ダムデックの町(2013年3月)

ベン・メリア遺跡から南へ約30分ほど下ると、国道6号線に行きあたります。この辺りがダムデック(Damdek)の中心地で、荷物を積んだ荷車が道路を行き交い、道路沿いには店舗が軒を並べていました。青十字を掲げた薬局も見えます(右写真)。
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母親に連れられた子供が見ていたのは、店頭に並ぶ子供用の乗り物でした。その左横には、たくさんの扇風機が並べられていました(左写真)。時間は11時半頃。右写真のテントがけの食堂には、食事をしている大勢の男性たちの姿がありました。
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市場もありました。市場の中を歩いている男性は、その服装からオートバイで遺跡めぐりをしている観光客かも知れません。右のテントの中の男性が、好奇のまなざしで見ているので、やはり市場でも観光客は多くはないようです。
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Damdekの中心地に並ぶ店舗や市場は、観光客用でなく、この町や周辺の村で暮らしている地元の人たちが利用しているようです。
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中心付近から西へ数分走ると、国道6号線の両側に田園風景が広がります。農家の庭や田に、脱穀が済んだ稲わらが山積みにされていました。
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季節は3月末。この時期にカンボジアで収穫されるのは乾季米です。カンボジアでは、4月~10月頃までが雨季で、11月~3月頃までが乾季にあたります。
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雨期に収穫される米は「重い米」、3月に収穫される乾季米は「軽い米」と呼ばれます。雨季の稲作は苗を育てて田植えをしますが、乾季は稲モミを直接田んぼに蒔きます。価格は重い米に比べ少し安いということですが、雨季の洪水被害を避けるために行われているそうです。
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乾季の稲作には、水の確保が欠かせません。Damdekの乾季稲作は、南にあるトンレサップ湖へ流れ込む川と灌漑に支えられているのでしょう。
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アンコール遺跡まで約30㎞、ロリュオス遺跡まで約20㎞、ベンメリア遺跡までは約30㎞、そしてトンレサップ湖まで20㎞弱という地の利を生かして、Damdekでは牛車と農業体験のできる農村ステイのツアーが始まっているようです。観光客が多く訪れる乾季に田舎暮らし体験を企画したDamdek。これから市場や店舗にも観光客の姿が見られるようになるのでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子

学校の花壇(ベン・メリア)

ベン・メリア遺跡の西、「TICKET BOOTH BILLETTERIE」と書かれた看板の立つ建物で、ベン・メリアとコー・ケー両遺跡のチケットが売られていました(左写真)。観光客のためのトイレが併設され、広い駐車スペースも用意されていました(右写真)。*ベン・メリア遺跡/位置:アンコールワットから東へ直線距離で約40km/建立:碑文は見つかっていないが、11世紀末から12世紀初めころと推測されている。
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左写真はそばにある休憩場です。そして、道路を挟んだ向かい側には、学校がありました(右写真)。
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時間は午前9時20分ごろで、門の付近に生徒たちの姿はなく、牛車に乗った村人が学校の前を通り過ぎていきました。
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午後4時半過ぎの校門の前には、授業を終えて帰宅するたくさんの生徒たちと出会いました。自転車で帰る生徒や、オートバイの後ろに乗って帰る生徒もいました。
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学校の建物に「KUMAMOTO LIONZCLUB ACHOOL」と書かれているのに気づきました。ここにも日本からの支援が届いていました。
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学校の校庭に入らせてもらうと、校舎の前にカンボジア国旗が掲げられていて、校庭の中ほどに花壇は造られていました。周りには樹木も植えられたようです。樹木の根に近い部分が白く塗られているのは病害虫を予防するためでしょうか。多くの生徒たちが帰って行った校庭では、高学年の生徒たちが花壇で水やりをしていました。
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左写真には、男子生徒がバケツの水をジョウロに移しかえている様子や、校庭の奥の方から、バケツ入れた水を運んでくる女生徒も見えます。レンガで囲って造られた花壇には、花の苗が育っているところでした。
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校庭の隅では、牛が草を食んでいました。周りを緑の木々に囲まれたベン・メリア地方の学校でも、花を育てることは生徒たちの情操教育の一環になっているようです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

遺跡と暮らす(ベン・メリア)

