伝統楽器トローづくり

ロハール村では、前回紹介したスコーの他に、伝統楽器トローの制作もおこなわれていました。スコーづくりをしている小屋への道に「TRADITIONAL KHMER MUSICAL INSTRUMENT HANDICRAFTS」の案内板が出ていました。入ると、いくつか楽器作りをしている小屋が見えました。
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トローを制作販売しているという家を訪ねました。庭に、主人の男性と、2人の女性、2人の若い男性が集まっていました(左写真)。女性たちは、たくさんのトローの棹を前に坐っていました。若い女性はトローの棹を立てて、位置関係を計っているようすでした(右写真)。
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左写真は、完成したトローと弓です。ザルの中には糸巻の部品が見えました。トローの胴の部分は円形で、ヤシの実の殻が使われているように見えました。右写真は、まだ組み立てていない胴の部分で、細かい穴と模様が彫られていました。
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以下に、参考として中国の二胡の仕組みを、写真とともに引用掲載させてもらいました(引用;http://www.it-japan.co.jp/nikoc/what/top.htm)。棹は、硬くしかも木材密度が高いほうがさらに音色はよい。胴は、共鳴箱で、大体棹と同じ木材を使い、六角形あるいは八角形のものが多いですが円形、楕円形など様々です。糸巻は、棹と胴と同じ木材で作るのは一般的で、木製および先端の部分に金属製の物があります。駒は、色々な木材で作られます。弦は、二本のうち、細いほうは”外弦”といい、太いほうは”内弦”といい調弦が必要です。右写真は、ロンタオ地区でつくられているトローです。
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トローの演奏は、弓を使って胴の少し上あたりを、できるだけ水平になめらかに弦をあてて弾きます(右写真)。トローは、その形も仕組みも二胡とよく似ています。
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数か所の小屋で、トローの部品を作っているのを目にしました。 DSC01391 DSC01393

ある小屋では、女性が棹を作っていましたが(左写真)、そばに、棹を丸く削るための機械が見えました(右写真)。
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カンボジアでは、正月や盆、雨乞いの儀式や結婚式など、音楽は生活の一部として伝承されてきました。しかし1975年から始まるポル・ポト政権下においては、伝統音楽も否定され、多くの伝統楽器が失われるとともに、伝統音楽を演奏する技術を持つ人も少なくなってしまったそうです。
ロハール村内でつくられているスコーやトローの多くは、土産物品として観光客に提供さるようですが、これら伝統楽器の制作を通して、音楽が再び村の人たちの生活の一部として継承されていくことを願いたいと思います。

写真/文 山本質素、中島とみ子

伝統楽器スコーづくり

ロハール村のコースノール集落では、伝統楽器スコーを制作しています。*ロハール村情報/位置:アンコールワットから約4㎞北東、バンテアイ・クディの北側。西はタ・プロムに接し、東は北スラスラン村と接している。
集落の入り口付近で、オートバイに飲み物などを積んで売り歩く男性と出会いました。子どもが2人、買いに来ていました。男性が、ポットから飲み物を注いでいるところを、順番を待っている少年がじっと見ていました。道の両側には、バナナの葉やヤシの葉で屋根を拭いた小屋が建ち、そばにはカットされた丸太が、たくさん置かれていました。
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自分の番になった少年は、手にした小遣いで飲み物を買っていました(左写真)。右写真は、道路沿いから見えた小屋の様子です。中には男性が2人見えましたが、オートバイや自転車が置いてあったので、彼らは仕事のためにこの小屋へ通ってきているようでした。
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スコーづくりしている小屋に立ち寄らせてもらいました。スコー(Skor)は、カンボジアの伝統楽器です。1人の若者が小屋の中の機械に、短くカットされた丸太をセットしていました(左写真)。機械の電源を入れ、セットした丸太が回転し始めると、彼は、手にした刃物で、胴体の部分を器用に削っていきました。右写真は、底の部分を削っているところです。
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彫り終えたスコーは、機械から外されます。1個のスコーを削るだけでも、かなりの木屑が出ていましたが、山積みになった木屑は、ここで大量のスコーが造られていることを示しています。
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機械から外されたスコーは、逆さにして台の上に置かれていました。よく見ると、スコーの底面、機械で押さえてあった部分が残っていました。右端には塗料(ニス)が塗られたスコーと、その下に刷毛が置かれていました。
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残った部分はどうするのか見ていると、女性が刃物を使って削り落としていました(左写真)。同行した1人が、ちょっと傾けてスコーの上部になる面をのぞきこんでいました。すでに中は機械でくり抜いてあったようです。
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塗料(ニス)を塗ったスコーが、乾かしてありました。大きさが少しずつ異なるのは、材料の丸太の大きさによるのでしょう(左写真)。ひっくり返して皮を張って、スコー・トォチ(小太鼓)が出来上がります。皮は、牛革や蛇皮が使われるようです(右写真)。
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集落の入り口付近で見かけた丸太は、このスコーを制作する材料でした。アンコール朝時代には、雨乞いの儀式や年中行事などの際に、スコーが演奏されていたようです。アンコール・トム内のバイヨン寺院壁画でみた楽隊の中にもスコーらしい楽器が描かれていました。現在作られているスコーの大部分は町や観光地の土産物店で売られています。

