トンレサップ湖の戦い

今回は、バイヨン遺跡の第一回廊、南面東側に彫られている、クメール軍とチャンパ軍がトンレサップ湖で戦った水上戦のレリーフを見ていきます。回廊壁面で、まず目をひいたのは、大きな舟の舟縁にずらりと並ぶ漕ぎ手の頭部でした。写真には何艘もの船が見えますが、目の高さに見える大きな舟には、髪が短く、福耳を持つクメール兵が、その下の舟には、花の冠を付けたチャンパ兵が乗っていました。
CIMG1936トンレサップ湖上の戦い

クメール兵の舟には、首と腰に布を巻きつけ、槍を手に戦うクメール兵士が躍動的に描かれています。そして、クメール兵たちが戦っている相手は、花の冠をかぶったチャンパ兵士たちです(左写真)。一方、チャンパの舟の上の兵士は、あまり動きが感じられず、手に矛と盾を持って整列しているかのように描かれています(右写真)。チャンパとは、占婆花すなわち黄花・プルメリアの意を持つそうです。チャンパ兵が花の冠をかぶっているのは、そのためなのでしょうか?
CIMG1936トンレサップ湖上の戦い - コピー (2) CIMG1936トンレサップ湖上の戦い - コピー

舟の周りには、戦いに負けて湖に沈んで行く兵士たちや(左写真)、水に落ちた兵士が、ワニに食われているところなどが描かれていました(右写真)。
CIMG1955戦いに負けて湖に沈んでいる兵隊 CIMG1937花の冠はチャンパ人(今のベトナム人ではない)負けて水に落ちてワニに食べられている

下の写真で、舟をこいでいるクメール兵士たちは、捕虜になった兵士だと、ガイドさんが話していました。
CIMG1954船をこぐクメール人捕虜?

隣の壁面には、全面に、クメール兵士が勇敢に戦う姿が描かれています。右手に槍を持ち、左手を差し上げている兵士は指揮官のようです。写真右上には、弓を構えている兵士も見えます。
CIMG1943

アンコール都城は、1177年にチャンパ軍の侵攻を受け占拠された歴史を持ちます。そのアンコール都城を奪回したのがジャヤヴァルマン7世でした(1181年)。その経験からジャヤヴァルマン7世は、アンコール・トムの城壁を頑丈なものにつくったとされます。その城壁に、勝利の門と死者の門とを作ったこと、また、回廊に戦いと人間の生死に関わるレリーフを彫ったことなどは、彼がアンコール朝初の仏教徒の国王だったからなのでしょうか。

写真/文 山本質素、中島とみ子

行進のレリーフ

アンコール・トムの中心寺院バイヨンの第一回廊では、たくさんのレリーフを見ることができました。 *アンコール・トム遺跡情報/位置:南大門は、アンコールワットの約1.5㎞北 /建立: ジャヤヴァルマン7世(1181~1220頃)が、都城として造営。
ジャヤヴァルマン7世がチャンパ軍との戦いに勝利したときの様子は、第一回廊の北側から東側にかけてみることができますが、行進のレリーフは、東側に残されています。写真の左経蔵は、修復箇所がわかるような修復がされているそうです。
CIMG19181左経蔵同修復した箇所がわかるように修復

以下の7枚の写真は一連のレリーフです。ガイドさんの説明は、下の写真から始まりました。そこには、象に乗った王族と象使い、それに従う兵士たちの行列が描かれています。象使いは、手に持った鍵棒で象を巧みに操り、兵士たちは槍を担いでいます。DSC089491

象の行列は続きます。下のレリーフでは、多くの兵士たちが肩に旗を担いで行進している様子が見られます。右向きは、戦争に出かけるときの様子をあらわしています。クメールの兵士たちは、短い髪と福耳で、ふんどしのような簡易な服装で描かれていました。
チャンパ軍との攻防は、スールヤヴァルマン2世(1113~1150頃)の治世に始まります。スールヤヴァルマン2世は、西のタイとの争い、東のベトナムとの争い、南のチャンパーとの争い、1145年にベトナム中部のチャンパの首都ヴィジャヤを陥落させ、東のチャンパの領域から、西はビルマの国境まで、またチャオプラヤー河中流域からクラ地峡までをその領土としました(参照:http://angkor.gionsyouja.com/dynasty.html)。しかし、スールヤヴァルマン2世の死後、アンコール都城は、チャンパ軍の侵攻を受け占拠されてしまいます(1177年)。チャンパ軍によって占領されたアンコール都城を奪回したのはジャヤヴァルマン7世でした(1181年)。彼は、チャンパへの報復としてその首都を攻撃し(1190年)、その後約30年間チャンパを併合し支配下に置きました。
CIMG1922クメールの兵隊ふんどしと福耳