ベン・メリア遺跡は、外周は4.2㎞、幅約45mの環濠で囲まれています。*ベン・メリア遺跡/位置:アンコールワットから東へ直線距離で約40km/建立:碑文が見つかっていないが、11世紀末から12世紀初めころと推測されている
12月下旬のカンボジアは乾季(11月上旬から3月中旬)にあたり、環濠の水は少なくなっていました。水面に漂うハスの葉をかき分けるようにして、小舟で漁をする男性たちがいました。DSC06855

彼らは長い棹で舟を操りながら、手に持った棒や網などで魚を獲ろうとしているようでした。環濠の水量が減るこの時期、生息している魚たちは、少なくなった水たまりに集まっているのでしょう。
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南参道を進んでいくと、途中で少女たちの姿を見かけました。彼女たちは、カメラを向けた観光客に、笑顔とⅤサインで応えていました(左写真2枚)。崩れた石組みの上にも少女たちの姿がありました(右写真2枚)。小さい子どもを膝に乗せた女性のそばには、土産品の入った袋が置いてありました(右写真)。ツアーブログなどに「かわいらしい地元の子供たちと記念写真を撮ることができます」と書かれていたのを思い出しました。
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小さい弟や妹を連れた少年少女もいました(左写真2枚)。首飾りや耳飾りをつけた少年は、レリーフに刻まれたヒンドゥー教の神を髣髴とさせました(右写真)。
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環濠の内側に牛がいました。後ろに見えているのは遺跡の外周壁です(左写真)。牛は1日に100kgもの草を食べるといいます。これらの牛は、環濠内の除草に一役かっているのかもしれません。時間は午後4時20分。3頭の牛は、環濠に渡された橋を渡って遺跡の外へ帰っていきました。写真の右に見える男性たちは、観光客を乗せてきたドライバーでしょう(右写真)。
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南塔門横に設置された階段を、警備員の女性が降りてきました。環濠と外周壁の間には、土地の神を祀ったネアクタも立っていました。’ネアクタ’とは、ネアク=人、タ=ご先祖様、という言葉からもわかるように、祖霊崇拝としての意味もありますが、もっと広く、土着信仰の精霊をも意味しています(左写真)。環濠の外に並ぶ土産物屋の前にも、警備員の女性の姿がありました。
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環濠と外周壁の間は、子どもたちの遊び場として、また近隣の村人の生活空間としても機能しているようでした。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ベン・メリア遺跡

ベン・メリア遺跡は、アンコールワットから直線距離で約40km東北東にあります。ベン・メリア寺院が建立された時期は明らかになっていませんが、11世紀末から12世紀初めころと言われています。この遺跡は1990年代に発見されましたが、地雷が多く埋っていたために、一般には非公開となっていました。外国人に公開されるようになったのは2001年からのことです。
南塔門へ続く参道入り口には、両側にナーガが立っていました。
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ベン・メリア寺院の参道を護るナーガは、その歯や後背に施された模様まで、10世紀を経たと思えないほどきれいに残っているものがありました。
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参道の先に現れた南塔門は、崩れた塔門の石組がわずかに残り、周囲にはナーガをはじめ様々な石造りの品や砂岩石が山のようになっていました。その隅に1人の少女が座っていました。ピンクの帽子をかぶったその姿は、一瞬、時を超えて現れた妖精かと思えました。
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ベン・メリアは平面展開型の巨大寺院で、「東のアンコール」ともいわれているそうです。ベン・メリア寺院の平面図をWikipediaより引用し、北を上にして掲載しました(左写真)。平面図に赤く記されているのは、安全に見学できるように足場が設置されている順路です。第一回廊から第三回廊まであり、南塔門の右側に設置してある木製の階段を上って寺院遺跡の中に入ります(右写真)。
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左写真の建物は図書館だったようです。右写真は、東塔門の十字回廊から中央祠堂方向を臨んだところで、塔門の上のリンテル(まぐさ石)には彫刻が残っていました。奥のリンテルには、3つの頭を持つ象に乗ったシヴァ神が彫られているのが見えました。
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あちらこちらに山積みされている石は、建物の場所との関係からできるだけそのままの状態にしてあるそうです。
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回廊は、屋根が落ちたまま苔むしているところもありました(左・右写真)。
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順路からは、木々が回廊や祠堂に根を絡ませている様子が見られます。DSC06903 DSC06904

