西バライ北西の村

西バライ北西角の土手を曲がり切ると、左(北)に入る道があります。その脇に道案内の標識が立っていました(左写真)。私たちは、標識の脇を入っていきました(右写真)。
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西バライの土手から細い道を入って3分後、木々の間に、ヤシの葉で壁面を葺いた家々が見えました。
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私たちの姿を見つけたのでしょうか。1軒の屋敷から、犬と男の子2人が出てきて、私たちの方に来ました(左写真)。小さい男の子が本を抱えていたので、「何の本?」と聞くと、兄らしい男の子が表紙を見せてくれました。牛とネズミのお話が書かれている絵本のようです(右写真)。
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ヤシの葉で屋根や壁面を葺いてある家の前に坐っている、小さな男の子や(左写真)、木の下に犬といる女の子(右写真)などが、通りすがりに見えました。
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家の周りを手ボウキで掃除をしている少年も見かけました。この辺りは砂が舞い積もるので、家の中や周りの砂を掃き出すことが、朝の最初の仕事になっているそうです。
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村の奥(北)には川が流れていて、1本の丸木橋に1本の手すりを付けただけの橋が架けられていました。この川は、写真の橋から100mほど西で分流し、南西に分流した流れの140mほど先に、Spean Memay(スピアン・メマイ)があります。スピアンはクメール語で「橋」の意味です。スピアン・メマイは、長さ79m、幅9mの石で造られたアーチ形の橋の遺構です。現在では、その一部を残すのみですが、アンコール朝期のスールヤヴァルマン1世やスールヤヴァルマン2世の時代に整備されたと考えられる王道の1つ、「王道北西ルート(アンコールの北門を出て、西へ進み、西バライの北西角辺りから北西へ進む王の道)」に造られた橋です。当初、王の道に造られた橋の多くは、木橋だったようですが、ジャヤヴァルマン7世の時代に石の橋に復旧されたそうです(参照:http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00902/2008/28-0197.pdf)。
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西バライの開掘を始めたスールヤヴァルマン1世(1011~1050)は、隣国への遠征を目的に、王の道の整備にも着手していました。西バライ北西の土手で暮らす人々の村には、どんな歴史があったのでしょうか。

写真/文 山本質素、中島とみ子

西バライ南西隅

西バライの排出口から約1㎞西に、AK YUM(アック・ヨム)遺跡があります。アック・ヨムは、7世紀初めに建立されたヒンドゥー教寺院で、ピラミッド型寺院としては最も古いそうです。しかし、西バライが建設される際に、バライの中や堤防の下に埋まってしまったそうです。現在では、煉瓦造りの3層の基壇と祠堂の一部が残っているだけです。
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さらに1kmほど西に行くと、店が見られるようになります。道路沿いの店の下にも、ヤシで葺いた大きな屋根が見えました(左写真)。道が低くなっているところでは、バライの縁に建つレストランの様子が見えました。大きなタイヤのチューブが、椅子のように並んでいました。

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朝の7時半ごろで、観光客などの姿はありませんでしたが、ずらりと吊るされたハンモックのいくつかには、人の気配がありました(左写真)。この辺りの土手(道路)は、かさ高にする工事が行われているようで、積まれた土嚢の白い袋が見えました(右写真)。
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西バライ南西隅に近づくと、車止めが置かれていました。左写真は、少し先まで歩いて振り返って撮影した排出口に続く土手の道です。右写真は、車止めの先で、盛り土された道の先に、コンクリートの水路があり、その先には西の土手が見えていました。右端には木の橋が見えています。
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木橋の先の北が西バライに通じていました。写真は、2013年12月の西バライ南西角の光景です。西土手沿いにも、小屋が建ち並んでいました。西バライは、澄んだ穏やかな水域なので、水泳や船遊びをする地域の人々の人気スポットになっているそうです。バライ沿いに建つ小屋は、海の家のようなものなのでしょう。小屋からは、バライへ下りる梯子がたくさん掛けられているのが見えました。木の橋の右側に、ポットに入った木の苗がたくさん置かれていました。道路工事が済んだのちに、これらが植えられるのでしょう。DSC03055

