが、シャツなどは各々自分で買ったものだそうです。
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中央祠堂には、中央に石棺が置かれていました。石棺には、下の方に穴が開いています。この石棺の上にリンガがのっている写真を、以前インターネットで見たことがありましたが、2013年8月に訪れた時には下の写真のように何も置かれていませんでした。左の写真では壁面が金色に見えますが、ガイドさんに聞いたところ、「ただ塗っただけ」という答えが返ってきました。
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中央祠堂の周りを囲む内周壁や塔門の上には、リンガをかたどった石がたくさん立てられていて、ここがヒンドゥ教寺院であることを示していました。
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バンテアイ・サムレでは、外周壁が何段も石を積み重ねた上に造られ、内周壁もさらに高く石組みされて造られていて、窓のない周壁に守られた寺院は、砦(バンテアイ)と呼ぶにふさわしい風格を見せていました。バンテアイ・サムレの西参道を400mほど行くと、東バライの土手に突きあたります。

写真/文 山本質素・中島とみ子

プラダック村の店舗

プラダック(Pradak)村の西に、竹のカゴなどをずらりと並べた店がありました。カンボジアでは、こうした竹を使った生活用品などが多く見られます。これらは、プラダック村の人たちが作ったものなのでしょう。
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最近、シェムリアップで急速に増えている店は薬局だそうです。プラダック村にも、青十字のマークを掲げた薬局ができていました(左写真)。右写真はガソリンスタンドです。プラダック村は、東のバンテアイ・サムレや北のバンテアイ・スレイへの通り道になっています。
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店頭にたくさんのビニール傘が置かれているのは、観光客用でしょう(左写真)。右写真の食堂には、ガイドの服装や遺跡警備員らしい男性たちの姿が見えます。

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1970年頃、プラダック村には、クメール・ルージュ(ポルポト派)の前線基地が置かれていたそうです。
日本で1999年に浅野忠信主演で公開された映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」の主人公一ノ瀬泰造の墓が、このプラダック村にあるそうです。写真家の彼は、1973年11月にアンコール・ワットに単独で入り消息不明になり、クメール・ルージュに拘束され処刑されたと言われています。
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野菜や果物、そして焼き魚などを並べている店や(左写真)、パラソルの下で肉を売る店(右写真)などは、村の人たちも利用しているようです。
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カンボジアで豊富に自生する竹を資源として、竹加工品を製造する大規模な工業団地を形成する構想が、カンボジアの国家プロジェクトとして進められているそうです。(参照:カンボジアに竹の工業団地形成へ 2012年)

写真/文 山本質素・中島とみ子

東バライの住居

東メボンからバンテアイ・サムレに向かう私たちの車は、東バライの中を通っていきました。道沿いのぬかるみに水牛がいたのでその先を見ると、奥の少し高くなった場所に家屋がありました。道路から家屋へは、土手のような道でつながり、家屋の後ろに東バライの田が広がっていました。*東メボン遺跡情報/ 位置:アンコールワットから北東へ約7.5㎞ / 建立:ラージェンドラヴァルマン(944~968)により952年に東バライの中に建立。*バンテアイ・サムレ遺跡情報/ 位置:アンコールワットから北東へ約12㎞。東バライの東/ 建立: スーリヤヴァルマン2世治世の12世紀中頃に建立されたヒンドゥー教寺院。
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屋敷内にヤシの葉で葺いた小屋をつくり、店を開いている家もありました(左写真)。右写真の住居の庭に、井戸と炊事場が見えました。赤いクーラーボックスが置いてあるので食堂かもしれません。
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子どもたちが水鉄砲遊びしていたのは、壁面をヤシの葉で編んだ高床式の家の庭でした。数台の自転車と、ベビーカー(右隅)が見えました。この辺りは、プラダック(Pradak)村の西側になりますDSC09715

