農作業のプロワス・ダイ(交換労働)

私たちが 最初に訪れた時(2014年9月5日)、ピエム村は田植えの真っ最中でした。それぞれの田には、夫婦あるいは親子と思われる2人ほどの人たちが、苗を植えつけていました(以下4枚2014年9月5日撮影)。*ピエム村情報:西バライの北西、ドーン・ケオ地区。ロンノル時代までは、「ポム・プノン・ルーン」(プノン・ルーン遺跡のある村の意味)と呼ばれていたが、ポル・ポト時代に、「プノン・ルン村」になり、さらにポル・ポト政権崩壊後に「ピエム村」となる。
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ピエム村で、田植えや稲刈りなど農作業の際に、プロワス・ダイと呼ばれる手伝い合い(労働交換)が行われてきました。プロワス・ダイは「プロワス・クニア」ともいい「プロワス」は、クメール語で「交代/交換/互いに」を意味し、「ダイ」は「手」、「クニア」は「お互い/お互いに」を意味する言葉です。
ピエム村に住む女性(65歳)が、50年以上前にピエム村で行われた最も大きなプロワス・ダイの様子について話してくれました。50年前のカンボジアは、シハヌークが、フランスの保護国から独立を宣言した時期にあたります。 13~4歳のころ(50年以上前のこと)、最も大きなプロワス・ダイが行われた。3ヘクタールの田植えの時に、手伝いの人数が50人を超えていたという。1家族から何人もが作業に出ていたし、いろいろな家族が集まって楽しい作業だったと述懐する。当時は、50人くらいで田植えを行うことは通常のことで、まれに70人くらいで作業をしたことがあったという人もいる。 1日の作業に全部で10人のプロワス・ダイを頼んだ場合は、それぞれの相手先に頼んだ人数分を合計して10人分の「手(手間)」を返すことになる、手間を返すときに家族だけで足りない場合は、人を頼んで人数分をそろえて先方へ連れて行く。この場合には頼んだ人数分の費用を支払うことになる。 プロワス・ダイに出るのは男女とも18歳以上、50歳くらいまでときまっていたが、昔は学校に通っていない子が多かったので、13~4歳の子どもがプロワス・ダイに出ることもあった。若者には年長者が教えられるように、田の持ち主(その日のプロワス・ダイの主催者)が年長者と若者を組み合わせるなどの配慮をしていたという。

同じ日(2014年9月5日)、ピエム村で活動をしているバンテアイ・スレイNGOが借り上げている田では、大勢の人たちが田植えをしていました)。ピエム村では、2006年からバンティアイ・スレイNGO(以下BSNと記します)が支援活動を行っています。主な活動は、BSNが借り上げた水田を、田を持たない村人が耕作し、労働と引き換えに米を受け取ることができるという支援です。 具体的には、ピエム村の家族を田の所有という点から、①水田を所有していない世帯が67、②少しの水田を所有しているが、家族が食べるには十分ではない世帯が50、③家族が食べるのに充分な水田を所有している世帯は68と3段階にわけました。そして、高齢で田を耕作することができない③の人から田を借り上げて、①②の人たちに米を作ってもらい、労働の対価として安い金額でコメを購入できる仕組みを提供しています。村には、BSNが管理する米の備蓄倉庫がつくられ、前述の水田の余剰米や、収穫期にBSNが買い上げた米などが備蓄され、村人に米が行き渡るように支援しています。
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2015年9月には、ピエム村の道で、耕耘機を手に田に向かう男性とすれ違いました。コンクリートの柱で高く持ち上げられ高床式家屋の階下に、牛に変わって耕耘機が置かれている家も見かけられました(2015年9月)。農作業のプロワス・ダイが行われなくなったのは、耕耘機などの購入も大きな要因としてあげることができます。マイクロファイナンスなどから経費を借りて耕耘機やオートバイを購入した村人たちが、返済のために、現金収入が得られる建築労働者として町に働きに出るようになっているためです。DSC07060 CIMG6249 - コピー

プロワス・ダイも、(前回紹介したチューイ・クニアと同様に)ポル・ポト時代の強制移住等により、全く行われなくなりましたが、ポル・ポト政権が終わった1993年以降、他の村に移住させられていた人たちがピエム村に戻ると、再び盛んに行われるようになりました。しかし、シェムリアップ市内にオートバイで仕事に通う村人が多くなった2年ほど前から、日中に村内の働き手が減って、ピエム村ではプロワス・ダイを行うことが難しくなってきています。
プロワス・ダイは、日本の交換労働の民俗慣行と類似した慣行と捉えることができます。日本社会の農村においても、交換労働の民俗慣行(相互扶助慣行の内の交換労働で、各地で「手間返し」「手伝い合い」「結(ゆい)」などと呼ばれています)は、高度成長期以降に大きな変容を経験しました。ピエム村などで続いてきた農作業のプロワス・ダイ(労働交換)も、個別の現金収入を優先する生活形態へと変化する中で、その役割を失いつつあるようです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

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