西バライの南西隅に架かる木橋を、女性が乗った1台のオートバイが渡っていきました。
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オートバイが渡り終わると、今度は子供を抱いた女性が渡っていきました(左写真)。橋を渡り終わった彼女は、先に渡っていた女性のオートバイの後ろに乗って、西の土手に消えていきました(右写真)。この木橋は、道路工事に際して、臨時に架けられたものなのでしょうか。
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私たちは、2013年12月以降、西バライ北に点在する村の調査を目的に、2014年9月、12月と西バライを訪れています。しかし、国道6号線から500~600mでバライの西土手に至る道路を通っているために、木橋のあるこの場所のその後を見てはいませんが、道路がつながったようです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

西バライ排出口

西バライの北東角の取水口から取り込まれた水は、バライの南側に造られた排出口から南の田へ流れていきます。排出口の上から見渡した西バライは、豊かな水を湛え、北側にかすんで見える対岸は、バライの大きさを感じさせます。左写真は、バライの北西方向、右写真は、ほぼ正面(北方向)を撮影したものです。両写真の手前に見えるコンクリートは、排出口の部分です。
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北東方向に目を移すと、小さくメボンの建つ小島が見えました(左写真)。メボンが写っていないかと写真を拡大してみましたが、小島の上には木々が見えるだけで、建造物は見えませんでした(右写真)。西バライの中央に造られたメボンには、バライの水位を測る機能が持たされていました。メボンの中央にリンガを逆さにしたような形状の井戸を造り、その内壁を下から円、八角形、四角形と断 面に変化をつけることにより、水位を測っていたようです(参照:http://www.jcca.or.jp/kaishi/230/230_asano.pdf)。当時、水位を見るためにメボンに渡ることができたのは、王だけだったそうですが、現在では、観光客もボートでメボンに渡ることができます。
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多くの観光客が訪れる排水口周辺には、土産物や食べ物を売る店が並び、ハンモックで休憩できるレストランの店先には、焼き魚や鶏の丸焼きなどが並べられていました(2012年12月撮影)。
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ここで食べたカエルの丸焼きは、香ばしかったです(左写真)。
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排水口の横に立つ案内板にはクメール語・英語とともに日本語もありました。日本語の部分には、以下のように記されています。
クメール語では、「澄んだ水のバライ」、外国人観光客には「西バライ」と呼ばれる人口の池です。2代の王朝に亘って造営工事が引き継がれ、11世紀第2四半期、ウダヤーティティヤヴァルマン2世の代に完成しました。このバライは東西8㎞×南北2.2㎞を測り、クメール帝国の歴代王朝を通じて建造されたなかでは最も大きな人造湖です。湖の中央には人口の島―西メボンが築かれており、ここにかつて在った寺院址からはブロンズ製の優美な<横たわるヴィシュヌ>神像が発見されました。現在、この像はプノンペンの国立博物館に陳列されています。この人工島の中心部分を注意深く観察すると、竪穴もしくは倒立するリンガの形の遺構に気づきます。これはリンガから湧き出す湖水が豊饒な水となって水田や牧草地を潤し、豊かな実りをもたらすことを意味しています。西メボンの伽藍は、同時代に同じ様式で建造されたパプーオンに近似しており、西側回廊入口壁面の浮き彫は、方形の枠を並べた中に説話の筋を追うように各場面を描いています。
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案内板の写真から、バライの部分を切り取って掲載しました。写真右にアンコール・トムが見えています。西バライは、アンコール・トムの西隣に位置します。排水口は、バライの下辺、左から3分の1の場所に見える縦2本の線で印されています。中央に見える点がメボンです。バライの右3分の1くらいが白っぽく見えていますが、ここは土砂が堆積している場所です。前回紹介した西バライ北東のコック・ベン村の人々も、ここを田として耕作しているようです。取水門は、右上(北東)角に設置されています。DSC079151

カンボジアは1863年にフランスの保護国となりますが、その後、フランス人が西バライを訪れた時には、バライは多少の雨水を蓄えているだけの状態でした。1940年代にフランスはこの西バライを再び利用することを考え、水路や水門などの水利システムの整備を行った結果、西バライは再び水をたたえ、内戦前の1969年には灌漑面積は17 万ha にまで回復しました(参照:http://www.jcca.or.jp/kaishi/230/230_asano.pdf)現在、西バライの水は、排水口から下写真の水路を通って南東方向に流れ下り、灌漑用水として西バライの南に広がる田を潤しています。
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排水口ができる以前は、西バライの水を排出する際に土手の一部を壊したという話も伝わっているようです。スールヤヴァルマン1世(10111050)によって開掘が始まった西バライは、ウダヤディティヤヴァルマン2世(10501066)の時代に完成します。近年の西バライ研究では、王の権力を誇示する目的が強調されているようですが、水アンコール朝に作られたバライのうち、現在も水を湛えているのは西バライだけです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