写真/文 山本質素、中島とみ子

象のテラス

アンコール・トムの中心寺院バイヨンから北に進むと、Preah Ngok Pagodaの入口に大きな仏像が見えました。離れた場所からの写真ですが、仏像の足元にいる人々や、木の下に集っている人々と比べると、この仏像の大きさがわかると思います。その先にテラスが続いていました。これらのテラスも、ジャヤヴァルマン7世により12世紀末に築かれたものです。*アンコール・トム遺跡情報/位置:南大門は、アンコールワットの約1.5㎞北 /建立: ジャヤヴァルマン7世(1181~1220頃)が、都城として造営。
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アンコール・トム遺跡の中に設置されている案内板の一部を拡大しました。左上写真の仏像があるのは①Preah Ngok Pagodaです。②はパプーオン寺院、③ピミアナカス寺院で、濃い茶色枠が王宮のラテライト城壁です。④が象のテラス、⑤がライ王のテラスと呼ばれている場所です。南北に通る赤い点線は、北門へ続く道で、④から東へ延びる点線は勝利の門へ続く道です。DSC00127

④象のテラスは、王宮の東塔門の正面に造られています。ジャヤヴァルマン7世も、この門をくぐってテラスに出たのでしょう(左写真)。王宮から東塔門を出ると、大きくテラスが広がっています(右写真)。
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テラスを上がると、まっすぐに伸びる勝利の門への道が見えます。その両側に、象のテラスに向かい合うようにレンガの祠堂(プラサット・スゥル・プラット)が並んで建っていました。プラサット・スゥル・プラットも、ジャヤヴァルマン7世によって建てられたものです。この広い空間は、凱旋する兵士をむかえるための場所で、テラスは,王たちが眺望する基壇として使われたといわれています。テラスの両側をナーガとシンハが護っていました。 
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正面階段の両側に、3つの頭を持つ象(アイラーヴァタ)の彫刻がありました(左写真)。同じ象の彫刻は、王宮の東北隅のテラスにも見えました(右写真)。象はインドラ神の乗り物とされています。
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テラスの東壁面には、おびただしい数の象のレリーフが続いていました。象のテラスは、高さ3m、長さは300m以上にもなるそうです。
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左写真は、テラスの中ほどからライ王のテラス方向を臨んだものです。テラスの上にはナーガの欄干が続いています。テラスの東壁面には、ガルーダのレリーフも見られました(右写真)。
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Leper King Terrace(ライ王のテラス)は、象のテラスの北側に、基壇(一辺約25m、高さ約6m)を異にしてありました(左写真)。基壇の各面には、ナーガや仏像などが所狭しと彫られていました(左写真)。私たちが「ライ王」と呼ぶテラスに立つ像は、カンボジア人の間では、元来あった彫像の基部に刻まれていたダルマラーヤ (Dharmaraja)として知られているそうです。
1965年(昭和40年)10月にアンコール・トムを訪れた三島由紀夫は、この像から、彼の最後の戯曲『癩王のテラス』を構想したといわれています。
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2013年8月27日の雨模様の日、かつて王族が歩いたであろうテラスの上を、多くの観光客が行き来していました。
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象は、インド神話では、世界を支える存在として描かれています。そして、アンコール朝時代、アジアゾウは使役動物として、また戦う象として軍事用利用されていたようです。象のテラスの前には、凱旋した人々とともにたくさんの象が整然と並んだのでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子

