Little Angels

前回紹介した革クラフト工房は、養護施設としての機能も担っていました。工房の窓に掛かっている青い幕に見える「Little Angels」が、施設の名称です。工房の中では、少年たちが革細工をしていました。彼らの多くが、この施設で暮らしているのでしょうか。
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青い幕には、革細工に関する作成手順等が写真で示されていました。写真を拡大し、順番に見ていきます。まず、Making Tools、 革細工に必要な道具作りを行います。Natural Colorとは、革細工の彩色に、自然の植物を使用しているということでしょう。Making Leatherは、革をなめす作業、そしてCarviing、革を彫る作業と続きます。
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最後はDye、彫りあがった革細工に色を染めていきます(左写真)。右写真が、彫りあげた革細工に刷毛で染料を塗った状態のものです。
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工具や電動やすりなどが置かれている場所もありました(左写真)。通路奥にある大きなカマドでは、革を染める染料を煮出していました(右写真)。
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ガイドさんが手にしているのが、染料用の植物です。このカマドは染料を作るためのもので、食事のためのかまどは、別の所にありました。
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「姓名刻」と書かれた革細工の見本帳がありました。ここでは、スバエク(影絵芝居)に用いる以外の革細工技術も学んでいるようです。
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工房のすぐ横に、机といす、そしてホワイトボードが設置された教室がありました(左写真)。本棚には、クメール語の絵本、デザインの本、写真集、教科書などのほかに、日本語や英語など外国語の本もありました。外国語の本は、ここを訪れた観光客がおいていったもののようです。
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ベットの並んだ部屋もありました。
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養護施設Little Angelsは、スバエクの技術を習得した男性が設立したもので、施設で暮らす子どもたちと一般の子供たちの両方に、牛革彫刻の技術を伝えているそうです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

革クラフト工房

プリヤ・コー遺跡の近くに、いくつかの工房が集まっていました。その一画で、革細工をしている少年少女たちがいました。輪切りにした木を台座に、なめした牛の皮を使ってスパエク(影絵芝居)に登場する動物や人形などを彫っていました。傍らに、ポンチや目打などの工具を入れたペンシルケースが置かれていました。*プリヤ・コー遺跡情報/ 位置: アンコールワットから東南東へ約13㎞。ロリュオス地方/ 建立:インドラヴァルマン1世(877~889)が879年に建設したアンコール朝最古のヒンドゥー教寺院。
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木槌を振り上げ少年が彫っていたのは、頭が3つある象でした(左写真)。この象は、「アイラーヴァタ」とよばれ、ヒンドゥー教の神インドラの乗り物とされています。細かい作業に疲れた目をこする様子に、あどけなさが残っていました(右写真)。
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少女たちが細工をしていたのは、小さな象(左写真)や、魚(イルカ?)でした(右写真)。
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少年の作業を見守っている男性がいました。少年はなめした革に線を書き入れているところでした(左写真)。その右側には、象の細工をしている少年がいました(右写真)。
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左写真の少年は、インドラ神を、右写真の少年は、大きな作品を制作中でした。ここで作業をしていた少年少女たちの革クラフトの技術レベルは様々なようでしたが、目打ちやポンチなどの工具を握って、木づちを振り下ろす姿は、真剣そのものでした。
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工房の建物の中には、この工房で制作されたた革クラフトが陳列されてありました。
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スバエク(影絵芝居)は、シェムリアップ州が発祥地といわれています。小型の手足の動かせる人形を使って演じる影絵芝居は、スバエク・トーイと呼ばれ、大型の人形を使うものはスバエク・トムと呼ばれるそうです。
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工房には、ノロドム・シアヌーク(Norodom Sihanouk)の死を悼む大きな写真がありました。彼は、2012年10月に死去し、葬儀は2013年2月1日に行われました。私たちが工房を訪問したのは、彼が死去した2か月後でした。
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工房の奥には、スバエク(影絵芝居)用のスクリーンもありました。内戦を経たカンボジアでは、スバエクに携わる人々が少なくなってしまったそうです。この工房から、将来スバエクを担う人たちが出てくるように思えました。

