国道67号線とパームシュガー

 2015年12月27日、東バライの中を通る国道67号線から、稲刈りをする田んぼが見えました。その先に一直線に続く木々は、東バライの北堤防です。建設時には約800万立方メートルの盛り土が使われたという堤防は、現在では南北の堤防を切り通して2本の自動車道が通っています。1本は1920年代に、フランス政府が、アンコールワット周辺の遺跡修復に際して回りやすいようにと造った道(現在の大回りコース)で、もう1本が2006年からのタイの支援プロジェクトとしてつくられた国道67号線です。*東バライ情報/ 位置:アンコールワット東門から東バライの南西角まで直線距離で約4㎞ / ヤショヴァルマン1世の統治時代(900年頃)に造られる。東西7,150m、南北1,740m。
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東バライの北堤防を抜けて1.5㎞ほど北に、パームシュガーを売る店が見えました。店の横に、鉄砲を担いだ案山子のようなものが立ち(左写真)、その奥には大きなネアクタが建っていました(右写真)。店の女性の話では、店を開いたのは10年前のこと、そして案山子のようなものは魔除けとして置いているということでした。
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店の中、土産物の置かれた台の下に、赤い布をかけたアリ塚が残されていました(左写真)。店頭には、観光客用にヤシの葉に包んだパームシュガー(3本で1ドル)、瓶に入ったパームシュガー(2ドルと3ドル)が並んでいましたが、なじみ客らしい女性は、ビニール袋にばら売りのパームシュガーを買っていました(右写真)。
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パームシュガーは、土産物売り場横の少し広くなっている場所で造られていました。火の入ったカマドには大きな鍋がかかり、手前の竹筒にオウギヤシ(砂糖ヤシ)から採取した樹液が入っています。パームシュガーはヤシの花芽から採れる樹液から造られます。道路沿いにオウギヤシの木があり、大きな花芽がさがっているのが見えました。
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オウギヤシの前に台が置かれ、ヤシの花芽などが並んでいます。ガイドさんは、その花芽を持って竹筒のところへ行き、花芽の先をそれぞれ竹筒に入れて、樹液の採取方法を見せてくれました。
CIMG0470 CIMG0473木の上で咲く花の先を少し切り取り、竹筒に入れておく

見上げると、ヤシの葉の間に花芽が差し込まれた竹筒が見えました(左写真)。このような状態で1晩置いておくと、竹筒の中に樹液が溜まるので、木に登ってそれを採取します。朝夕の2回のこの作業は、男性の仕事になっています。この店が所有しているのは、この1本のオウギヤシの木だけですが、この木の他に、道路の向かい側にあるオウギヤシの木(右写真)を借りて、樹液を採取しているそうです。
CIMG0477ヤシの上の竹筒 CIMG0465ヤシは1本を所有、他は借りている。向かい側の木

竹筒から鍋に樹液を入れている男性が、毎日ヤシの木に登って樹液を採取しているようです。鍋に入れられた樹液は、これから4~5時間、時々かき混ぜながら煮詰めていきます。この店は、サンダイ村の4㎞ほど南に位置していますが、サンダイ村と同じく67号線が通った後にパームシュガーの店を始めたそうです
CIMG0475次々と竹筒から釜へ
 CIMG0458笹3本で1ドル小瓶1ドル中ビン2ドル3つで5ドル

パームシュガー造りの次の工程で、カマドで煮詰められて薄茶色の飴状になった樹液は、火から下ろされた後、かき混ぜながら冷まされ、型枠に入れて乾かします。その様子は、2012年12月に訪れたサンダイ村で見ることができました。左写真は、冷ました樹液の鍋に板を渡し、煮詰めた樹液を2つのスプーンを使って型に入れているところです。乾いたパームシュガーは、型枠から外してカゴに集められます(右写真)。
*サンダイ村情報/ 位置:バンテアイ・スレイの南約10㎞ /村の成り立ち: バンテアイ・スレイに通じる道路(国道67号線)ができた後、州知事の指示により、周辺の森で暮らしていた人たちが道路沿いに転居し、パームシュガーの店を始める。
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67号線沿いには、たくさんのオウギヤシの木が見られます。下2枚の写真は、サンダイ村周辺のオウギヤシの木々です。
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このオウギヤシはカンボジアの「国の木」であり、「オウギヤシのあるところまでがカンボジアの国土」とも言われています。東南アジアの中でもカンボジアにオウギヤシの木が多いのは、アンコール朝の王ジャヤバルマン7世(治世1181~1220年頃)が植林を推進したためと伝えられています。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ポペル村の家族