バイヨン

アンコール・トムの中心にあるバイヨン寺院は、12世紀末、ジャヤヴァルマン7世が、チャンパ軍に占領されていたアンコールの地を奪回したことを記念して、建立したと伝えられています。*アンコール・トム遺跡情報/位置:南大門は、アンコールワットの約1.5㎞北 /建立: ジャヤヴァルマン7世(1181~1220頃)が、都城として造営。バイヨンは、クメール語ではバヨンの発音に近く、バは「美しい」、ヨンは「塔」の意味になるそうです(参照:ウィキペディア)。
東正面入り口には、ナーガ(蛇神)の手すりの付いた、幅15m、長さ70mのテラスがあります。
2013年8月には、東テラスからバイヨンが美しく見える午前9時ごろ訪れました。あいにくの雨模様でしたが、テラスには大勢の観光客の姿があり、各国の言葉が飛び交っていました。DSC08935

バイヨン寺院の平面図を掲載しました(http://www1.plala.or.jp/naopy/cambo_01/bayon.htm)。この寺院は、東入り口に大きなテラスと、第一回廊、第二回廊を持ち、第二回廊から上部テラスへと上ると中央祠堂に至ります。周囲を16基の尖塔が囲んでいます。
平面図

第一回廊の東入り口には門衛らしい像が立っていましたが、頭の部分がありませんでした(左写真)。このあたりの屋根は崩れてしまっていましたが、柱にはアプサラ(天女)や金剛力士のレリーフが残り、壁面にはデバター(女神)も見えました(右写真)。
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第一回廊には、インド神話やデバターなどのレリーフがありました(左写真)。回廊のまぐさ石に、仏像が彫られているのが見えました(右写真)。
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第二回廊から登っていくと上部テラスに出ます。目の高さや上方に、砂岩に彫られた観世音菩薩の顔がありました。尊顔の高さはまちまちで、1.7~2.2メートルほどのようです。
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200リエル紙幣に印刷されているのは、ここバイヨンの観世音菩薩です(左写真)。中央祠堂の高さは約45m(右写真)。
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上部テラスを回るとどこを向いても観世音菩薩の顔がありました。特に印象的だったのは、中央祠堂の窓枠を通して見えた顔でした。、 あるものは横顔、あるものは正面を向いた観世音菩薩が、まるで絵画のようにぴったりとはまっていました。
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これらの像は、観世菩薩像を模しているとされますが、戦士をあらわす葉飾り付きの冠を被っていることから、ジャヤヴァルマン7世を神格化したとも言われています。
日本国政府アンコール遺跡救済チーム(JSA)の調査によると,尊顔は全部で173 現存し,デーヴァ(男神),デヴァター(女神),アシュラ(悪魔)の3種類に分類でき、デーヴァ(男神)は比較的穏やかな表情をした丸顔,デヴァター(女神)は顔立ちがきつい細長い丸顔,アシュラ(悪魔)は顎のエラがはった四角い顔であると言われているそうです。各塔への配置には厳密ではないものの規則性があり、寺院から外側に向いているのはアシュラ,寺院の内側を向いているのはデーヴァ,さらに,本尊とされる寺院中央の中央塔を讃嘆するように向いているのはデヴァターで、デーヴァ型が多数を占めているということです。(http://www.cvl.iis.u-tokyo.ac.jp/papers/all/786.pdf

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北入り口付近の第二回廊に、仏像が置かれていました。その両側の柱には、たくさんの踊る天女(アプサラ)が彫られていました。
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写真は、北入り口から見たバイヨン寺院です。「アンコール・トムは従来からのクメール的宇宙観を踏襲した宗教都城である。中心となるピラミッド型寺院バイヨンは須弥山(メール山)を模し、城壁はヒマラヤの霊峰連山を、環濠は大洋を象徴化したものである。神の都城を模すことで、王権の神格化を図っている」( 参照:『アンコール・ワットへの道 クメール人が築いた世界遺産』文・石澤良昭 写真・内山澄夫)
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石澤氏は、多くの王たちがアンコール地方を都とした理由を、アンコール地方の地形に求めています。、「北方に聖山プノン・クーレン高丘(ヒマラヤ山脈)があり、そこから流れ出る聖なる川ジェムリアップ(ガンジス川)は、聖都城を経てトンレサープ湖(大洋)へそそぐ」。つまり、インド伝来の宇宙観をカンボジアの地理条件に合わせたところに、聖都アンコールの存在の理由を見ています。