写真/文 山本質素、中島とみ子

シルクと陶器

プリヤ・コー遺跡の近く、道路を挟んで東側に、「SILK CERAMICS (Donated BY Mr.NENJI KOBAYASHI JAPAN)」と書かれた建物がありました。この施設は、日本の俳優(小林稔侍)によって寄贈されたものでした。入口付近では陶器とクロマー(カンボジアのスカーフ)が販売されていました。*プリヤ・コー遺跡情報/ 位置: アンコールワットから東南東へ約13㎞。ロリュオス地方/ 建立:インドラヴァルマン1世(877~889)が879年に建設したアンコール朝最古のヒンドゥー教寺院。
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テーブルの上に並んだツボや器などの陶器は、クメール焼きをイメージしたものでしょう。右写真の右に写っている円錐状の陶器はランプシェードです。
カンボジアには、アンコール王朝時代に高度な技術を持った「クメール焼」の陶器がありましたが、王朝の衰退に伴い途絶えてしまい、その原料や釉薬などの資料も、ポル・ポト政権時代に破棄されてしまいました。現在は、素焼き鍋づくりで有名なコンポンチュナンで、日本の益子焼の技術を使って、幻の「クメール焼」を復活させようというプロジェクトが進んでいるそうです。http://www.nippon-foundation.or.jp/what/spotlight/asia/story1/
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奥の方には機織り機が設置され、女性たちがクロマーなどを織る姿が見られました。
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機織り機は、糸をかける部分も、足で操作する部分も、細い棒が使われた簡素なものでしたが、彼女たちは、両手両足で器用に操作して布を織っていました。右写真で女性が手に持っているのが、横糸を渡すためのヒです。
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素足になって、足元の棒を操作している女性もいました。注意してみると、どの機織り機のそばにも、サンダルなどの履物が脱いで置かれていました。
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この施設のそばにネアクタを見かけましたが、中にサンダルが祀られていました(左写真)。線香やろうそく、水も供えられているので、このネアクタの中のサンダルには、機織りが上手になるようにという女性たちの願いが込められているのかもしれません。
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内戦後のカンボジアでは、各国から遺跡の修復をはじめ、井戸作り、学校建設など、様々な支援が行われてきました。2012年現在、陶器づくりや機織りなど、女性の自立を支えようとする動きも始まっているようです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ロレイの仏教寺院2013

ロレイ祠堂は、インドラカタータ(人造池)の中に土を盛った小島の上に建立されましたが、水が涸れた現在では、田の中の小さな丘の上に建っていました。丘の上には、寺院や僧院が4基のロレイ祠堂を護るように周りを囲んでいました。*ロレイ遺跡情報/ヤショヴァルマン1世(889~910頃)が、父インドラヴァルマン1世によってロリュオス地方に開掘された人工池インドラタターカ(東西3.2km南北0.7km、貯水量1000 万㎥)の中心に893年に建立。
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祠堂の南に見える2棟の大きな高床式の建物が、僧侶たちが暮らす場所です。カンボジア語では僧侶の家をコット(kot)、集会所兼会食場をサーラ(sala)、本堂をヴィヒア(vihear)と呼ぶそうです。参照:http://angkorvat.jp/doc/cul/ang-cultu2080.pdf
2棟のコット(僧侶の家)のうち左写真の建物の方が古く、壁面にめぐらせた縦板の間からオレンジ色の僧衣が見えていました。手前のコット(右写真)は、内戦後に建てられたものでしょう。
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この場所に多くの僧侶が暮らしていることは、置かれていた大きな水瓶や、干してある僧衣(左写真)、そして、高床式の床下にいくつものカゴが吊るされている様子などから想像できました(右写真)。
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左写真の建物は、ブッダの絵が見えたのでサーラ(集会所兼会食場)でしょう。入口の階段の上に、正月の飾り物もありました(左写真の右上)。カンボジアの正月は4月中旬ですが、正月には、各家の入口付近や商店・レストランの前などに、こうした輪の中に星を模した正月飾りが下げられます。カンボジアでは、毎年正月に天から女神が地上に降りてくるといわれています。正月飾りは女神の依り代であり、1年間、そのまま飾っておくようです。
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祠堂の前を、僧侶が歩いていきました(上右写真)。僧侶の向かう先にはヴィヒア(本堂)があり(左写真)、その軒下には、ガルーダ(ガルダ)に乗ったヴィシュヌ神が彫られていました(右写真)。
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ヴィヒア(本堂)の脇に納骨堂が見えました。カンボジアでは、亡くなった人の多くは火葬され、遺骨は納骨堂に納められます。
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東庭の木陰では、革クラフトを彫って観光客に見せている少年がいました。
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丘を下りたところに、小学校、Lolei Primary School(左写真)や村の集会所?(右写真)がありました。
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かつて、ロレイ祠堂を祀ることを目的にインドラカタータ(人工池)の中に造られた小島は、現在では、現在では水が枯れて丘となり、仏教寺院として僧侶たちの修業の場となっていました。そして、「小島」の下には、村人が生活する空間が広がっていました。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ロレイ祠堂2013