遺跡の周囲は約4.2km。ベン・メリア遺跡が発見された時、建物の上は林と木の根に覆われていたそうです。現在の状態にするだけでも大変な作業だったと想像されます。
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遺跡の中心に位置する中央祠堂は、崩れて石の山になっていました(左写真)。
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右写真は、第二回廊の通路です。窓が天井付近にあり、真っ暗で声も届かないため、ポル・ポト政権時代には刑務所として使われていたという話もあります。
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第二回廊を抜けた東南隅の建物の辺りに、かつては水があったようで、橋げたのように高くなった通路が残っていました(左写真)。右写真の右上に見える木製の階段は、遺跡に入るときに渡ってきたもので、ここで順路の出発点に戻ったことになります。
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2012年12月には、順路に沿って遺跡を見学しましたが、2013年3月に訪れた時には、順路を少し外れて、レリーフを見ることができました。ベンメリア遺跡は、ヒンドゥー教寺院として建造されましたが、乳海攪拌のレリーフもありました(左写真)。
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祠堂の両側に彫られたデヴァターも、何か所かで見ることができました。この遺跡のデヴァターも、手にハスの花を持っているように見えました。
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ベン・メリアは、クメール語でハスの意味をもつそうです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

スロヨン村

スロヨン村は、コー・ケー遺跡の10㎞南に位置する村です。コー・ケー遺跡情報/位置:アンコールワット約120km/建立:ジャヤヴァルマン4世(928~942)がロリュオス地方からコー・ケー地方に遷都し、プラサット・トムなどのヒンドゥー教寺院を建立。
道路からは村の中心にある市場は見えませんでしたが、道の両側に広大な農地が広がっている様子はわかりました。田畑は、道路を挟んで東西、南北それぞれ5km以上も続いているようでした。スロヨン村ができたのは1979年くらいからのこと。初めは共同で農業をおこなっていましたが、内戦が終わって政府ができてからは、個々の農家で経営をするようになったそうです(1998年11月30日新政府発足)。
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現在、村には300軒ほどの農家がありますが、その60%が、道路ができた2002年以降に入ってきた新しい農家です。農業に関しては、現在は税金がかからず、規制も一切ないそうです。道路沿いには、ゴムの木がたくさん植えられていました。ゴムの木は成長が速いので、このくらいで3~4年くらい経たものかもしれません。
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この地域には、赤い土と黒い土と白い土の農地があります。「赤い土」は鉄分を多く含み、「なんでも栽培できる良い土地」で、ゴム(上写真)やバナナ、胡椒などが植えられていました。下の写真では、手前と奥の方にバナナの畑が見えています。
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ガイドさんが胡椒畑にも連れて行ってくれました。胡椒はツル性の植物で、他の木に巻きついて成長します。胡椒の白い花が、木の上を這って咲いていました。
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「白い土」は砂岩で栄養分が少なく、豆(大豆)しか作れない土地。「黒い土」はその中間の土壌で、稲や豆などを栽培しています。写真の中央に稲田が見えます。12月末でしたので、雨期に植えた稲が穂をつけていました。
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農家を経営しているジエミさんの家に立ち寄らせてもらいました。 ジエミさんは(写真右)、9ヘクタールの農地を持ち、年1回に栽培しているカシューナッツは1キログラムで約2600リエルになります。一番広い面積を占めるバナナ栽培は、1房1000リエルほどで町の人が買いにきます。ほかにはトウモロコシ、豆、ゴム、マンゴーなどもを作っています。他の州(バットンボン州)からも買いにきます。また、人が集まる正月や祭りなどには、売りに行きますが、シェムリアップは遠いのでいかないということです。
アンアムさん(写真中央)は、10年前にコンポンチャムシュウからここに移ってきた新しい農家です。所有する土地は10ヘクタール。安かったので、「白」と「黒」の土地を買い、石もあったが拾って平らにしたそうです。
ジエミさんもアンアムさんも個人でトラクターを所有しています。10ヘクタールもの農地を耕作するには、トラクターは必需品です。機械を買うとき税金はかからないそうですが、1台20000ドルにもなります。
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この付近に電気が通ったのは2年前のこと、価格は1kw3600リエル。パラボラアンテナも見えました(右写真)。
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道路沿いに、村人や道を通る人が利用する店がありました。左写真は衣料品店で奥は食堂のようになっていました、右写真の店は飲料水やガソリンを売っていました。ペットボトルに入って店頭に並んでいるのがガソリンです。
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現在、カンボジアの市場に出回る野菜の多くは、ベトナムなどからの輸入品で、肥料や農薬の使用が問題になってきているそうです。スロヨン村の農地では、肥料も農薬も使う必要はないと聞きました。流通過程が整備されれば、カンボジアの国産野菜が市場に並ぶようになることでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子