ポペル村での滞在は数時間でしたが、その間に垣間見ることができた家族の様子を紹介します。ポペル村情報/位置:プノン・クーレンの山頂にあるプレアアントン涅槃像から、東北東に4kmほどの場所にある焼き畑の村。
ポペル村でバイクタクシーを下りた私たちの横を、子犬を抱いた少女と母親らしい女性が店の方に歩いて行きました。女性は店に入ると、ザルに入った豆(?)の選別を手伝い始めました。店先で同じように豆の選別をしている女性は、彼女の母親のようでした。
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品物が置かれた店の奥に写真が見えました。拡大してみると、一番上の写真は店の前で見かけた母親、そしてウエディングドレスとカラードレスで写っているのはその娘さんのように見えます。中段右側の写真は、カンボジアの伝統的な結婚衣装を着た男女、真ん中も、少し前の結婚写真のように思えました。店の中に貼られた家族写真は、ようやく訪れた平和な生活の象徴のように見えました。
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近くの木陰では、生まれて間もない仔豚が親豚の乳を飲んでいました。右写真の2頭の黒豚たちは、焼き畑農家の庭で見かけました。日中の暑い時間帯だったので、豚たちも木陰で休んでいるのでしょう。
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2匹の豚の傍には、小屋の前の台に坐る2人の子どもたちと、小屋の中に2人の子どもたちが見えました。ガイドさんが声をかけると、小屋の中から女性が出てきました。
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壁面はヤシの葉を重ねて挟み込んであり、軒下には帽子やビニール袋などが掛けられていました。小屋の中に天井のように渡した棒からも、いろいろが吊り下げられていました。小屋の左上に見えているのは、隣に建つ高床式2階建ての家屋です(左写真)。小屋の奥には、火の燃えているコンロとナベが見えました。出てきた女性は、料理をしていたところのようでした。
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焼き畑を行っているこの家の屋敷内には、住居用の高床式家屋と、炊事などをするための小屋が並んで建っていました。
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通常は、高床式の1階が生活場所として使われますが、この家では雨を避けて、たくさんの板を1階に積んでいるために、隣の小屋が生活の場になっていました。左写真は、高床式の1階から見えた隣の小屋で、水入れなどが並んでいました。右写真は、高床式家屋2階の入り口側です。案内してくれた子供たちのうち、2人がこの家の子供たちのようです。
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小屋から出てきて、私たちを焼き畑に案内してくれたのはこの家の女主人でした。畑を見せてもらって戻ると、さきほどの小屋の中で若い女性が炊事をしていました。彼女の娘さんなのでしょう。
CIMG0615胡麻の木 CIMG06321

2015年12月末に訪れた日中のポペル村で出会ったのは、女性と子どもたちでした。この時期、男性は、町や観光地に働きに出ているのでしょう。カンボジアでは、末娘が両親と一緒に暮らし、田畑も相続することが多いそうです。場所を移しながら農業をする焼き畑の村でも、そうした慣習があるのでしょうか。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ポペル村の焼畑

ポペル村は、焼き畑が行われている村です。 焼き畑は、乾季に山の木を伐採し乾燥させておいて、雨季の始まりと同時に木を燃やし、その跡に作物の種を撒くという農法です。
私たちが案内されたのは、バイクタクシーを停めた店から100mほど北東にある焼き畑でした。畑は、ゴマの収穫が終わったばかりで、刈り取った後のゴマの株が緑の若木の間に見えました。刈ったゴマは、十把くらいずつの株を束ねて干してありました。畑の先には、森林が見えています(左写真)。
CIMG0624 CIMG0608畑、干してある胡麻

畑の中に、大きなアリ塚が何か所か残されていました。アリ塚は、壊さないでそのままにしておくのだそうです。
CIMG0612 CIMG0622アリ塚はそのままにしておく