ロレイ祠堂は、インドラヴァルマン1世がロリュオス地方に開掘した人工の池インドラタターカの中心に、息子であるヤショヴァルマン1世(889~910頃)が建立したものです。東西3.2km南北0.7km、貯水量1000 万㎥とされるインドラタターカは、平地に土手を築く方法で造られたといいます。現在のロリュオス地方を通る国道6号線の一部は、大貯水池の南側の土手を通っています。
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現在は、国道6号線の北の水が涸れたインドラタターカの中、土が盛られて小高くなっている場所に、レンガ造りの祠堂が4基まとまって建っていました。右手前の修復中の祠堂だけが、かろうじて原形をとどめていました。 祠堂の前には、修復費用の寄付を求める箱が、パラソルの下に置かれていました。???

他の3基の祠堂は、上部が欠けていたり、倒れないように支えがしてありました。DSC09954 DSC09950 

4つの祠堂の間を入って行くと、シンハ像があり、その先にリンガが立っていました。このリンガは4基の祠堂の真ん中に位置し、リンガの上から水を流すと、下に十字に配された樋の中を水が流れるようになっているそうです。かつては、ここで雨乞いなどの儀式がおこなわれていたと聞きました。
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インドラタターカは、季節河川であるロリュオス川を水源としていたために、水量が少なくなる乾季には、このロレイ祠堂で雨乞いが行われていたようです。バライ(人造池)の開掘は王の権力を示すものであり、水量の確保は王の重要な役割だったのでしょう。

祠堂の入口付近には、サンスクリット語で書かれた石碑が残っていました。
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ロレイ祠堂の入口にも、門衛神ドヴァラパーラやデヴァターが彫られていました。
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インドラタターカは、時の経過とともに土砂が堆積しその機能を失っていったようです。そして、ヤショヴァルマン1世が新たに開掘した東バライ(900年頃)も、やがてインドラタターカと同様の運命をたどることになります。

写真/文 山本質素、中島とみ子

新しい壁画

バコン遺跡の中に仏教寺院Wat Prasat Bakongがあります。この寺院には、新しい壁画がたくさん描かれていました。*バコン遺跡情報/ 位置: アンコールワットから東南東へ約13㎞。ロリュオス地方/ 建立:インドラヴァルマン1世(877~889)が881年に王都ハリハラーラヤの中心寺院として建立。
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まず、入り口の上に描かれた真っ赤な顔のカーラが目を引きました(左写真)。カーラは、入り口を護る神とされ、プリヤ・コー祠堂の入口にも彫られていました。ヒンドゥー教では、食いしん坊なために自分の体まで食べて顔面だけになったと伝えられ、仏教では、死者の王ヤマ(閻魔大王)として知られています。
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Wat Prasat Bakongには、形や大きさの異なるたくさんの仏像が祀られていましたが、すべて釈迦如来のようです。現在、カンボジア国民の約90%が仏教徒で、上座部仏教を国教としています。遺跡として残るバコンは、ヒンドゥー教の寺院でした。
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2世紀のカンボジア(扶南)では、ヒンドゥー教と仏教の混淆した宗教が信仰され、6世紀扶南を征服した真臘では、大乗仏教が広く信仰され、観音菩薩像などが建立されていました。
アンコール朝期、9世紀のロリュオス地方には、ヒンドゥー教の寺院が建立されていき、そして12世紀前半には、アンコールワットが建てられます。