写真/文 山本質素、中島とみ子

アンコール・トム2013年8月

アンコール・トムは、アンコール・ワットの北約1.5㎞に位置しています。「大きな都市」という意味をもつアンコール・トムは、12世紀後半ジャヤヴァルマン7世が建設した仏教寺院で、正式な名称は、ヤショヴァルマン王の都城を意味する「ヤショダラブラ」です。
2013年8月のアンコールトムの前は、小雨の中,大勢の観光客でにぎわっていました。
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ジャヤヴァルマン7世がアンコール・トムを建造した背景には、1177年のチャンパ軍侵入があり、ジャヤヴァルマン7世が、1181年にチャンパ軍を撃退し、即位したという歴史的経緯があります。
環濠の内側に廻らされた高さ8m、幅3mに積み上げた堅牢なラテライトの城壁には、都城を防御するという王の思いが込められているようでした。城壁の東西南北に大門が造られ、東には死者の門、勝利の門と名付けられる2つの大門があります。それぞれの城門には、四面に観世音菩薩が彫られています。DSC08912

環濠を渡る130mの橋の欄干には、ナーガを抱える石像が配置されていました。左右それぞれ54体あるそうですが、南大門に向かって左に神々の石像(左写真)、右にアスラ(阿修羅)の石像(右写真)が並んでいました。この欄干は、インド神話の中の天地創造神話「乳海攪拌」をモチーフにしたものです。石像の中には、頭部がまだ新しく修復されたものも多く見られました。上の写真において、ブルーシートで覆われているのは、修復中の石像です。
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「乳海攪拌」の内容は、ヴィシュヌ神の化身である巨大亀クールマに大マンダラ山を乗せ、大蛇ヴァースキを絡ませて、神々はヴァースキの尾を(左写真)、アスラはヴァースキの頭を持ち(右写真)、互いに引っ張りあうことで山を回転させると、海がかき混ぜられ、海に棲む生物が細かく裁断されて、やがて乳の海になったというものです(参照:ウィキペディア)。
欄干の先頭には、7つの頭を持つナーガが立っていました(右写真)。
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別の日、アンコール・ワットの一画で、石像(アスラ)の頭部が並んでいるのを見かけました。アンコール・トム等の、欄干の石像を補修するために造られたものかと思いましたが、白い板には「For Sale」と書かれていました(右写真)。
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高さ23mの南大門の上部に彫られている観世音菩薩は、顔の大きさが3mもあるそうです。ハスの王冠の髪飾りをつけていることから、ジャヤヴァルマン7世を神格化したものとも言われています。城門の両側を3つの頭を持つ象(アイラーヴァタ)に乗るインドラ神が、門衛神のように護っていました。象が通ることのできる4mの幅を持つ南大門の入口を、マイクロバスが窮屈そうに通っていきました。
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南大門を入ると、木々の緑が目を惹きました。その一画で、象に乗った観光客を見かけました(右写真)。
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アンコール・トム城門には木造の扉があり、朝に開かれ、晩には閉じられたそうです。城壁内では、たくさんの人々の暮らしが展開していたようです。日本の城下町のような光景がそこにあったのでしょうか。

写真/文 山本質素、中島とみ子

パプーオン

パプーオンは、前回紹介したピミアナカス寺院より半世紀ほど後の11世紀中期に、王都ヤショーダラプラ(第1次)の中心寺院として、14代目の王ウダヤディティヤヴァルマン2世(1050~1066)が建立したピラミッド型寺院です。寺院へは、、高さ1メートルほどの支柱の上に170mにもおよぶ参道が続き、空中参道と呼ばれています。
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パプーオン寺院は、バイヨン寺院の西側、そして王宮を囲む周壁の南外側に建っています(左図http://www2m.biglobe.ne.jp/ZenTech/world/map/Cambodia/Angkor-Wat-Map.htm)。
パプーオンの名の由来として、次のような話が伝わっています。「その昔、シャム(タイ)王とクメール王は兄弟であった。 シャム王はクメール王に自分の息子を預けたが、王の家臣は策謀だと考え、その子を殺してしまう。怒ったシャム王が軍を差し向けたため、クメール王は自分の息子が殺されないようにと、息子をこの寺院に隠した」。そのために「子隠し寺」の意味をもつパプーオンと呼ばれるようになったそうです。
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ピラミッドの基盤は、東西120メートル、南北100メートルにおよび、最上段には、高さ2mの円柱が支える空中回廊がめぐらされています。高さは34mですが、約50mの塔があったとされています。そしてその上部にはシヴァ神の祠堂があり、黄金製のリンガ飾られていたそうです。
13世紀末(1296~1297年)に訪れた元の使節、周達觀 は、パプーオンについても、「銅塔一座があり、金塔(バイヨン、高さ45メートル)に比べて更に高く、これを望めば鬱然としてその下にはまた石室が十数ある」という言葉を残しています。
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11世紀中期にヒンドゥー教寺院として建立されたバプーオンは、15世紀後期には仏教寺院に改修され、裏側(西側)は釈迦涅槃像が彫られました。仏教寺院に改修された際に、シバ神の祠堂とリンガが取り壊されてしまったのでしょうか?2013年8月に訪れた時、祠堂の枠組みの中に男性の姿が見えました。
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パプーオン遺跡は、考古学者らによる51年の修復期間を経て、2011年11月から、観光客など一般の訪問者の入場が許可されるようになりました。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ピミアナカスと王宮