持ち主の女性は、「すぐに木が大きくなってしまって」と言いながら畑の中に入っていき、刈り取らずに残っていたゴマの木の先端からゴマの実を積み始めました。「ゴマの来た道」(小 林貞作著)によると、日本にゴマが伝わったのは縄文晩期で、稲作とほぼ同時期に伝わり、主に焼き畑で作られていたとされています。(参照:https://www.city.iwaki.fukushima.jp/dbps_data/_material_/localhost/kurogoma.pdf)
CIMG0615胡麻の木

彼女は、摘み取ったゴマの実を見せてくれました。ゴマは、種まきから収穫まで約3か月ほどかかるので、この畑では10月初めころに種まきがおこなわれたのでしょう。畑には、焦げた切り株が残り、その周りに稲藁が散らばっていました。
CIMG0616胡麻の実 CIMG0621木を切り倒してから焼く

かなりの面積に散らばっている藁は、穂先を収穫した後の陸稲の稲藁のようです。畑は台形に近い楕円形で、広さは直径130m強×100m弱ぐらいに見えました。この焼き畑では、ゴマ栽培のほかに多くの面積で陸稲も栽培されていました。畑の周囲に見える柵は、家畜よけなのでしょう。
焼畑は、耕作期間に対して十分な休閑期間を設けることで、草本植物から木本植物へと植生を遷移させ、開墾時の草本雑草を減少させる。また、腐食した草本・葉・根・枝などの有機物を土壌に蓄積させるだけでなく、火入れによる熱で有機物を分解して養分を供給し、土壌を殺菌する。自然の力を利用して作物栽培を持続的かつ循環的に行うことができる(参照:http://www.kyoto-bhutan.org/pdf/Himalayan/014/Himalayan-14-242.pdf
CIMG0610焼畑 CIMG0610焼畑 - コピー

この奥にも、別の焼き畑があるそうです。井戸は住居に近い木々の中にあり、管で畑まで引かれていました。
CIMG0625奥にも焼畑 CIMG0626井戸

写真の青い管をとおって、井戸の水が畑に運ばれています。畑の隅に、立ち上げた管から水が流れ出していました。そこで足を洗っている男性は、私たちを乗せてきたバイクタクシーの運転手さんです。
CIMG0617水は井戸から引いている CIMG0618

グーグルアースでポペル村付近を上空から見ると、楕円形のパッチワークのような光景が見られましたが、それらは、焼き畑の跡なのでした。焼き畑は、系100mから200mの範囲で行われ、場所を移しながら作物を栽培していきます。パッチワークのように見えた色の違いは、焼き畑直後、雑木などが生え始めた緑の薄い場所、そして再び木々が成長した場所へと、変化していく過程を見せていたのでした。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ポペル村

涅槃仏のあるプレアアントム村から、焼き畑農業を行っているポペル村に向かいました。ポペル村への道は狭く、自動車が通れないのでバイクタクシーで行きました。右地図で確認すると、ポペル村はプレアアントム村から東北東4kmほどのところに位置しています。
CIMG0638往復で一人10ドル phnom_kulen-map2[1]

バイクタクシーで着いたポペル村は、木々の中にありました。ガイドさんが「ライチの木です」と指差した先には、幹にまだら模様のある高い木がたくさんありました。ライチの木はクメール語でクーレンと呼ばれ、高さ400mほどの丘陵にクーレン(ライチ)の木が続いていることから、この山を「ライチの山=プノンクーレン」と呼ぶようになったということです。ライチの木影に、2人の子どもが見えました(右写真)。
CIMG0631ライチ(クーレン)の木が多い CIMG0559

写真中ほどに停まっているバイクが、私たちを乗せてきたバイクタクシーです。立て看板のあるこの場所は、右側に店舗、道路を挟んだ左側に集会所があり、村の中心部のようでした。子犬を抱えた少女が、母親らしい人と店の方に歩いていきました。
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店の屋根はトタン、壁面は板張りで(左写真)、手前の小屋は、細い木材や板材などの囲いがつくられていました。小屋の前に置かれている大きな木製の道具は、農作業に使われるのでしょうか。
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集会所の中に貼られている緑の木の写真は、コミュニティ林業(CF)に関する啓発ポスターかも知れません。カンボジア政府は、森林の管理は実際に近くに住むコミュニティに任せるのが最善だという方針に基づき、地域コミュニティが森林管理を担っていくための政策を次々と打ち出しています。コミュニティ林業(CF:Community Forestry)は、2002年に策定された「森林計画」の第4番目のプログラム、2010年からの20ヵ年計画で、2029年までに国の森林面積の5分の1にあたる200万ヘクタールをCFに指定するという目標を掲げています。(参照:http://www.env.go.jp/nature/shinrin/fpp/communityforestry/index4.html)
その集会所の前にも、細い丸太がたくさん転がっていました(左写真)。集会所隣の高床式家屋も、板張りの壁面が、まだ新しく見えました(右写真)。
CIMG0556ポペル村 - コピー CIMG0558 - コピー