壁面が板の高床式家屋や、1階の部分をコンクリートで囲った家屋も多くありました。DSC09716 DSC09725

新しく建築中の家も高床式でした。どちらの家も、道路から離れた木々の中に土を盛り、家を建てていました。屋根の形に流行があるらしく、左写真のような屋根が最近の流りのようです。
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プラダック村から北方向に行くと、東バライの中にひときわ目立つ赤い建物がありました。カンボジアの国旗が掲げられていたので、地区の役場でしょう。
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東バライを北へ抜けた所で、住居に入る土手(道)の上にモミを広げて干している農家がありました。その横ではヤシの葉を編んでいました。高床式の1階には、トラクターも見えています。
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日本でも、昭和30年代くらいまでは、水田の近くに、屋敷林で囲まれた住居が多くありましたが、経済構造が農業から工業へと移っていく中で、次第に少なくなっていきました。
今、カンボジアでは、農業生産を向上させることを目的に、農業機械や肥料などを使った効率的な農業政策が進められているようです。

写真/文 山本質素・中島とみ子

東バライの田

東メボンの周りには、緑の田んぼが広がっています。*東メボン遺跡情報/ 位置:アンコールワットから北東へ約7.5㎞ / 建立:ラージェンドラヴァルマン(944~968)により952年に東バライの中に建立。
ここはかつての貯水池で、東バライと呼ばれています。東バライは、自然河川(北のクーレン丘陵から流れるシェムリアップ川)の水を利用する方式を取り入れ、ヤショヴァルマン1世(治世889-910)が完成させました。初期にはヤショダラタターカ(「ヤショヴァルマン王の池」の意)と呼ばれ、その規模はおよそ東西7,150メートル、南北1,740メートルにおよび、約5,000万立方メートルの水を保持していたそうです。
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ウィキペディアに東バライとその周辺の絵地図を見つけました。ここには、北から流れてきたシェムリアップ川が、東バライに沿って西へ流れ、アンコール・トムの東側を南へ流れ下り、シェムリアップ市街地へと流れている様子が記されています。また、東バライの堤防建設には、約800万立方メートルの盛り土が使われたそうですが、1920年代にアンコール観光周辺コースが整備された際に、その堤防が切断されてしまいました。絵地図には、プレループから東バライの中を突っ切っている観光道路も描かれています。*プレループ遺跡情報/ 位置:アンコールワットから約6㎞北東。/建立:ラージェンドラヴァルマン(治世944~968)によって961年に創建。
*ウィキペデイア

下の写真は、2013年8月に東バライの中を通る観光道路から写したものです。付近はちょうど雨季の田植え時期で、場所によっては腰のあたりまで水につかりながら田植えをしている村人を見かけました。長年アンコール地域の研究と支援を行っている石澤氏は、『アンコール・ワットへの道』の中で、乾季でも東バライの内側で稲田が広がっていることを捉え、「村人は、わずかではあるが今でもバライの残り水を上手に利用して水田を作っている」と述べています。バライの残り水のあるのは、この辺りの田なのでしょうか。
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以下の3枚は、東メボンからバンテアイ・サムレへ向かう道路から見えた東バライの中にある田です。
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乾季の稲作を可能にするために造られた東バライは、東メボンの建設によって王の権力の象徴となりました。東バライは、じきに干上がってしまいましたが、長い時を経た現在、そこには緑の水田が広がっていました。
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東バライは10世紀初めに造られましたが、その後、11世紀から12世紀にかけて国内の至るところにバライが造られていきました。ところが13世紀に入ると、治水方法は、河川に橋を架けるダム方式に変わっていきました。(参照:クメール方式貯水池の歴史展開 ジャック・デュマルセイ)
東バライの南に隣接している北スラスラン村やロハール村では、東バライの水が流れてこなくなった後も、雨季には雨水がその堀を流れて村々の田を潤しています。

写真・文 山本質素・中島とみ子

東メボンの土産物

東メボンでは、道路を挟んで土産物店が並んでいます。以下の4枚の写真は、2013年3月に撮影したものです。乾季のこの時期、屋根のある土産物売り場の外に雛壇を作り、土産物を並べて売っていました。仏像や踊る天女(アプサラ)の像などに混じって、カンボジアの伝統楽器スコーやトローなども並んでいました。
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少女が竹笛を吹いて、土産品をアピールしていました。手には、竹笛を入れるヤシで編んだ筒と、同じヤシの葉で折った飾り物を下げていました(左写真)。トゥクトゥクと自動車が止めてある駐車場の一角には、母親と2人の男の子の姿も見えました(右写真)。
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遺跡の上から見た、広場と道路と土産物売り場です。午後4時ごろでしたが、写真の左に見えるブルーのシャツを着た係員の男性は、カップ麺を食べていました。
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2013年8月に訪れた時には、土産物売り場前の道路は家畜たちの通り道にもなっていました。カンボジアの雨季にあたるこの時期、東メボンの周囲に広がる東バライの田は、田植えの季節です。道の北側から、少年と父親らしい2人を乗せた荷車が、白い牛に引かれてゆっくりと通って行きました。DSC09668