続くレリーフには、象の行列を護るように、馬に乗った兵士の姿が描かれていました。これらの兵士たちは、ひげを蓄え、髪は頭頂で束ね、冠のようなものをかぶっていました。中国の兵隊との説明でした。
CIMG1921中国の兵隊

さらにレリーフを追っていくと、行軍の中に、頭に荷物を乗せた女性や、荷車を曳く牛が見えてきました。
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牛車の後ろからついていくのは、家族のようです。牛車の上には籠などが積まれ、車輪の軸の間に見えるのは2匹の犬でしょうか。小さな子どもを肩車する父親、そして母親、その後ろには、頭に桶を乗せた少女の姿も見えます。少女の頭上の木の上には、獲物を狙っているかのようなトラが描かれています。その左横の木には、木に登る人らしい姿もあります。
写真左下には、行進する兵士を横目に、座って酒を酌み交わしているような2人の男性がいます。
CIMG1923右向きは戦争に出かける風景・沙羅双樹?

次の牛車の車輪の間には、小さな豚が描かれています。牛車を押している男性と、槍を握った夫婦らしい男女もいます。女性は、片手で頭の上の荷物を支え、もう一方の手で子どもを抱えながら槍を持っています。後ろの、停まっている荷車の横には男性が腹ばいになっています。そして荷車の下にも、男性が描かれています。ツボが見えるので、彼らも酒盛りをしているのでしょうか?
DSC000621

7枚目の写真のレリーフには、木の実を採る男性たちが描かれています。そして、女性の連れた亀が、先を歩く男性の腰ひもに噛みついています。女性の周りには、鶏などを入れておくような籠が見えます。後ろの兵士は、女性から木の実をもらっているように見えます。これらのレリーフからは、王と兵士たちが行進するかたわらに、人々の日常生活があることを描こうとしていることがうかがえます。
DSC000631

左向きのレリーフは、戦争から帰るときの様子をあらわしています。写真は、兵士が勝ち戦から戻ってくるときの風景です。槍を振り上げる兵士の声が聞こえてきそうです。CIMG1924左向きは戦争から帰る風景勝ち戦・槍を振り上げている

下の写真は、兵士がやりを振りかざして牛を殺そうとしている場面です。この牛は、勝ち戦の御馳走に供されるようです。
CIMG1925勝ち戦の御馳走に牛を殺している場面

楽しそうな壁画を見つけました。象に乗った将軍の後ろに続く楽隊を描いたレリーフです。笛を吹くもの、スコーをたたく者、貝のようなものを打ち合わせている者などが見えました。ダンスを踊るアプサラも描かれています。
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上のレリーフで兵士が肩から下げている打楽器は、カンボジアの伝統楽器スコーのように見えます。
DSC01389-1024x694[1]

バイヨン寺院には、各入口の横にデバターのレリーフがたくさん見られました。皆、華やかな冠をかぶっています。
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柱を飾っていたのは、アプサラです。アプサラは、乳海攪拌の際に水の精として誕生した天女で、水鳥に変化したりします。カンボジアには宮廷舞踊「アプサラの舞」があります。
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寺院のあちこちに仏像が彫られていました。左写真は、第二回廊のリンテルに彫られた仏像です。DSC00077 DSC00105

しかし、仏像の顔の部分が削られたレリーフもありました。
DSC00086 DSC00107

ジャヤヴァルマン7世(11811220頃)が建立した仏教寺院バイヨンは、シヴァ神の信奉者であった23代目ジャヤヴァルマン8世(12431295)によって、ヒンドゥ寺院へ改造するために廃仏行為がなされたようです。仏像の代わりにハリハラ神像を置き、寺院に刻まれていた仏像をはぎ取ってヒンドゥー教の苦行僧に掘り直し、バイヨン寺院回廊に「乳海攪拌」「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」などが彫られていきました。