コック・ベン村の店

コック・ベン村を東西に走る道路沿いには、店が点在しています。写真の2つの店は、コック・ベン小学校の300mほど西で見かけた店です。左写真には、棚にガソリンを入れたビンやペットボトルが並んでいます。右写真の店のクネに掛けられているペットボトルも、何かの容器になるのでしょう。
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小学校から200mほど東にある店の前に、女性たちがいたので、立ち寄らせてもらいました(2013年12月)。左写真の子どもを連れた女性と、木の枝を切り下ろしている女性が、店番をしているようです。クロマー(カンボジアのスカーフ)を肩にかけ、手にビニール袋を下げた女性は、買い物に来た近所の人のようでした(右写真)。
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店の前のクーラーボックスに女の子が座っていました。上左写真の女の子がそこに寄ってきました。2人は、髪型や顔が似ていたので姉妹なのでしょう。店先には、ペットボトルの水やジュースが置かれ、横に渡された棒には、飴、お菓子、ビー玉、おもちゃなど子供用の品物や、インスタントコーヒーなどが吊るされていました。ガラスケース内に見えるアンコールワットの描かれた箱はタバコです。その前に1ドル紙幣が貼ってあるのは、店に立ち寄る観光客のためでしょう。
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この店の裏に、小屋と、レンガで囲われたトイレがありました(左写真)。 トイレは、タイなどの様式と同じで、右側の水槽に貯めた水を手前の手桶で汲んで使います。プッシュ式の容器に入っているのは石鹸でしょうか。ここで、体を洗うのかもしれません(右写真)。
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平屋の新しい建物は住居かと思いましたが、入口横に、男女が組んでいる絵のプレートが掛かっていたので、何かのスタジオになっているのかもしれません(左写真)。左写真の建物の前(南側)に、小さな野菜畑が作られていました。少し前まで、この場所にも店が建っていたそうです。
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国道6号線から西バライの東側を北上する舗装道路の手前が、コック・ベン村の東端になります。世界遺産認定の看板などが立つこの場所にも、店がありました。
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アンコール・ワットとその周辺の遺跡が世界遺産に指定され、遺跡を巡る道路が整備されて行く中で、コック・ベン村の店にも、観光客が訪れるようになっています。

写真/文 山本質素、中島とみ子

コック・ベン村と西バライ

コック・ベン小学校の前の道に自動車を停めて、田んぼの中の細い道を、西バライの土手へと向かいました。稲刈りを終えた田んぼの中では、仔牛が草を食んでいました(2013年12月撮影)。
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途中に高床式の住居があったので、屋敷内に立ち寄らせてもらいました。2階の外壁は板で囲われ、1階は、ヤシの葉で壁面が作られていて涼しそうでした。右奥には、ポンプ井戸が見えました(左写真)。回り込むと、若い夫婦が鶏にご飯粒を与えていました。傍に3匹の犬が、鳥たちを見張るかのようにおとなしく坐っていました(右写真)。
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木々の間に伸びた細い道の先にも、住居がありました(左写真)。進んで行くと、、少女が井戸で洗濯をしていました(右写真)。
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細長い鶏小屋がありましたが、中に鶏はいませんでした(左写真)。少し離れた屋敷の隅に、屋根を掛けた墓がありました。カンボジアでは火葬するまでの間、土葬するという慣習もありますが、火葬せずに、土葬のままにしておく場合も多いそうです。亡くなった人を埋葬して、その上に屋根を掛けるのは、雨を除けるためのものでしょう(右写真)。
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西バライの土手に続く道を上がっていくと、左写真の土手の道に出ました。ここから100m余り東にある細い道を下って行くと、目の前に、水を湛えた水田が広がりました。ここは、もう西バライの中です(右写真)。
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水のある近くまで行ってみました(左写真)。ガイドさんが、「雨季になるともっと多くの水が貯まり、この辺りも田んぼになります」と、話してくれました。右写真の手前の部分も、雨季には水田になるのでしょう。
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西バライの東側3分の1ほどには、土砂が堆積しています。私たちが訪れたこの場所は、西バライ東端から500m位東の場所です。西バライの北東隅に設置されている取水門から流れ込んだ水は、写真奥に橋のように見えている水路を流れています。
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コック・ベン村には、その北側に広い田がありますが、南側の西バライの中にも、村の田がありました。西バライの南に広がる田を潤すために掘られた人工池(西バライ)は、長い年月を経た現在、一部が再び田んぼに戻っているようでした。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ランドセル