その後アンコールは、トナム中部に興ったチャンパ王国に占領されますが、12世紀後半にはジャヤヴァルマン7世(1181~1220頃)によってアンコール・トム都城が造営されます。仏教(大乗仏教)を信奉するジャヤヴァルマン7世は、バンテアイ・クデイ(Banteay Kdei)をはじめとする仏教寺院を建設します。
ところが、次の王ジャヤーヴァルマン8世(1243-1295)治世には廃仏事件が起こります。ヒンドゥー教に由来する題材に彫り直され、バイヨン寺院回廊に「乳海攪拌」「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」が刻まれました。アンコール朝25代目の王シュリーンドラジャヤヴァルマン(1307~1327)は、上座部仏教徒でした。15世紀半ばにアンコール朝は、シャム(今のタイ)のアユタヤ朝の侵略を受けて滅亡しますが、シャムで隆盛を誇っていた上座部仏教が伝わり、定着していきました。(
参照:http://todaibussei.or.jp/izanai/12.html)
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上座部仏教は、「生きることは苦しみであり、出家をして功徳を積む者だけが救われる」という出家主義に基づいています。その根底には輪廻の思想があり、人々は現世の汚れを清め、来世でのよりよい身分へ生まれ変わるために功徳を積まなければなりません。
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一般に仏教説話には、次の2つがあるとされます。
*「JATAKAS」お釈迦様は 生前、人々を集めては常々「悪い行いをしてはならない。 善い行いをしなさい」と、説かれました。 その際の説法に、古代インドに伝えられている説話や民話を数多く使ったと伝えられています。
*「PANCHATANTRA」生き抜くための知恵がメイン・テーマで、 1部.「友達を失う」 (この様な事をすると 友人を失う・・・その例題となる説話が集められている)、 2部. 「友達を得る」、 3部. 「Live-Long」(カラスとフクロウの戦争)、 4部. 「骨折り損」、 5部. 「おろかな行為」と分かれているようです。
参照:http://lolonote.sakura.ne.jp/setuwanituite.htm
この寺院(Wat Prasat Bakong)に描かれている壁画も、そうした仏教説話の一場面のようです。
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鉄砲を担いだ兵士の姿が描かれた壁画もありました。
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制作途中の壁画もありました。
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カンボジア宗教の変遷は、王たちが権力の象徴として神々を祀った歴史と重なります。一方、生活する人々の間には、川や山などの自然にも精霊が住むと考えるアニミズム(精霊崇拝)に基づくネアック・ター(土地神、祖先神)崇拝が受け継がれています。
ガイドさんは、仏教寺院Wat Prasat Bakongの新しい壁画は、カンボジアの文化財的存在になるでしょうと話してくれました。

写真/文 山本質素・中島とみ子

Wat Prasat Bakong

バコン遺跡の東参道から、2重の環濠の内側に、バコンの仏教寺院(Wat Prasat Bakong) がみえてきます。*バコン遺跡情報/ 位置: アンコールワットから東南東へ約13㎞。ロリュオス地方/ 建立:インドラヴァルマン1世(877~889)が881年に王都ハリハラーラヤの中心寺院として建立。
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東桜門の手前にバコンの仏教寺院(Wat Prasat Bakong)はありました。立て看板には、「HOLCIM-APSARA Peoject for Preservation of  Wat Prasat Bakong(Buddhist Monastery of early 20 Century    )」とあり、このWat Prasat Bakongが、20世紀初めの仏教寺院として、ホルシム-アプサラによって保存されていることがわかりました。
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そして少し奥まったところにある石碑には、この仏教寺院がアプサラ州によって保存されていることと、建物が2011年にスイスのHOLCIMの支援で建てられた(修復された)ことも記されていました(左写真)。
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9世紀後半に建立されたヒンドゥー教寺院バコン遺跡の上から見下ろすと、現代の仏教寺院バコンが、木々の緑の中にひときわ明るい空間をつくりだしていました。
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この仏教寺院には、僧侶たちが生活しているそうです。左写真に見える3連の屋根の建物が、僧侶の生活する場所でしょうか。
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僧侶たちが暮す建物の方に、バケツを肩に乗せて運んでいく男性がいました。建物の庭には、腰に僧衣を撒いた僧侶が立っていました。その後ろには、バナナの木などが茂っています。
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カンボジアでは、一生に一度は出家することが望ましいと考えられています。在俗のままでお寺に住み、手伝をしたり、仏教を学んだりする人もいると聞きました。僧衣をまとっていない彼らは、在俗のままでお寺に住んで手伝いをしている人たちかも知れません。
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21世紀のバコン遺跡の一隅で暮らす僧侶たちには、かつての王都の象徴であったバコン遺跡は、どのように見えているのでしょうか。