焼き畑でゴマ栽培をしている農家を訪ねました。壁面を板張りにした高床式家屋と、隣にヤシの葉で壁面を覆った小屋がありました(左写真)。通常、生活の場として使われている高床式家屋の1階部分には、たくさんの板材が保管されていました。1階に置かれていたと思われる台は外に移され、炊事などは隣の小屋の中で行われていました。
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上写真左の高床式家屋の入口へは、写真のように、長い板張りのスロープが続いていました。
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ライチの立木を利用して、簡単な屋根を掛けた場所もありました(左写真)。右写真の板囲いは、家畜の餌場のようです。
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ポペル村では、2015年12月時点で、木材が豊富に使われている様子が見られました。それらの木材は、焼き畑のために伐採されたというより、開発に伴う伐採によって、村人が入手したものかもしれません。

写真/文 山本質素、中島とみ子

滝の家

千本リンガから、下流にある滝へ向かいました。左写真の橋を渡って右折し、木々の間をすすむと駐車場ができていました。車を下りて滝へ向かう道の両側には、三角屋根の店が軒を並べていました。それらの店はクバルスピアンの駐車場で見た店と、色や形がよく似ていました。
CIMG0749水は左側から - コピー CIMG0752滝へ

滝には、カンボジア国内から子ども連れの家族もたくさん訪れているようです。鹿の角のペンダントや木彫りの彫刻などが並ぶ店先には、カラフルなおもちゃなどが目立っていました。
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千本リンガと滝が記されている地図を再掲載しました。橋から右へ入ってすぐの屋台は、私たちが通った時は小屋が点在しているだけで、店は開かれていませんでした。駐車場先の屋台が、上の3枚の写真です。その先の吊り橋下流にヴィシュヌ神の彫刻があるようです。右写真で、流れに板橋が架かっているのが見えるでしょうか。その吊り橋周辺に、たくさんの小屋が集まっていました。
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たくさんの人々が行き交うこの場所は、屋台からの道が交差点のように広がっていて、奥へ行くと吊り橋、左に行くと滝になります。
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滝へ続く川沿いにも、バンガローのような小屋が途切れることなく並んでいました。小屋の大きさは、2坪~3坪くらいでしょうか。衣類などを並べて店舗として使われている小屋もありましたが(左写真)、多くは、滝を訪れた人たちの休憩所になっていました。
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食べ物の店も出ていて、揚げたバナナが人気のようでした。
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店の中で、揚げバナナをつくっている女性がいました。店の奥のコンロに油の入った鍋がかかっています。女性は、皮をむいたバナナを透明のプラスチックに入れると、鉄製の道具の間に挟んで押しつぶして平らにしていきました。平らにのばしたバナナに水溶き小麦粉をつけて、油で揚げると、右写真手前のような揚げバナナが出来上がります。
CIMG0789 CIMG0790バナナを平らにつぶして天ぷら CIMG0795 CIMG0792

小さな子供を連れた家族や若者たちが、思い思いの時間を過ごしている小屋は、まるで「滝の家」のようでした。小屋の後ろを流れる川は、じきに滝をつくりだします。
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一段目の滝です。高さ数メートルの岩の上から流れ落ちた水は、岩盤の上を広がって流れ下っていました。平たんになっている滝の下では、訪れた人たちが水遊びをしている姿がありました。滝の上や対岸にも、たくさんの人々の姿が見えました。
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12月(乾期)の滝下の水深は足首ほどなので、小さな子供も水遊びを楽しんでいました。
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プノン・クーレンは高さ400mほどの砂岩でできた丘陵で、アンコールワット寺院の建材としての砂岩は、プノン・クーレンの麓から切り出されたといわれています。千本リンガの川底や一段目の滝が流れ下る川底も、砂岩からなっているのでしょう。一段目の滝から流れ落ちた水は、平たんな岩の上を流れ下っていきます。