プラサット・リンガ

プラサット・トムの前を南へ行くと、分かれた道路の先の林の中にプラサット・リンガ祠堂が見えました。そばに、スタートポイントの道標が立っているのは、コー・ケー遺跡群として30以上もの寺院が点在するため、見学の道順を示しているのでしょう。
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Prasat Lingaの立て看板も見えました。左の石づくりの祠堂がリンガ寺院です。
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屋根が崩れて、日の光が注ぐ祠堂の中央に、大きなリンガが1つありました。台座の上のリンガは高さ1m位でしたが、埋まっている台座を含めると4m以上になるそうです。確認されているリンガ祠堂は6つで、その中では、この祠堂が最も状態が良いそうです。
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祠堂の前に、遺跡監視員の女性2人がハンモックに坐っているのを見かけました。そばでは、小さな子どもが遊んでいました。
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小さな子どもは、私たちを見つけるとあわてて女性のそばに駆け寄りました。膝に抱きあげられると、振り返って私たちの方をじっと見ていました。
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コー・ケーまでの道路づくりは、地雷撤去を伴う大変なもので、私たちが訪れた2012年現在でも、道路わきには地雷に注意の立札が多く見られました。地雷撤去に日本も協力していることを示す立て看板もありました。
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カンボジアは、世界で最も地雷埋設密度の高い国と言われています。それは1970年から約30年に及ぶ内戦中に、紛争4派(政府軍、クメール・ルージュ、シハヌーク派、ソン・サン派)が、大量の地雷を埋設したためです。内戦が終結した後も、地雷は人々の生活を脅かしています。

写真/文 山本質素、中島とみ子

コー・ケー村

コー・ケー遺跡の北側に、家数80件ほどのコー・ケー村があります。コー・ケー遺跡情報/位置:アンコールワット約120km/建立:ジャヤヴァルマン4(928942)がロリュオス地方からコー・ケー地方に遷都し、プラサット・トムなどのヒンドゥー教寺院を建立。コー・ケー村に住むプレムチエンさんの家を訪ねました。プレムチエンさんは、2002年からアンコール保存地域の事務所で働き、遺跡整備のリーダとしてコー・ケー遺跡に関わってきた人です(左写真)。12時ごろでしたが、日差しを避けるように高床式の家の下に、家族と近所の人たちが集まっていました(右写真)。
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プレムチエンさんは、両親と6人でこの家に住んでいます。右写真で階段の踊り場に座っている女性が母親とその姉妹です。「道路ができて便利になったが、木が減って暑くなった」と彼は話します。コー・ケー遺跡まで道路が通ったのは2002年のこと。道路を作るためにたくさんの木が伐採されました。その後、2003年にプレムチエンさんの息子が、近くに家を建てるときには、木材の伐採に関してアプサラの許可が必要になっていたそうです。
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一緒に座っている猫や(上右写真)、そばで昼寝をする犬たち(左写真)、じゃれあう子犬たち(右写真)は、それぞれの役割のために飼われているのでしょうが、自分も家族の一員と思い込んでいるように見えました。
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現在の生活用水は井戸水です。2年前に、機械で150メートル掘って井戸を造りました。それ以前は、遺跡の堀の水を使っていました。村の人たちは、「遺跡は昔は遊び場だったし、言い伝えもなく遺跡の価値を知らなかったが、今は、高校でコーケー遺跡について学ぶ」と話してくれました。
右写真の少女が焼いている魚は、遺跡の堀で漁をしたものでしょうか。
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少女が魚を焼いているそばを、鶏が歩いていました。結婚式を挙げたカップルがプラサット・トムにお参りし、鶏1羽を供えていくこともあるそうです。
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村では、稲作を中心にトウモロコシ・サツマイモ・豆などを栽培しています。稲作は雨期に1回行われ、米は平均1トンの収穫があります。このあたりの土は良いので、肥料を使う必要がなく、基本的には自家用に食べ、残った分を売っているそうです。村では牛や豚なども飼われています。この家で飼われている豚は木につながれていて、イノブタのように見えました(左写真)。右写真は、プレムチエンさんの家に行く途中で見かけた、牛を追う若者です。
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プレムチエンさんは「村には小さな店はあるが、買い物は村から10km離れたスロヨン村まで行く。昔は牛車か徒歩で行っていたが、、道路ができてからはバイクを使うようになった。今は、お金があれば毎日でも行く」と話してくれました。スロヨン村の店では、酒、カンボジアワインなども買えるそうです。ちなみに、遺跡の掃除や保存など、アプサラの仕事に携わって給与を得ている村人は28名いるそうです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