写真/文 山本質素・中島とみ子

バコン遺跡

プリヤ・コー遺跡の南隣に、バコン遺跡があります。東塔門付近に、ヤシの葉で葺いた屋根の土産物店が見えました。そして、塔門の脇には、土産物を手に持った少年と少女がいました。*プリヤ・コー遺跡情報/ 位置: アンコールワットから東南東へ約13㎞。ロリュオス地方/ 建立:インドラヴァルマン1世(877~889)が879年に建設したアンコール朝最古のヒンドゥー教寺院。
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東参道を進んでいくと、ナーガが欄干のように置かれた状態でありました。頭の部分が欠けているものもありましたが、そんなことも気にならないくらい豪快なナーガでした。ナーガの傍らをオートバイに乗った男性が通り過ぎていきました(右写真)。
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参道の先に、バコンの中央祠堂が見えてきました(左写真)。右にバコンの平面図を掲載させてもらいました。

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バコンは、アンコール朝最初の王都ハリハラーラヤの中心寺院として、インドラヴァルマン1世(877~889)が881年に建立した、ピラミッド型寺院です。五層の基壇については、一番下の1層目がナーガの世界、2層はガルーダの世界、3層は夜叉(悪神)の世界、4層は羅刹(おに)の世界、そして最上層が神の世界をあらわしているそうです。
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シバ神の乗り物とされるナンディンが、ピラミッド型寺院の入口に控えていました。左写真は東入口前のナンディンですが、それとわからないほど形を無くしていました。右写真は、西入口前のナンディンです。
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ピラミッドの基壇を取り囲むように配置されていた8つの祠堂のうち、東桜門の両側の祠堂は、石段だけを残してレンガの塔は崩れていました(左写真)。そのほかの祠堂は順次修復が行われているようでした。祠堂はプリヤ・コーの祠堂と同じく、レンガで造られ、塔の入り口には砂岩に彫られた門衛神ドヴァラパーラやデバターが残っていました(右写真)。左写真に見える東南隅の経堂には多孔型窓がありました。
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ピラミッド寺院の頂点に建つ中央祠堂は、、12世紀になってから砂岩で造り直されたもので、創設時はレンガで造られていたようです。プリヤ・コー寺院の建立(879)の2年後に造られたバコン寺院(881)は、祠堂や経堂など、プリヤ・コーの建築技術がそのまま使われたようです。また、ピラミッドの1層~3層の四隅を護っている石の象の技術は、東メボン(952)にも生かされたのでしょう。そして、12世紀に改修されたという中央祠堂は、アンコール・ワットの建築技術が使われているそうです。DSC07805

5層から北西を見下ろすと、4層目に石の小堂とその中にリンガの台座が見えました。3,2,1層の角に後姿の石の象、そして地上に修復中の祠堂が見えました。祠堂は、プリヤ・コーの祠堂に比べて、下半分にカーブがつけられているようでした。
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中央祠堂から東参道を見下ろすと、北(左)側に新しいお寺の建物が、そして南(右)側には、学校がありました。
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バコンの西入口付近には、BAKONGの立て看板に並んで、Bakong School があることを知らせる看板も立っていました(左写真)。東参道で見かけたワイシャツに帽子をかぶり、サンダル履きでオートバイをバコン寺院の方から走らせてきた男性(右写真:再掲)は、この学校の先生かも知れないと思い当たりました。
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インドラヴァルマン1世(877~889)の死後、継承権をめぐる内紛によりバコンは荒され、王宮が破壊されてしまいましたがその建築様式とそれを支える技術は、その後のアンコール朝建築に大きく貢献したことでしょう。

写真/文 山本質素・中島とみ子

プリヤ・コー

ロリュオス遺跡群の1つプリヤ・コーは、崩れた周壁や塔門に守られてレンガ造りの祠堂が建っていました。
東入り口では3基に見えた祠堂でしたが、近づくとそれぞれの祠堂の後ろに重なるように、一回り小さなj祠堂がありました。これらの祠堂は 、シヴァ神の象徴であるリンガを祀るために建てられたもので、創建当時は白い漆喰で覆われていたそうです。プリヤ・コ―は、インドラヴァルマン1世(877~889)が、両親を弔うために879年に建設したアンコール朝最古のヒンドゥー教寺院です。
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基壇へ上る階段の両側をシンハ像が護り、階段の下ではナンディンが、祠堂から出てくるシヴァ神を待って控えていました。プリヤ・コーの名称は「聖なる牛」の意味をもち、このナンディンに由来しているとされます。3体のナンディンのうち、1体は頭が欠けてかなり破損した状態でした(右写真手前)。
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遺跡の傍にある石工房にはプリヤ・コー寺院の模型もあり、創建当時の様子を知ることができます。写真は、プリヤ・コー遺跡(模型)を北西角から写したもので、基壇の上に建つ6基の祠堂と、石彫りのナンディンも見えています。ガイドさんの説明では、カンボジアの人間国宝ともいわれる石工さんによって彫られたということです。 DSC07713