しばらくすると、今度は南から、2頭の牛を追いながら2人の小さな子どもたちが通って行きました。少し年上の子の手には、仔牛を追うための細い棒が握られていました。
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子どもたちを目で追っていくと、その先に、母親が歩いていくのが見えました。大きな牛の綱は母親が握っていて、仔牛はその母牛の後をついていき、その仔牛の後ろを、子どもたちがついて歩いていたのでした。
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この仔牛と子どもたちの家は、東バライの中にあるのでしょう。
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地元の人たちが作る工芸品は、私たち観光客の目を楽しませてくれますが、そこで暮らす人々の何気ない姿に、心が温かくなる素敵なお土産をもらいました。

写真/文 山本質素・中島とみ子

東メボン

アンコールワットから約7.5km北東にある東メボンは、ラージェンドラヴァルマン1世(治世944-969)が952年に、東バライの中央に建てた寺院です。*東バライ情報/ 位置:アンコールワット東門から東バライの南西角まで直線距離で約4㎞ / ヤショヴァルマン1世の統治時代(900年頃)に造られる。東西7,150m、南北1,740m。その後、11世紀から12世紀にかけて造られたバライでは、それぞれのメボンが水利的な意味(水位計としての役割)を有していましたが、東メボンは、ヒンドゥー教の神の住む須弥山を囲む天地創造の海を表す、象徴的な役割を担っていたとされます。
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東メボンは、東バライの中に造った小島の上に、さらに人工的に中心部を積み上げ、2つの周壁とラテライトの3層構造の基壇と、さらにその上に中央塔(祠堂)が建つ「ピラミッド型」に造られています。
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こうした「ピラミッド型」とよばれる建築形態が登場したことについて、石澤氏は「須弥山を寺院形態の中に強く具現化しようとする宗教的思想の背景があり、それに応える形で壇上テラスを高く積み上げる建築技法が発展した」と捉えています。(参照:『アンコール・ワットへの道 クメール人が築いた世界遺産』文・石澤良昭 写真・内山澄夫)
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最上段に建つ中央祠堂入口に水平に渡されたブロック(まぐさ石)には、カ―ラの上に座るヴィシュヌ神の彫刻を見ることができました。カ―ラは、建物の入口を守るヒンドゥ教の動物神で、その食欲の旺盛さから自分の体まで食べてしまったのだそうです。
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中央祠堂の中には、金色の天蓋と衣をまとった仏像がありましたが、これは後世に持ち込まれたもののようです(左写真)。副祠堂の中には、壊されたリンガが残っていました(右写真)。
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中央祠堂の左右をはじめ各基壇の東西南北に造られた塔門を守るのは、シンハです。シンハは、ガイドさんがライオンと通訳していたように、サンスクリット語でライオンを意味します。日本では、デフォルメ化され狛犬として神社や寺院の入口に置かれています。
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そして、この遺跡で一番目を引いたのは、4隅を守っているのは等身大の石の象でした。東メボンを造る際には、当時カンボジアの森林に生息していた象の力が大きく貢献したことでしょう。ちなみに、ヒンドゥー教の神には、人間の身体に象の頭を持ったガネーシャがいます。
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アンコールの地を再び都と定めたラージェンドラヴァルマン1世は、護国寺院としてプレ・ループ寺院を、そして、祖先を祀るために、この東メボン寺院を建立しました。、*プレループ遺跡情報/ 位置:アンコールワットから約6㎞北東。/建立:ラージェンドラヴァルマン(944~968)が961年に創建。ラージェンドラヴァルマン王の思いは、1000年以上経た現在でも、東メボンを訪れた観光客を魅了しています。

写真/文 山本質素・中島とみ子