ピミアナカス寺院は、10世紀中期にラージェンドラヴァルマン1世(944-969)の建造したヒンドゥー経寺院を、11世紀にスールヤヴァルマン1世(1011~1050)が、須弥山を模した三層のピラミッド型寺院に再構築したものです。プランの長辺581m、短辺242mの長方形のピラミッド型寺院です。
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説明板(左写真)には、11世紀末から16世紀にかけてこの遺構は、その上部祠堂、下部基壇とともに幾多の増改築を加えられたこと、そして、「13世紀末に当地を訪れた中国の周達観が、その見聞録にこの王宮内伽藍のことを「黄金の塔」と記し、アンコールの覇王は、毎夜この神殿で、王国の守護神とされる九頭の蛇の化身である一人の女性と寝を共にしたという象徴的な伝説を付記しています」と書かれていました。
現在残るピミアナカス寺院の最上段の塔は、崩れていました(右写真)。
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塔に上る階段の両側を、シンハが護っていました(左写真)。各基壇を護っていた象は、多くがその形をとどめていませんでした(右写真)。
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ピミアナカス寺院は、アンコール・トムの環濠の内側、バイヨン寺院の500mほど北西に建っています(左図http://www2m.biglobe.ne.jp/ZenTech/world/map/Cambodia/Angkor-Wat-Map.htm)。*アンコール・トム遺跡/位置:南大門は、アンコールワットの約1.5㎞北 /建立: ジャヤヴァルマン7世(1181~1220頃)が、都城として造営
アンコール・トム都城の造営は12世紀後半ですから、ピミアナカス寺院は、その前からこの場所にあったことになります。ピミアナカス寺院の西には王宮があったとされますが、現在は、木々がまばらに立つ空間が広がっているだけでした。廻らされたラテライトの周壁が、ここに王宮があったことを教えていました(右写真)。
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左写真は、王宮とその付近を描いた案内板です。茶色の部分が東西約600m、南北約300mのラテライトの周壁で、その内側が王宮です。周壁に囲まれた中央にピミアナカスがあります。アンコール朝の王都は、バコンやコー・ケーなどに移された時期もありましたが、15世紀末期にアンコール・トムを放棄するまで、アンコール朝のほぼ600年の間、この場所が王宮として機能し続けてきました。2013年8月には、象のテラスに面した東塔門から入りました。
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左写真が正面入り口の東塔門です。入口に通じるテラスの下では、草刈りが行われていました(右写真)。
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王宮の中には、沐浴場として造られた大小2つの池がありました。乾期には、大きい池の壁面に彫刻が見えるそうですが、雨期のこの時期は草で覆われていました(左写真)。小さい池には、水浴びをしている少年がいました(右写真)。
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池の周りにも、緑の服を着て草刈りをする人々が大勢いました。シェムリアップ市街地や多くの遺跡で見かけるこの制服は、行政と契約したフランスの企業に所属している清掃員であることの証です。
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小さい池の脇を通り、北塔門から王宮の外へと出ました。
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ライ王のテラスへ続く小道の脇には、ナーガをはじめ遺跡を構成していた石が集められていました(左写真)。王宮の周壁も見えています。
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アンコール朝の王たちが仰ぎ見たピミアナカスは、ラテライトの周壁に守られるように、王宮の中心に建っていました。王宮内の木々の揺らぎに、歴代の王たちの気配を感じたように思いました。