写真/文 山本質素、中島とみ子

アンコール・トム2014年12月

2014年12月26日、アンコール・トム南大門へ向かう道で、石を自動車に積み込む作業をしている人たちを見かけました。路肩に置かれていたのは、たくさんのラテライト石でした。これらの石は、遺跡の修復に使われるのでしょう(左写真)。そばに、象の標識が立っていました。この道を、観光客を乗せた象が通るようです。*アンコール・トム遺跡情報/位置:南大門は、アンコールワットの約1.5㎞北 /建立: ジャヤヴァルマン7世(1181~1220頃)が、都城として造営
 CIMG1881修復中の材料ラテライト - コピー CIMG1881修復中の材料ラテライト

南環濠の手前に、土産物売り場から少し離れて、象乗り場がありました。立木を利用して設置された乗り場には、「Ride Around South gate by  Elephant:20$」と書かれていました。
CIMG1893 CIMG1891観光象乗り場南 - コピー

アンコール・トム南の環濠に架かる橋の両側には、乳海攪拌を模して、右に阿修羅像、左に神の像が並んでいます。2014年12月時点では、すでに頭部の修復が終わり、ところどころに修復した新しい頭部が見られました。
CIMG1897

ちなみに、2013年8月に訪れた時には、あちらこちらがブルーシートで覆われていて、頭部の修復が行われていました(下写真、2013年撮影)。
DSC08908 DSC08924 (2)

2014年12月、乾季のこの時期、南大門の塔の上の尊顔をはじめ、その下に彫られている仏像などもはっきりと見ることができました。彫られている人面像は、観世菩薩像を模しているというのが一般的な説のようですが、戦士をあらわす葉飾り付きの冠を被っていることから、ジャヤヴァルマン7世を神格化して偶像化したものとする説もあるそうです。近年では、JSA(日本国政府アンコール遺跡救済チーム)の研究によって、これらの尊顔が、アシュラ (悪魔)、デーヴァ(男神)、デーヴァター(女神)の3種類に大きく分類できるとする説も出されています。
CIMG1898南門から歩いて入る - コピー

南大門を入って、バイヨンへ向かう途中にも象乗り場がありました。こちらの乗り場には、多くの観光客が集まっていて、次々と象に乗り込んでいきました。ガイドさんの話では、象は観光客を乗せて1日に3kmほども歩くそうです。
CIMG1908 CIMG1910

写真左側がバイヨン寺院です。観光客を乗せた象は、バイヨンの南側も通り道にしていました。バイヨン寺院前の低くなっている場所は、かつて濠だったところで、雨季には水でいっぱいになります。
CIMG1970右方向・池が残っている

バイヨン寺院の南側テラスには、アンコールワットを造った残りの石が使われたということで、小さい石材が多いとのことです(左写真)。また、ラテライトの石は水を吸い込みやすく、雨水が溜まることなく横に流れるので、土台に使用されているそうです。あちらこちらに張られたパラソルの下では、今も修復が行われていました。
CIMG1912アンコールワット残りの石を使ったので小さい CIMG1916 - コピー (2)

左写真のクレーン車の周りには、修復に使うラテライトの石がたくさん置かれていました。右写真の経蔵は、小渕首相時代に修復が行われた場所です。
CIMG1920土台はラテライト水を吸い込みやすいので水がたまらず横に流れる CIMG1917右経蔵小渕首相時代の修復

アンコール・トムの東門は二つあり、死者の門と勝利の門と呼ばれています。今回初めて、死者の門を通りました。死者の門はバイヨンの真正面にあたっていますが、門への道は舗装されていず、尊顔も欠けた部分が目立っていました。
CIMG2005

門の両側を護る3つの頭を持つ象は、その形をとどめていました。鼻の先にハスの花を絡めている姿や、象に乗るインドラ神なども見ることができました。
CIMG2009左の象  CIMG2008象の頭に載っているのは火の神様

戦いに勝利したクメール兵士が、意気揚々とくぐった勝利の門に対して、この死者の門は、倒れたクメール兵士の魂が通った門と言われています。アンコール・トムの都城では、生活する多くの人々とともに、多くの兵士の魂も、ここを居城としていたのでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子