2013年8月のプリヤ・コー遺跡では、多孔型窓(連子窓の初期の形)を持つ経蔵が修復中でした(左写真)。修復後には、模型に見るような経蔵が姿を現すことでしょう(右写真)。
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中央祠堂のまぐさ石の彫刻は、カーラです(左写真)。カーラは、インド神話には食欲旺盛な怪物として登場しています。拡大すると、カーラの上にシヴァ神(?)、そして周りには馬やナーガに乗った神々が踊るように配されている様子が見えました(右写真)。
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祠堂の中には、シヴァ神のシンボルであるリンガが、あるものは壊され、あるものは台座だけが置かれていました。
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レンガでつくられた祠堂には、砂岩に彫られた彫刻が埋め込まれています。偽扉の上のまぐさ石に彫られていたのは、ナーガとガルーダで、上の方に並ぶたくさんの顔は神々や行者のようです。左右で護っているのは門衛神ドヴァラパーラです。 DSC09977

アンコール朝最古といわれるプリヤ・コー遺跡ですが、祠堂の門衛神ドヴァラパーラは威厳ある姿を保っていました。

写真/文 山本質素・中島とみ子

アンコール朝とロリュオス地方

アンコール朝は、ジャヤバルマン2世が即位した802年から始まりますが、その創世期に、最初の王都ハリハラーラヤが造営されたのはロリュオス地方でした。一般にロリュオス遺跡群と呼ばれているこの地の遺跡には、プリヤ・コ―(①)、バコン(②③)、ロレイ祠堂(④⑤)などがあります。
アンコール朝最初のヒンドゥー教寺院プリヤ・コー(879年)を建立したのは、アンコール朝3代目の王インドラヴァルマン1世(877~889) でした。彼は、881年に、王都の中心寺院となるバコンも建立し、またその名を冠した大貯水池インドラタターカの開掘にも着手しました。インドラタターカの北東隅から注ぎ込んだロリュオス川の流れは、大貯水池からプリヤ・コーやバコンを囲む環濠へ入り、やがて近隣の稲田を潤していたようです。

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しかし、王位継承が引き起こした内紛によって、王都ハリハラーラヤの中心寺院であったバコンは荒らされ、王宮も破壊されてしまいます。
内戦の結果勝利した4代目王ヤショヴァルマン1世(889~910頃)は、プノン・バケン寺院(900年頃)を中心に、新都ヤショダラプラ現在のアンコールの地に造営していきました。彼は、新たに東バライの開掘に着手(900年頃)する一方で、インドラヴァルマン1世がロリュオス地方に開掘したインドラタターカの中心にロレイ祠堂(④⑤を建立しました。

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その後、5代・6代とヤショバルマン1世の子がアンコール王朝を継承しますが、コー・ケーの有力者ジャヤヴァルマン4世(928~942)が王位につくと、都はアンコール地方からコー・ケー地方に移されました。
コー・ケー地方に遷都されていたのは、ジャヤヴァルマン4世その子ハルシャヴァルマン2世(942頃~944)の治世、計16年だけでしたが、コーケーの地に残る遺跡(⑥⑦⑧)は、ここに壮大な寺院が建設されていたことを思い起こさせてくれます。

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 都が再びアンコールの地に戻るのは、9代目の王ラージェンドラヴァルマン1世(944-969)の治世になってからのことです。彼は、4代目王ヤショヴァルマン1世が開堀した東バライの大規模な改修工事を行い、その中心に祖先を祀るための東メボン寺院(⑨)を952年建立し、961年には、護国寺院として最初の国家寺院とプレ・ループ寺院(⑩)を建設しています。現在、東バライの中には田んぼが広がっています(⑪)。

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ロリュオス地方に都が置かれていたのは、アンコール朝創世期の約90年間でしたが、王都の造営やヒンドゥー教寺院の建築様式、そして大貯水池の開堀など、その後629年に及ぶアンコール王朝の基礎が形づくられた時期でした。

写真/文 山本質素・中島とみ子