西バライの北側にある村の1つ、コック・ベン村に向かいました。西バライの東を走る舗装道路から、写真の角を、西(右)へ入ります。DSC01721

寺院の門が見えました。この奥にコック・ベン村の寺院があるのでしょう(左写真)。店の前で子どもたちが遊んでいました。
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クネ越しに、たくさんの子供たちが見えました。ここは、コック・ベン村の小学校で、午前の部を終えた生徒たちが、校門から出てきました。時間は10時半ごろ、自転車の生徒が多いのは、家から学校までの距離が遠いためでしょう。
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左写真に見えるバイクは、バイクタクシーで帰る先生たちのようです。子どもたちの自転車は、どれも中古自転車に見えました。バイクには税金がかかりますが、自転車税はありません。ちなみに、静岡市では1993年度からカンボジアに修理した放置自転車を贈る事業を実施しているそうです。
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この小学校は、2002年にスイスの支援で建設されことが、校門の門中に記されていました。門柱の上には、「KOK BENG PRIMARY SCHOOL」の文字が読めました。校門から出てくる生徒たちのおおくが、背中にランドセルを背負っていました。その姿は、日本の小学生を思い起こさせました。DSC017351

日本では小学校に入るときにランドセルを購入することが広く行われています。日本でランドセルが使われるようになったのは明治期のこととされますが、一般に広まったのは、昭和30年代以降のことです。2007年から、小学校を卒業した生徒が使い終わったランドセルを、集めて、カンボジアの子供達に贈る事業が、富山ライオンズクラブによって毎年行われています。
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日本の小学生が背負っていたランドセルが、コック・ベン村の小学生の元へも届いているのでしょうか。

写真/文  山本質素、中島とみ子

郡境の店と子供たち

前回紹介した、子どもたちが魚を獲っていた橋の少し手前(東)に、立て看板とその下に道標がありました(左写真)。車を停めたガイドさんが、「この道標は、郡の境に立てられています」と言うので、近寄って見ましたが、クメール文字で読めませんでした(右写真)。カンボジアの行政区は、首都(1)と州(23)に分かれ、州の管理下に市(26)と郡(159)とがあり、その下に、地区が存在します。
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近くに店があったので、一休みすることになりました。店には、少女たちが集まっていました(左写真)。右写真の2人は、店番をしていた女性たちです。
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1人の女の子が下がっている商品を外し(左写真)、それを持って、お金を渡しに店の中に入っていきました。一緒にいた女の子の手にも、同じものが握られていました。女の子の好きなおもちゃかお菓子なのでしょう(右写真)。
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道の向かい側では、家の前にスイカを並べ、垣根を使って棒を渡したところにお菓子などを吊していました。普通の家の垣根の部分を使って店にしていることに、ちょっと驚きました。左下には、調理のためのコンロも見えるので、ここで簡単なものも食べられるようでした。
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私たちが、道の向かい側に移動すると、前の店にいた子どもたちも一緒についてきて、垣根の周りは、子どもたちでいっぱいになりました。前回紹介したように、橋ができたり、寺院が建ったりしたことから、この家の人が店を始めることにしたのかもしれません。
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近くの高床式家の一階で、凧を作っている男の子たちがいました。黒いビニールシートとヒゴを結ぶ紐は、コメなどを入れる袋を割いて使っていました。凧のしっぽは、ビニールひもでした。小さいころ、正月に揚げる凧を作ったことが思い出されました。
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今回の写真は、2013年12月23日に撮影したものです。1993年9月24日に新憲法が公布され、現在の「カンボジア王国」が発足してから20年。子どもたちは、自分の将来にどんな夢を描いているのでしょうか。