CIMG0772左下に2段目の滝 (3)CIMG0771 - コピー

左写真の階段を下りると、二段目の滝の下に出ました。この滝は、高さ20mほどもある大きなものでした。
CIMG0776二段目の滝へ向かう CIMG0782

滝の下の方は大きな岩が積み重なっていて、滝壺で泳ぐ人々の姿が見られました。高い場所から流れ落ちる滝がつくり出す滝壺は、水深も深く、カンボジア人だけでなく観光客も水着や服で泳いでいました。
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プノン・クーレンは、カンボジアの人々にとって信仰の山であり、そこにある2つの滝は、信仰を集める場所であると同時に、涼を求めて集まる人々の行楽地にもなっていました。

写真/文 山本質素、中島とみ子

千本リンガと湧水

プリア・アン・トム寺院の西門から80mほど行くと、道の先に橋があり、川沿いにはロープで柵がつくられていました。道路の両側には、デコボコとした岩が露出していました。
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左地図で確認すると、橋を進むとシェムリアップ市街地方面へ、橋の右側(下流)に行くと2つの滝があり、そして左側(上流)が千本リンガと記されていました。私たちは車を下りて、千本リンガと記された赤丸の場所へ進みました。
phnom_kulen-map[1] CIMG0706千本リンガ

ガイドさんが立ち止まったのは、川沿いに張られたロープの横に「NO PASSING ON THE CARVING(彫刻の上を渡ってはいけません)」と書かれた立札のある場所でした(左写真)。太陽の光が木漏れ日となって川面が輝くこの場所は、一見すると、川底が黄土色に見えるだけでした。
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覗き込むと、川底一面に黄土色の石に彫られたリンガやヨニが見えました。大きなものは1mほどもありました。これらの彫刻は、「1,000余の小彫刻が、水面下わずか5センチメートルの砂岩の川床に刻み込まれていて、….石の床に彫刻できるように迂回させる川があった」と言われています(参照:ウィキペディア)。また、この水域は「ジャヤーヴァルマン2世が川で水浴するために選ばれた」と伝えられています。
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ヒンドゥー教の寺院では、シヴァリンガ(リンガとヨニの2つの部分からなる)が礼拝の対象になっています。ジャヤーヴァルマン2世は、その豊沃を象徴する彫刻によって人々の間にリンガ礼拝を広めようとしたとされ、その意味で、この水域は特別な意味を持っていたようです。右写真は、シェムリアップ市街地のチケット売り場に掲載されていた千本リンガの写真です。
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少し上流にある「聖なる湧水」まで足を延ばしました。湧水まで行く観光客も多いらしく、途中に写真撮影スポットとしてブランコが設置してあり、そばで2人の少女が番をしていました(左写真)。さらに進むと、なぜここに建てられたのかはわかりませんが、「佛」と書かれたお堂もありました(右写真)。
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「聖なる湧水」の地点に着きました。径4mほどの池の中心から、プクプクと水が湧き出しているのが見えました。左写真で水色に見えている箇所が湧水点です。池の両側に祠もありました。湧き出た水は、木立の間を流れていきました(右写真)。 このような湧水点は、付近に10~数10か所もあるということです。
CIMG0739五十年後には水が枯れてシェムリアップの水がなくなるという説も CIMG0740シェムリアップ市で必要な水は3万トン。トンレサップ湖の水を使えるように日本が援助しているが、現在の計画では1万トン

湧水点から戻る途中の川床にも、所々に彫刻が残っていました。川底の彫刻は、約1㎞に渡っていて、下流にある吊り橋付近には、ビシュヌ神の彫刻もあるそうです。
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駐車場まで戻ると、橋のそばの川の中に2人のお坊さんの姿が見えました。彼らの足元にも、リンガの彫刻が残されているのかもしれません。
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プノン・クーレンの千本リンガと同じように、川床に彫刻をもつクバル・スピアンは、残された石碑からウダヤディティヤヴァルマン2世の治世(1050~1066)のものとされています。千本リンガは、アンコール朝を興したジャヤヴァルマン2世の治世(802~834)から、ウダヤディティヤヴァルマン2世の治世の間に彫られたものと考えられるでしょう。湧水を集めた緩やかな流れが、千本リンガを護ってきたのでしょうか。

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