クバルスピアン遺跡

クーレーン山西部に位置するクバル・スピアン(Kbal Spean)遺跡は、シェムリアップ川に注ぐ源流部分、約200mに渡る川底の岩盤や土手などに、神々やリンガ(シ ヴァ神のシンボル)の彫刻が施された水中遺跡です。これらの彫刻は、銘やレリーフなどから、ほとんどがウダヤディティヤバルマン2世(1050~1066)統治下の11世紀後半から13世紀の間のものと考えられています。
左写真①は、麓の駐車場に掲示されていた、水中遺跡で見られる彫刻の写真と場所です。右地図(http://krorma.com/ruins/kbal_spean/)では、水中彫刻の場所と彫刻内容とを知ることができます。
CIMG2358kbal-spean-map2[1]

私たちが到着したのは、水中遺跡の上流部で、そこで目にしたのは上左写真No9、No10、右地図ではヴィシュヌ神リンガなどと書かれている場所でした。訪れた12月はカンボジアでは乾季にあたりますが、彫刻が施された岩の間を水が勢いよく流れ下っている様子が見られました。ちなみに、雨季になると、彫刻が川の中に沈んで見えなくなってしまうそうです。
CIMG2395到着

大きな石の右側には、牛に乗った神の像が彫ってありました。これはシヴァ神と妻パールヴァティー(知恵の神)で、乗っている牛はナンディン(雄牛神)、手前に石畳のように見えているのはリンガの上部です(左写真)。右写真に、側面に彫られているリンガの写真を示しました。リンガは、ヒンドゥー教において、シヴァのシンボルとして崇められています。
CIMG2395到着 - コピー - コピー CIMG2397リンガ

シヴァ神の左側には、大蛇シェーシャ(竜王アナンタ)の上に横になっているヴィシュヌ神が彫られています。その左の、首から上が削り取られている像は妻のラクシュミーでしょう(左写真)。さらに左側にも同じ構図のヴィシュヌ神が彫られていて、ラクシュミーはその形をとどめていました(右写真)。ヴィシュヌ派の創世神話によると、宇宙ができる前に、大蛇シェーシャ(竜王アナンタ)の上に横になっていたヴィシュヌのへそから蓮の花が伸びていき、そこに創造神ブラフマーが生まれ、さらに、ブラフマーの額から破壊神シヴァが生まれたとされます。この彫刻は、その創世神話を表現したものなのでしょう。
CIMG2395到着 - コピー CIMG2396 - コピー

上の彫刻のある岩の向かい側(下流)にも、ヴィシュヌ神が彫られていました(左写真)。この像は、2003年に盗掘されて、現在みられるものは、その後上半身を修復したものです。この場所のヴィシュヌ神も同じ構図でした。
CIMG2403 CIMG2399盗まれた上半身修復後

弁当を持って登ってくる人たちも多いようです。トレッキングコース脇で輪になって食事をとっていたのは、僧侶を中心に白い服を着た男性と若い女性たちでした(左写真)。川底一面にリンガが彫られています(右写真)。
 CIMG2404弁当を持ってくる人も多い CIMG2402

少し下流で、水はいったん地下を通り、その先で再び地上を流れ下ります。
CIMG2406水はいったん地価を通り、この先で再び地上に CIMG2407

水は、ヴィシュヌ神の彫刻の間を流れ(左写真)、五祠堂型リンガと千本リンガ(右写真)の上を流れていきます。リンガとヨニを通った水は、聖水になると信じられていました。
CIMG2409 CIMG2410水の中のリンがとニーヨ

そして、リンガとヨニの上を流れた聖水は、四角く造られた沐浴場(聖なる池)に流れ込みます。聖水は生命と活力を蘇らせるパワーを持つと考えられ、王族たちの病気治癒の場にもなっていたそうです。沐浴場の水は一部が流れ落ちて滝になります(右写真)。
CIMG2415四角作られた沐浴場 CIMG2416

クバルスピアン遺跡は、滝の上流にありました。
アンコール朝は、9世紀初頭、クーレーン山の頂上で即位の儀式を行なったジャヤヴァルマン2世によって始まります。アンコール朝の王たちにとって、乾季においても豊富な水 がわき続けるクーレン山は、聖地として大きな意味を持っていました(参照:http://www.jcca.or.jp/kaishi/230/230_asano.pdf)。 ところが、ガイドさんの話によると、即位の儀式を行った場所の水が涸れたために新たな水源としたのが、現在残るクバルスピアン遺跡で、 この水源は今日まで絶えることなく、水がわき続けているということです。
CIMG2418 CIMG2420