写真/文 山本質素、中島とみ子

新しい橋と寺院

アンコール・トム北門を抜けて西へ曲がり、環濠と並行して走る道を、西バライへ向かいました。車で5分ほど行くと橋がありました。この橋は最近造られたそうです(2013年12月撮影)。橋を渡ったところで車を停めました。写真の奥が東(アンコール・トム北門方向)、手前が西(西バライ方向)です。
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東南方向を臨むと、水門が見えました。この水門は、アンコール・トムの西環濠へ水を引き込むためのもので、環濠の木々が後ろに見えていました(左写真)。橋の下の主水流は、アンコール・トムの西環濠と並行して南へ1・2㎞ほど流れ下り、やがて、西バライの取水口へと流れ込みます(右写真)。
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子どもたちも、橋を渡ってきます。
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橋の下に、魚を獲る子供たちの姿がありました。器用に投網を打っているのは小学生くらいの少年で、傍で魚篭を担いでいるのは弟でしょうか。手前にも、男の子が見えました。
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少年は、打った投網を慎重に引き揚げていきます。
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小さい少年が、魚篭のふたを開けて魚を待ちます。網の中には、魚が掛かっていたようです。
向こうの土手に、十数名の人々が集まって作業をしていました。
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見ていると、土手の上の人々は、2本の棒に布を渡したモッコで、土を運んできては、指定された場所に下ろしては、モッコを担いで戻り、また、モッコに土を乗せて運んでいました。小さい子供を連れた女性も見えたので、土手の改修作業を、村人が共同で行っているようでした。
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道の先に、寺院が見えました。
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この寺院は、新しく建てられていて、まだ建設中の塔などが見えました。
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本堂には鮮やかな壁画が描かれ、塀の上には阿修羅(右)と神(左)が綱引きをする乳海攪拌の彫像が見えました(左写真)。
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カンボジアでは、寺院を中心に村が形成され、道づくりなども寺院を中心に行われてきました。新しい橋と、付近の土手の改修作業は、この寺院と関係しているのでしょうか。

写真/文 山本質素、中島とみ子

チョンクニエス村の田(2014年12月)

チョンクニエス村は、プノン・クロム山の南、トンレサップ湖船着場の周辺に広がる村です。チョンクニエス村の田は、雨季には一面水に覆われますが、乾季には水が引いた後に、見渡す限りの田んぼがあらわれます(左写真)。2014年12月に訪れた時には、船着場東側の田で、農作業をしている人の姿がありました(右写真)。
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青い帽子に作業服を着た男性が、耕耘機で、田んぼの代掻きをしていました。CIMG2150 CIMG2171

耕耘機の動きにつれてあらわれる水紋は、トンレサップ湖を進むボートを思わせました。CIMG2172 CIMG2178

男性が農作業をしていた田と道路の間には堀があり、舟が浮いていました。一見水路のように見えるこの堀は、道路を造る際に、盛り土として道路脇を掘った跡に、水がたまった場所です。トンレサップ湖の水位が上がる雨季には、水とともに魚もやってきます。そして、徐々に水が引いていく乾季になると、こうした堀で、魚がたくさん捕れるということです。
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堀の中を行ったり来たりしていた舟から、網が投げ入れられました。魚影を見つけたようです。
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一方、堀の上の土手にいた男性は、魚の入った網を担いで歩いてきました。後ろについて歩く女性の手には、スマホが握られていました(左写真)。土手に下ろされた網の中には、大小さまざまな魚が入っているのが見えました(右写真)。
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座り込んだ男性は、魚を網から出して選別し始めました。一緒にいた女性は、男性の獲った魚を買い入れに来ているようでした。作業を見せてもらいながら、「なんという魚だろう」と話していると、「毒針のある魚は捨てる」と日本語で話してきたのでびっくりしました。聞くと、彼は2年間日本語を学んだそうです。日本語ガイドを目指した時期があったようです。
CIMG2176毒針のある魚は捨てる CIMG2179弟・2年間日本語を習った

そばの土手下にも、漁をする男性がみえました。この男性は、上写真の男性の弟でした。兄は、目の細かい網で小さい魚を狙い、弟の方は、目の粗い網で大きい魚を狙っているのだそうです。目の前で、弟の投網がパッと開きました。
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「あの村では、塩辛を造っています」とガイドさんが指差した南の方向には、浸水林と63公道の間に、家並みが見えました。
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近年は、トンレサップ湖の観光拠点として、新たな船着場の建設などが進んでいるチョンクニエス村ですが、トンレサップ湖からの恵みは、農業や漁業にも見ることができました。村の生活は、これからも、トンレサップ湖とともに営まれていくのでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子