プラサット・トム

コー・ケー地方に都が置かれたのは、アンコール朝7代目の王ジャヤヴァルマン4世(928~942)とその子の治世のことでした。16年間だけの都でしたが、プラサット・トムを中心に多くのヒンドゥー教寺院が建立されました。*コー・ケー遺跡/位置:アンコールワットから北東へ約120km/建立:ジャヤヴァルマン4(928942)がコー・ケーに遷都し、プラサット・トムなどのヒンドゥー教寺院を建立。
大きな切り株が目立つプラサット・トム東塔門前は、周壁や塔門を成していたと思われる石が崩れたままになっていました。
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コーケー遺跡は、プラサット・トムとその南東に造られたバライ(人工池)の周りに大小30以上の遺跡が並んでいます。遺跡の全体図とプラサット・トムの平面図を、カンボジアの旅行社クロマーマガジンより転載しました(左写真)。修復された木の階段が、東塔門入口であることを示していました(右写真)。

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塔門を入ると、木材で補修した細長い建物がありました(左写真)。そのそばに建っていた祠堂は、ロリュオス遺跡の祠堂と似ていました(右写真)。
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環濠を渡る参道のナーガは、バコン東参道の豪快なナーガと同じ様式で作られているようでしたが、頭の部分はかけていました(左写真)。*バコン遺跡情報/ 位置: アンコールワットから東南東へ約13㎞。ロリュオス地方/ 建立:インドラヴァルマン1世(877~889)が881年に王都ハリハラーラヤの中心寺院として建立。
参道の倒れた石柱の間に木の切り株が残っているのが見えました。参道の先に見える建物は第二周壁の東塔門です(右写真)。
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第二周壁の東塔門は十字回廊になっているようです(左写真)。DSC06728

塔門を出ると、崩れ落ちそうなレンガの建物がありました。崩壊をとどめようと屋根がかけられていたので、ここがプラサット・トムの中央祠堂なのでしょう。両側にそれぞれ2基のレンガ造りの祠堂がありましたが、やはり崩れた姿を見せていました(下写真)。
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西参道には、リンガの台座(ヨリ)などが雑然と置かれていました。
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西塔門を出たところで視界が一気に広がり、7段の基壇を持つピラミッドの形をした寺院が現れました(左写真)。ヒンドゥー教の宇宙観では、世界には7層の地下世界があるとされ、最上層が神の世界を示しています。プランと呼ばれるこの寺院のピラミッドの頂上には金色に輝くリンガが祀られていたそうです(右写真)。ヒンドゥー教寺院では、シヴァを象徴するシヴァリンガが礼拝の対象とされています。
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最上層までの高さは35mあり、近づくと、1つの基壇の高さは人の背丈の2倍以上もありました。私たちは登れませんでしたが、2014年にピラミッドの裏側に階段が設置され、最上層まで登ることができるようになったそうです。
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ガジュマルの木の根元に、アリ塚がありました(上写真)。その木の割れ目から芽が出ていました。ガジュマルの実を食べた鳥の糞から芽が出たのでしょうか(下左写真)。近くでは、葉っぱをかぶるようにして運んでいるアリもいました(右写真)。ガジュマルの木もアリたちも、コー・ケーに都がつくられるずっと昔から、こうした生命の営みを繰り返してきたのでしょう。
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ジャヤヴァルマン4世がジャングルを切り開いて造った都は、16年という短い期間でその使命を終え、再び木々に覆われていきました。
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私たち観光客がコー・ケー遺跡に魅了されるのは、神と一体化しようとしたアンコール朝の王たちの壮大な夢とはかなさとを、この遺跡に見るからなのでしょうか。