クバルスピアンの創建者とされるウダヤディティヤバルマン2世は、その治世にバプーオン寺院を建立し、前王スールヤヴァルマン1世(1011~1050)から引き続き、西バライ建設を行い、西バライの中に西メボン寺院を建立しました。アンコール朝に開墾された多くのバライが涸れてしまった中で、西バライは、現在でも水を湛え、排出口から流れ出す水は農地を潤しています。西バライを支えているのは、アンコール朝時代に開削された人工の川であるシェムリアップ川からの水で、それは、クバルスピアンを含むクーレーン丘陵の広い範囲を水源としています。

写真/文 山本質素、中島とみ子

クバルスピアン遺跡へ登る

駐車場から、山頂にあるクバルスピアン遺跡へと歩き始めました。ガイドさんが案内する遺沿いには、遺跡までの距離を示した立札が設置してありました。1500mの表示板の前を通ったのは、10時少し前でした(左写真)。今回は、遺跡までの距離と時間とを、撮影した写真で紹介していきます。右写真、1200mの表示板を10時8分に通りすぎました。
CIMG2366水中の岩の彫刻まで1500メートル CIMG2367

10時9分、道沿いに、赤い印が付けられた木を数本見かけました。この赤印は、「ここから先は地雷撤去がすんでいない危険地帯です」という印だそうです。ポルポト政権時代に埋められた地雷が、そのままになっているようです(左写真)。大きな石をよけるようにして登っていきます。雨季には、この場所も水が流れて川になるのでしょう(右写真)。
CIMG2369 CIMG2370

1100mの表示板(左写真10時12分撮影)を通り過ぎると、女性監視員と会いました(右写真、10時13分撮影)。遺跡の監視員は、近くの村の女性たちが多く働いているようでしたが、半日働いて月給100ドル程とガイドさんから聞きました。
CIMG2371 CIMG2373遺跡の監視員半日働き月給100ドル

大きな岩がありました。木に架けられた札には、岩にいたずら書きをしないようにと書かれています(左写真、10時14分撮影)。この大きな石の前には、休憩所が設けられていました。この休憩所でも、2人の女性監視員を見かけました(右写真10時14分撮影)。
CIMG2375岩にいたずら書きをしないよう CIMG2376休憩所

整然と木々が立ち並ぶ林は、ラワンの木でした(左写真、10時16分撮影)。ラワンは、フタバガキ科に属する一部の樹木およびその木材を総称する呼び名。樹高は50~60m、直径1~2mにもなる大高木で、下から上まで同じ太さの幹をもちます。木材の色調からレッドラワン類、ホワイトラワン類、イエローラワン類に分けられます(参照:世界大百科事典 第2版)。写真のラワンの木は、ホワイトラワン類のようです。右写真(10時16分撮影)の残り1000mの表示が掛けられている木も、ラワン材でしょうか。
CIMG2377ラワン林 CIMG2378残り1000メートル

少し進んだ左側にも、大きな石がありました(左写真、10時17分撮影)。うっそうとした木々の間を歩いていくと、見晴らしの良い場所に出ました(右写真、10時24分撮影)。向こうに見えるのは、プノン・クーレーンのある山です。このコースではここが最も見晴らしの良いところだそうです。
CIMG2379 CIMG2380

10時26分、2つ目の休憩所に到着した私たちと入れ替わりに、休憩していた観光客が出発していきました。ゴミ箱横の木には、自然を大切にと書かれた板が掛けられていました。ここで私たちも少し休みました。
CIMG2381

遺跡まであと700mの札が立つそばに、3つ目の休憩所がありました(10時36分撮影)。
CIMG2383 CIMG2384休憩所3

木の根っこに持ち上げられた大きな石がありました(10時43分撮影)。残り300mの標識です(右写真、10時47分)。
CIMG2385 CIMG2386

遺跡まで200mに近づくと、遅れがちになる私たちを、ガイドさんは先に行っては待つことが多くなりました(左写真、10時50分)。残り100mになりました(右写真、10時52分)。
CIMG2387 CIMG2389

カエルの形をした石を過ぎると(左写真、10時53分)、赤いクーラーボックスと飲み物を置いた小屋があり、おそろいの緑のシャツを着た女性たちが談笑していました。小さな子供の姿もあり、写真には写っていませんが、男性も1人見かけました(右写真、10時54分)
CIMG2390カエル石 CIMG2393