写真/文 山本質素、中島とみ子

アンコール朝の全盛期

ジャヤバルマン2世が即位した802年から始まるアンコール朝では、都をアンコール地方からロリュオス地方、コー・ケー地方へと移し、再びアンコールの地に都が戻ったのは9代目の王ラージェンドラヴァルマン1世(944-969)の治世のことでした。そして13代目の王スールヤヴァルマン1世(1011~1050)治世には、チャオプラヤ川流域のロッブリー(現在、タイ領土)にまで領土を拡大していき、アンコール朝は隆盛期を迎えます。
スールヤヴァルマン1世は、ラージェンドラヴァルマン1世(944-969)の治世に建造されたヒンドゥー教寺院を、須弥山を模した三層のピラミッド型寺院ピミアナカス神殿として再構築しました(①)。現在、アンコール・トムの遺跡内に位置するピミアナカス遺跡は、最上段の塔は崩れ、各基壇を護っていた象も多くがその形を無くし(②)、塔に上る階段をシンハが護っていました(③)。この塔には、「王はナーガが姿を変えた女性と毎晩初夜を過ごさなければならず、ナーガが夜に姿を現さなければ王の余命は幾ばくもなく、王が姿を見せなければ、災難が王の土地を襲う」という話が伝わっているそうです。

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14代目の王ウダヤディティヤヴァルマン2(10501066)が建立したバプーオンも、3層からなるピラミッド型寺院で、ピミアカナス寺院の南に隣接しています。170mの空中参道が寺院へ続いています(①②)。ヒンドゥー教の神シヴァに捧げるために国家的寺院として建立されたこの寺院が「子隠し寺」の名を持つのは、次のような伝説によるものです。「その昔、シャム(タイ)王とクメール王は兄弟であった。 シャム王はクメール王に自分の息子を預けたが、王の家臣は策謀だと考え、その子を殺してしまう。怒ったシャム王が軍を差し向けたため、クメール王は自分の息子が殺されないようにと、息子をこの寺院に隠した」
11世紀中期にヒンドゥー教寺院として建立されたバプーオンは、15世紀後期には仏教寺院に改修されました。

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16代目の王ジャヤヴァルマン610801107)の治世においては、ヒンドゥー教寺院ベン・メリアの建立が始まりました。 ベン・メリアは、アンコールの東約60㎞に位置し、「東のアンコール」と呼ばれています。

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18代目の王スールヤヴァルマン2(11131150頃) は、、ヒンドゥー教寺院アンコール・ワット約30年かけて完成させました。そのアンコール・ワットも、16世紀の後半期に仏教寺院として改修され、本堂に安置されていたヴィシュヌ神が四体の仏像に置き換えられています。

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21代目の王ジャヤヴァルマン7世(11811220頃)は、アンコール朝初の仏教徒の国王で、仏教優先政策をおこないました。都城アンコール・トムを造営し、南大門には、四面の観世音菩薩が彫られ(①)、南大門に続く参道には、乳海攪拌を模した阿修羅と神々の像が並んでいます(②)。そして、アンコール・トムの中心に建立された山岳型寺院バイヨンには、たくさんの観世音菩薩像が彫られました(③)。ジャヤヴァルマン7世の治世は、領土内に寺院や施療院が建設され、道路網や宿駅なども整備され、また、チャンパ王国を支配するなど、アンコール朝に最盛期をもたらしました。しかし、アンコール・トムがアンコールの地における最後の都城になってしまいました。

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ジャヤヴァルマン7世は、母の菩提を弔うために、1186年にタ・プロム寺院を建立しました。タ・プロム寺院は、アンコール・トムを囲む環濠から東へ1㎞ほどのところにあり、西入口の塔門には、四面に観世音菩薩が彫られています(①)。仏教寺院として建立されましたが、後にヒンドゥー教寺院に改修されたようです。タ・プロム遺跡の修復はインドの協力によって進められています。写真②は、修復された西塔門とテラスです。遺跡修復の観点から遺跡の随所に絡みついている熱帯の巨大な樹木ガジュマルについて(③)、「遺跡を破壊しているのか、それともいまや遺跡を支えているのか」という議論が現在の継続中と、ウィキペディアは伝えています。

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また、ジャヤヴァルマン7世は、すでにヒンドゥー教の寺院として建てられていたバンテアイ・クディを、12世紀末に仏教寺院に改造しています。タ・プロム寺院の南東に接し、スラスランの西に位置するバンテアイ・クディの東塔門には、アンコール・トムやタ・プロム同様、四面観世音菩薩が彫られていました(①)。バンテアイ・クディでは、日本の上智大学アンコール遺跡国際調査団が1989年から調査と保存修復を担っています。2001年にはラテライトが敷かれた参道の右脇で274体の仏像が見つかっています(②)。

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15世紀の前半、アンコール地方に侵入したタイのアユタヤ朝(1351年 – 1767年)によって、26代にわたるアンコール朝の王たちの歴史は終わります。

写真/文 山本質素・中島とみ子