写真/文 山本質素、中島とみ子

コー・ケーの少女

シェムリアップ市街地から北東へ自動車で2時間半の所に、コー・ケー遺跡があります。アンコール朝の都が、ロリュオス地方からコー・ケー地方に移されたのは、ジャヤヴァルマン4世とその子ハルシャヴァルマン2世(942頃~944)の治世のみでしたが、コー・ケーの地にはプラサット゚・トムをはじめとする多くの寺院が建立されました。
写真はプラサット゚・トム遺跡の入口付近です。ヤシの葉で葺いた屋根のレストランと土産物を売る店が、何棟か建てられていました。
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10時半ごろでしたが、観光客の姿はほとんどなく、店の人たちはのんびりとした時間を過ごしている様子でした(左写真)。右写真の男性たちは、地元の人のようです。DSC06688  DSC06679

その一隅に、黄色いパラソルが見えました。パラソルの骨の先に土産物が吊るされ、横には赤いクーラーボックスが置いてありました。
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そして、パラソルの下では、楽しそうに話をする女性と少女の姿がありました。母娘のように見えました。
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数分後、片手にバナナを持って、踊りながら走っている少女の姿がありました。彼女の反り返った手の動きは、カンボジアの伝統舞踊アプサラ・ダンスのようです。アプサラ・ダンスは9世紀頃に生まれた宮廷舞踊で、手と指の動きで、花の芽生えから実が落ちるまでを表すとされます。
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彼女は、黄色いパラソルの方へ、足取り軽く戻っていきました。
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ポル・ポト政権下において、宮廷舞踊に関わっていた先生や踊り子(300人超)の約90%の人たちが、処刑されたといわれています。伝統舞踊を復活させるために、内戦後の1989年から舞踊教室が始められているそうです。(参照:http://cambodianavi.net/column/apsara.html)

写真/文 山本質素、中島とみ子

スバエク(影絵芝居)

シェムリアップにあるバイヨンレストランで、手足を動かせる小型の人形を使った影絵芝居(スバエク・トーイ)を見ました(左写真)。影絵芝居は、カンボジアの代表的な古典芸能のひとつです。ちなみに、カンボジア語で「スバエク」は「皮」という意味をもち、牛の革を彫って造った人形も、影絵芝居も、ともにスバエクと呼びます。
この日の影絵芝は、、「戦う猿の話」・「闘牛の話」・「ラーマーヤナ」の3話で、演じるのはボラン・ヴィチェット・グループと記されていました(右写真)。
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舞台の中央に白いスクリーンがあり、向かって右に伝統楽器を演奏する男性たち、左に男女の語り手(弁士)がマイクを持って座っていました。人形を動かす人たちは、スクリーンの後ろにいます。光を当てられた人形は、影絵となってスクリーンに映し出され、その動きに合わせて、音楽が奏でられ、語り手が登場人物の台詞と語りを交えながら物語が進んでいきます。

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戦う猿の話
サルが取っ組み合って戦いを演じています。そこに一人の女性が現れて、「戦っている最中に農民の土地を破壊してしまうのは良くない」と猿たちをさとします。そして猿たちに壊したものを元どおりにするよう頼む場面です。
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ヒンズー教神話「ラーマーヤナ」より
ラーマーヤナはアンコールワットの第一回廊にも描かれている、有名なヒンズー教の神話で大まかなあらすじは、王子・ラーマが、さらわれた自分の妻・シータを魔王・ラーバナから取り戻すというものです。ここではその話の中からシータがさらわれる場面が演じられていました。
<ラーマの妻・シータはラーマと弟のラクシュマナに守られて森の中を歩いていました。しばらくすると、老人の姿をしたラーバナがシータの前に現れます。シータはまんまとだまされ、ラーバナはシータを連れ去ることに成功するのです。
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2人の男女の語りの軽妙さは、言葉のわからない私たちにも伝わってきました(左写真)。伝統楽器「ロニアット」や台のついた両面樽型太鼓「ピン・ペアト」などが、効果音として芝居を引き立てていました(右写真)。
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スバエク・トーイは、幅3mほどのスクリーンを張った小さな高床式の芝居小屋を野外に建て、観客は小屋の前に集まり、遣い手は小屋の中に入って演じるもので、古くからカンボジアの人々の間で親しまれてきたそうです。バイヨンレストランの舞台は、芝居小屋をイメージしたものなのでしょう。芝居小屋で演じられるときは、遣い手それぞれが、人形の台詞を即興で作り出してやりとりしますが、この舞台では、2人の語り手が人形の台詞のやり取りをしていました。

写真/文 山本質素、中島とみ子