飲み物の置いてある小屋の前に4つ目の休憩所があり、ここにもゴミ箱が設置されていました(左写真、10時55分)。上右写真の緑のシャツを着た女性たちは、ゴミ箱のごみを集めながら、下山していく遺跡の清掃員かもしれません。休んだ時間も含めて、ほぼ1時間のトレッキングを経て、ようやくクバルスピアンの水中遺跡に到着しました(右写真、10時57分撮影)。
CIMG2394休憩所4 CIMG2395到着

少し前までは、水たまりの多い悪路と言われていた国道67号線の整備が進んで、クバルスピアンを訪れる観光客も多くなってきているようです。各自でゴミを持ち帰りましょうという立札が見られるようになるのは、まだ先のようです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

クバルスピアン駐車場

バンテアイ・スレイ遺跡から北東に約15km、クバルスピアン遺跡の麓に造られた駐車場に到着しました。国道6号線から国道67号線に入り、50分ほどの距離でした。小さな三角の屋根がいくつも連なっている建物が、レストランや土産物売り場です。
CIMG2430出発

クーレーン山には、50を超える遺跡が残されているそうです。左写真として掲載した地図http://krorma.com/ruins/kbal_spean/)には、右の山頂にプノン・クーレンが記され、山あいを通る国道67号線を挟んで、左の山の中腹にクバルスピアンが記されています。クバルスピアンのある山も含めて、クーレーン丘陵と呼ばれているようです。上写真の左後方(西)に見える山に、クバルスピアン遺跡があり、下右写真には、右端の木々の後ろに、プノン・クーレーンのある山が見えています。
クバールスピアン CIMG2343

駐車場内に掲示されていた地図を見ると、赤い線で囲まれた範囲が「Map of Preah Cheyvaraman Norodom National Park(Phnom Kulen)」、ノロドム国立公園(クーレーン山)となっていました。そして、国道67号線の左側の一部が「KBAL SPEAN Resort」と記されていました(左写真)。右写真として示した赤い掲示板には、クメール語と英語で、この場所が「クバルスピアン」と呼ばれるのは、川の中に横たわっている自然の石が橋のように見えるためという説明がありました。カンボジア語では「クバル」は「頭」、「スピアン」は「橋」という意味になります。
CIMG2357 CIMG2360

食堂の前で、ジーンズ姿の若い女性が、観光客の呼び込みをしていました。料理メニューの看板には、赤字で「Free WiFi」と大きく書いてありました。WiFiは、無線Lanの1種で、山あいのこの場所にも、インターネット接続が可能なホットスポットが設置されているようです。赤いクーラーボックスにも、「Free WiFi」の文字があります(左写真)。カンボジアでは乾季にあたる12月のこの時期、クバルスピアンを訪れる観光客も増えているようでした。土産物の並ぶ店の中には、観光客の姿も見られ、店頭では店の女性がジュースとして提供するためのココヤシを選んでいました(右写真)。
CIMG2352チャーハン6ドル7up1ドル CIMG2341

土産物店の向かい側に、入山料などを扱う事務所があります。その事務所の脇の立て看板には、入山料について、観光客2000リエル カンボジア国民500リエルと書かれていました(左写真)。事務所の柵の所にハンモックが置かれ、中では赤ん坊が眠っていました。母親がここで働いているのでしょう。
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この事務所には観光客用のトイレが併設されています(左写真)。バンティアイスレイのトイレ同様、様式便座に水の出るホースがセットしてありました(右写真)。
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クバルスピアン遺跡は、11世紀から13世紀の間に造られた水中遺跡で、クーレーン山の山頂から流れる川底に約200mにもわたってヒンズー教の神々などの彫刻が施されています(左写真)。私たちは、右写真の左側へ進み、クバルスピアン遺跡へと登りはじめました。
CIMG2358 CIMG2364

クーレーン山は、アンコール地方における聖なる山とされ、そこから流れ出す水は、ロリュオス川となり、またシェムリアップ川として、アンコール朝の王たちが造ったバライを潤していました。ロリュオス川の流れを取り込んだインドラカタータは、やがて干上がってしまいます。一方、クーレーン丘陵の西側に源流を持つシェムリアップ川は、かつては、東バライに流れ込んでいましたが、現在では、干上がった東バライの外側(北側)を流れて、2つの流れに分かれます。南への流れは、遺跡の間を流れ下り、トンレサップ湖に至り、西への流れは、西バライに流れ込みます。アンコール朝の王たちが造ったバライのうち、現在まで水を湛えているのは、西バライだけだそうです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

