アンコール・トムの中心寺院バイヨンの第一回廊では、たくさんのレリーフを見ることができました。 *アンコール・トム遺跡情報/位置:南大門は、アンコールワットの約1.5㎞北 /建立: ジャヤヴァルマン7世(1181~1220頃)が、都城として造営。
ジャヤヴァルマン7世がチャンパ軍との戦いに勝利したときの様子は、第一回廊の北側から東側にかけてみることができますが、行進のレリーフは、東側に残されています。写真の左経蔵は、修復箇所がわかるような修復がされているそうです。
以下の7枚の写真は一連のレリーフです。ガイドさんの説明は、下の写真から始まりました。そこには、象に乗った王族と象使い、それに従う兵士たちの行列が描かれています。象使いは、手に持った鍵棒で象を巧みに操り、兵士たちは槍を担いでいます。
象の行列は続きます。下のレリーフでは、多くの兵士たちが肩に旗を担いで行進している様子が見られます。右向きは、戦争に出かけるときの様子をあらわしています。クメールの兵士たちは、短い髪と福耳で、ふんどしのような簡易な服装で描かれていました。
チャンパ軍との攻防は、スールヤヴァルマン2世(1113~1150頃)の治世に始まります。スールヤヴァルマン2世は、西のタイとの争い、東のベトナムとの争い、南のチャンパーとの争い、1145年にベトナム中部のチャンパの首都ヴィジャヤを陥落させ、東のチャンパの領域から、西はビルマの国境まで、またチャオプラヤー河中流域からクラ地峡までをその領土としました(参照:http://angkor.gionsyouja.com/dynasty.html)。しかし、スールヤヴァルマン2世の死後、アンコール都城は、チャンパ軍の侵攻を受け占拠されてしまいます(1177年)。チャンパ軍によって占領されたアンコール都城を奪回したのはジャヤヴァルマン7世でした(1181年)。彼は、チャンパへの報復としてその首都を攻撃し(1190年)、その後約30年間チャンパを併合し支配下に置きました。
続くレリーフには、象の行列を護るように、馬に乗った兵士の姿が描かれていました。これらの兵士たちは、ひげを蓄え、髪は頭頂で束ね、冠のようなものをかぶっていました。中国の兵隊との説明でした。
さらにレリーフを追っていくと、行軍の中に、頭に荷物を乗せた女性や、荷車を曳く牛が見えてきました。
牛車の後ろからついていくのは、家族のようです。牛車の上には籠などが積まれ、車輪の軸の間に見えるのは2匹の犬でしょうか。小さな子どもを肩車する父親、そして母親、その後ろには、頭に桶を乗せた少女の姿も見えます。少女の頭上の木の上には、獲物を狙っているかのようなトラが描かれています。その左横の木には、木に登る人らしい姿もあります。
写真左下には、行進する兵士を横目に、座って酒を酌み交わしているような2人の男性がいます。
次の牛車の車輪の間には、小さな豚が描かれています。牛車を押している男性と、槍を握った夫婦らしい男女もいます。女性は、片手で頭の上の荷物を支え、もう一方の手で子どもを抱えながら槍を持っています。後ろの、停まっている荷車の横には男性が腹ばいになっています。そして荷車の下にも、男性が描かれています。ツボが見えるので、彼らも酒盛りをしているのでしょうか?
7枚目の写真のレリーフには、木の実を採る男性たちが描かれています。そして、女性の連れた亀が、先を歩く男性の腰ひもに噛みついています。女性の周りには、鶏などを入れておくような籠が見えます。後ろの兵士は、女性から木の実をもらっているように見えます。これらのレリーフからは、王と兵士たちが行進するかたわらに、人々の日常生活があることを描こうとしていることがうかがえます。
左向きのレリーフは、戦争から帰るときの様子をあらわしています。写真は、兵士が勝ち戦から戻ってくるときの風景です。槍を振り上げる兵士の声が聞こえてきそうです。
下の写真は、兵士がやりを振りかざして牛を殺そうとしている場面です。この牛は、勝ち戦の御馳走に供されるようです。
楽しそうな壁画を見つけました。象に乗った将軍の後ろに続く楽隊を描いたレリーフです。笛を吹くもの、スコーをたたく者、貝のようなものを打ち合わせている者などが見えました。ダンスを踊るアプサラも描かれています。
上のレリーフで兵士が肩から下げている打楽器は、カンボジアの伝統楽器スコーのように見えます。
バイヨン寺院には、各入口の横にデバターのレリーフがたくさん見られました。皆、華やかな冠をかぶっています。
柱を飾っていたのは、アプサラです。アプサラは、乳海攪拌の際に水の精として誕生した天女で、水鳥に変化したりします。カンボジアには宮廷舞踊「アプサラの舞」があります。
寺院のあちこちに仏像が彫られていました。左写真は、第二回廊のリンテルに彫られた仏像です。
しかし、仏像の顔の部分が削られたレリーフもありました。
ジャヤヴァルマン7世(1181~1220頃)が建立した仏教寺院バイヨンは、シヴァ神の信奉者であった23代目ジャヤヴァルマン8世(1243~1295)によって、ヒンドゥ寺院へ改造するために廃仏行為がなされたようです。仏像の代わりにハリハラ神像を置き、寺院に刻まれていた仏像をはぎ取ってヒンドゥー教の苦行僧に掘り直し、バイヨン寺院回廊に「乳海攪拌」「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」などが彫られていきました。
写真/文 山本質素、中島とみ子