国道67号線のレンガ工場

象のサークル(左写真)を過ぎて数分後、結婚披露のテントを見かけました。しつらえられた門の上にあるハートマークの両側に書かれている文字は新郎と新婦の名前なのでしょう。門の両側に建てられた柱には、ココナッツヤシの実が飾られていました。テントの中には、招待客が集まっていました(右写真)。この日、国道67号線沿いでの結婚式は2つ目でした。2014年12月27日は、カンボジアでは結婚するのに良い日のようです。
CIMG2293 CIMG2297結婚式

結婚式を見かけた少し先、国道67号線の両側には、鮮やかな色のスカーフなどを下げたパラソルが立ち並んでいました。シェムリアップの遺跡などではよく見かける光景ですが、ここでは大きなカマドにパームシュガーを作る大きな鍋がかかっていました。ここは、パームシュガーを作っているサンダイ村です。500mほどもこうした光景が続いていました。
CIMG2299 CIMG2300バンテアイスレイ手前のパームシュガー売店

サンダイ村を過ぎると、67号線から東へ分かれる左写真手前の道路へと入りました。写真左奥の道が67号線で、少し行くとバンティアイ・スレイに至ります。2㎞ほど進むと、大きなトラフィック・サークルに出ました。直径160mほどもあるこのサークルは、国道66号線上につくられていて、中では、牛が草を食んでいました(右写真)。
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サークルから3㎞ほど北上すると、66号線は67号線と合流し、その先は67号線になります。その67号線沿いに、レンガ工場が何棟も造られていました。入口付近に積んである木の枝は、レンガを焼くのに使う燃料です(左写真)。工場のトタン塀の間から、赤茶色をしたレンガが見えました(右写真)。
CIMG2323レンガ(ラテライト?)工場 - コピー CIMG2324

工場に立つ煙突の下には、レンガを焼く窯が造られているのでしょう(左写真)。トラックは、レンガを運搬するのに使われるようです(右写真)。
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工場の前に、赤褐色のレンガが、たくさん積まれていました。シェムリアップ近郊の村々を歩くと、赤土の道路を見かけます。赤土は、ラテライトを含んだ土壌で、アンコールワットなどの遺跡は、山地から切り出された砂岩とラテライトが建築石材として使われています。赤土の道路とヤシの木は、カンボジアの風景を特徴づけています。
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赤土から造られたラテライトのレンガは、ロハール村などでは、高床式家屋の1階部分の増築改修に使われていました(左写真2013年12月撮影)。右写真は、レンガ工場から国道67号線を北へ行ったところにある、カン・プラム村の小学校です。
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小学校から少し行くと、道沿いでイモを干している女性を見かけました。大きな袋に入っているのはイモのようです。この辺りでは、イモがたくさん収穫できるので、自家用で余った分は、家畜のえさにしたり、ベトナムや中国にも売っているとのことです。
CIMG2335イモの乾燥 CIMG2338自家用で余ったイモは家畜のえさやベトナム中国に売る

国道67号線の整備・改修は、観光だけでなく、レンガ工場からのレンガの運搬に、また農産物の運搬になど、沿線で暮らす人々の生活も便利にしているようです。、

写真/文 山本質素、中島とみ子

国道67号線とプラダック村

クバルスピアン遺跡へ向かうために、私たちの車は、国道6号線からアプサラロードへ入り、建設中のアプサラ庁舎前のロータリー(左写真)を東へ曲がりました。アプサラ庁舎と道路を挟んだ北側でも、工事が行われていました。
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道路の両側に立ち並ぶ街路灯(?)は、ここが、シェムリアップ市の中枢として機能し始めることを示しているように見えました(左写真)。この道路は、4.5㎞ほど東の地点で、国道67号線と交わります(右写真)。私たちの車はロータリーを左へ折れて、67号線に入りました。国道67号線は、シェムリアップ市街地を東西に走る国道6号線から北上し、オッドーミエンチェイ州のアンロンベンを通り、タイ国境に続く道路です。国道67号線(2車線、131キロ)の整備・改修は、タイとの貿易・観光促進を図る目的で、タイ近隣国経済開発協力機関(NEDA)とタイ輸出入銀行の支援を受け、タイの企業によって行われています(参照:http://www.newsclip.be/article/2006/08/17/899.html)。ちなみに、直進方向には、ロレイ遺跡や新しく建設中のシェムリアップ市庁舎があります。
CIMG2257クバールスピアへ向かう CIMG2265

国道67号線沿いで、結婚式の準備が行われている家を見かけました。カンボジアでは、結婚する花嫁の家の前に、このようなテントを張って小屋を作り、そこで招待客をもてなすことが一般的です。
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東バライの手前の67号線沿いには、広がる稲田とたくさんのオウギヤシの木が見られました。オウギヤシはカンボジア国の木になっていて、「カンボジアの国土は、オウギヤシのあるところまでと、昔の人は言った」そうです(http://blog.goo.ne.jp/mirokusan8/e/8ba34a237a9b4c081f9ce556b82da917)。右写真に見える電線は、「スマホ用に引かれているもの」とガイドさんが話していました。
CIMG2276カンボジアの国の木 CIMG2277携帯電話スマホのための電線

67号線は、東バライの土手を切り通して造られています。土手の中にも、田とオウギヤシの風景が広がっていました(左写真)。右写真は、東バライの中にあるプラダック村の入口付近です。この村は、1970年頃にはクメール・ルージュ(ポルポト派)の前線基地が置かれていたところで、日本人の間では、ポルポト派によって殺害された写真家一ノ瀬泰造氏の墓があることで知られています。
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プラダック村は、南北を通る67号線と東西を走る810道の交わる場所に位置しています(左地図)。右写真のゲートは810道に架かっています。810道の西方向は、プレ・ループやスラスランがあり、東方向は、バンテアイ・サムレへと至ります。
Map of 810, Pradak, カンボジア  CIMG2286 (2)

プラダック村の小学校も、67号線沿いにありました。
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東バライの中を走っていくと、北の土手が見えました(左写真)。少し先で、ネアクタを作っている場所がありましたが、ここも東バライの中です(右写真)。
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東バライを抜けて北へ3㎞弱行ったところのロータリーには、聖水を掲げた2頭の象が建てられていました。この構図は、バンテアイ・スレイのレリーフで見たことがありました。ヴィシュヌ(Vishnu)神の妻ラクシュミー(Lakshmi)に2頭の象が両側から聖水をかけているレリーフです。バンティアイ・スレイは、この67号線を北に13㎞程の距離にあります。
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東バライが、ヤショヴァルマン1世の統治時代(900年頃)に造られたとき、堤防建設には約800万立方メートルの盛り土が使われたそうです。その土手は、1920年代にアンコール観光周辺コースが整備された際に、一部が切断されました。国道67号線が土手を切り通して通ったのは、その後のことなのでしょうか?

写真/文 山本質素、中島とみ子

食事の準備2014

教室と改装中の高床式僧坊の間を行くと、炊事場がありました。その先に見える建物は、食事をする場所です(左写真)。バケツを持った小さな見習い僧が、改修中の建物の下を歩いていきました(右写真)。
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炊事場は、カマドのある場所に下屋を掛けただけの簡単な作りのものでした。カマドの横に大きな木が置かれ、その手前に見えるのは大きな鍋のふたでしょうか。そこにいた人たちは、小さな子供たちも含めた家族のように見えました。
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カマドでは、大きな鍋で汁物を、そして小さな鍋で何か調理しているようでした。僧坊付近で見かけた僧侶や見習僧の数から考えると、昼食の準備としては簡素すぎるように思えました。僧侶たちは、毎朝6時ころから托鉢に出て、托鉢で受けた食物を、朝食と昼食(11時頃)に食べるそうです。炊事場では、こうして汁をつくるくらいなのかもしれません。
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ニンニクがザルに干してありました。調理場のそばを猫がうろうろしていました。僧侶が子犬を抱え、犬を連れて、石組みの下へ通じる階段を下りていきました。階段の両側にシンハ像が立っていました。
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食事の場所は、タイルの床の上に敷物が置かれ、そこにテーブルが並んでいました。一番手前のテーブルにはテーブルクロスが掛けられ、臥せられた籠の中に食べ物が置いてあるようでした(左写真)。その右奥の仏像の前には、食器が積んであるのが見えます(右写真)。
DSC07984僧侶の食事の場 DSC07986

僧侶は生産活動、経済活動をしてはいけないと聞きました。僧侶は、村人や信者からの托鉢や寄付を受けて命をつなぎ、その強い精神で、村人や信者の生きる支えとなっているのでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子