アンコール・ワットを流れ下る水

アンコール・ワット最上段の第三回廊には、王の沐浴池の跡があり、その中央に祠堂塔(地上からの高さ65m)がそびえています(左写真)。アンコール・ワットを創建したスーリヤヴァルマン2世(1113~1150頃)は、降った雨がビシュヌ神を祀る中央祠堂塔を流れ下って聖水になり、その聖水を集めた池で沐浴することによって、神との一体化を望んだようです。アンコール・ワット遺跡情報/位置:シェムリアップ空港から4.5㎞東 /建立:12世紀前半、スーリヤヴァルマン2世により、ヒンドゥー教寺院として30年を超える歳月を費やし建立される。
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第三回廊の沐浴池に湛えられた聖水は、排水口を伝って、十字回廊の沐浴池に流れこむ仕組みができています。2つの沐浴池が水色で示されているアンコール・ワット平面図を掲載しました(参照:http://angkorcambodia.blog.fc2.com/blog-entry-35.html)。この平面図で見る限り、第三回廊の沐浴池より、十字回廊の沐浴池の方が大きいようです。また、十字回廊の沐浴池(右写真)は、上右写真の第三回廊の沐浴池(上右写真)と比べて、深くなっているのがわかります。そして、2つの沐浴池の違いは、池の底に敷かれた石にも見られました。第三回廊の池の底には、表面の平らな石が敷かれていましたが、十字回廊の方は、小さな穴の開けられた石が敷かれていました。
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第三回廊の沐浴池に敷かれていたのと同じような石が、基壇下にも敷きつめられていました。その石敷きは、王が第三回廊に上るためのテラスがある第二回廊西正門辺りで、周囲より低くなっていて、第二回廊の下とテラスの下に、橋げたのようなものがついていました。降った雨が、基壇を流れくだって聖水となり、テラスのあるこの場所に池を造りだしていたようです。
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写真に、塔門の方に歩いていく男性の右側に、緩やかな斜めの筋が見えるでしょうか。池のように低くなっているのは、第二回廊西正門の両側に建つ塔門のあたりからのようです。池の上のテラスを渡って、第三回廊に上っていった王の姿が想像されます。この池の水もまた、第二回廊下の排水口から、十字回廊の沐浴池に注いでいたのでしょうか。私たちが訪れた時(2012年12月~2014年9月)には、第二回廊西中央門から第三回廊に続くテラスは通ることはできませんでした。
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第二回廊から十字回廊に続く階段です。この下を、聖水が十字回廊の沐浴池に流れ下っていたのでしょうか?この階段の正面入り口の先には、西塔門前の十字テラスが広がっています。
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アンコール・ワットでは、雨が中央祠堂塔をつたって第三回廊の沐浴池に満たされ、その水が、十字回廊の沐浴池に流れ落ちるシステムがつくられていましたが、水に関するシステムは、ロレイ遺跡やクバル・スピアン遺跡にも見られました。
ロレイ祠堂は、 アンコール朝最初の都が置かれたロリュオス地方に残る遺跡で、人工池インドラタターカの中に建つ4基の祠堂の中心部に、リンガつくられていました。そのリンガの上から水を流すと、リンガを伝って流れ落ちた水が聖水となり、設置された樋(とい)を伝って(右写真)4方向に流れ、インドラタータカに流れ込んでいました。王が、雨乞いなどの儀式として行っていたそうです。*ロレイ祠堂情報/ ヤショヴァルマン1世(889~910頃)が、父インドラヴァルマン1世によってロリュオス地方に開掘された人工池インドラタターカ(東西3.2km南北0.7km、貯水量1000 万㎥)の中心に893年に建立。
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クバル・スピアン(Kbal Spean)遺跡は、アンコール朝最初の王、ジャヤバルマン2世が即位したプノン・クーレーンの西部につくられた水中遺跡です (http://krorma.com/ruins/kbal_spean/)。右写真は、クバル・スピアン遺跡上流部にある水中彫刻で、右奥の大きな石には、大蛇シェーシャ(竜王アナンタ)の上に横になっているヴィシュヌ神、その右側に、ナンディン(雄牛神)に乗ったシヴァ神と妻パールヴァティーが彫られています。そして川底いっぱいにリンガが彫られていました。リンガは、ヒンドゥー教では、シヴァのシンボルとして崇められています。クバル・スピアン遺跡情報/位置:クーレン丘陵西部、シェムリアップ川に注ぐ源流部分約200mに渡る川底の岩盤や土手などに、神々やリンガの彫刻が施された水中遺跡 / 建立:銘やレリーフなどからほとんどの彫刻が、ウダヤディティヤヴァルマン2世(1050~1066)統治下の11世紀後半から13世紀の間のものとされる。
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川を下って行くと、五祠堂型リンガとヨニの彫刻がありました(左写真)。さらに下ること5分、リンガの上を流れてきた聖水は、四角く造られた聖なる池(沐浴池)に流れ込んでいました。聖水は生命と活力を蘇らせるパワーを持つと考えられ、王族たちの病気治癒の場にもなっていたそうです。
CIMG2410水の中のリンがとニーヨ CIMG2415四角作られた沐浴場

そして、沐浴池からあふれた水は、流れ落ちて滝になります。滝の下は池になっていて、訪れた観光客が足を浸しながら写真を撮っていました(右写真)。
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アンコール朝がこの地で栄えた大きな要因は、シェムリアップ扇状地を流れるロリュオス川とシェムリアップ川の存在だったようです。アンコール地域の地形図(JICA(国際協力事業団が1996年から1998年にかけて行った地形図作成事業)を再掲しました。左図は、シェムリアップ扇状地における弧状等高線を表したものです。北から東に描かれている、50mの太い等高線部分がクーレーン山麓で、その中ほどからシェムリアップ川が流れ下っています。東バライの東側を南北に流れているのが、ロリュオス川です。アンコール・トム東の東バライ、西の西バライともに、扇状地の傾斜を利用して造られているのがわかります。*東バライ情報/ 位置:アンコールワット東門から東バライの南西角まで直線距離で約4㎞ / ヤショヴァルマン1世の統治時代(900年頃)に造られる。東西7,150m、南北1,740m。
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上右図は、9~10世紀(上、図6)と11世紀のアンコール地域(下、図7)です。11世紀には、東バライが拡張され、西バライも開堀されています。西バライ情報/ 位置: アンコール・トムの西隣 / 創建者: スーリヤヴァルマン1世(1011~1050)によって開掘が始まり、ウダヤティティヴァルマン2世(1050~1066)の時代に完成した東西8㎞、南北2.2㎞の人造湖。中央に立つ西メボンは、ウダヤティティヴァルマン2世が建立。西メボンでは、中央にリンガを逆さにしたような形状の井戸を造り、その内壁を下から円、八角形、四角形と断 面に変化をつけることにより、水位を測っていたそうです。メボンに渡ることができたのは王だけで、水位は王と神によって護られていたということでしょう。西メボン寺院址からは、ブロンズ製の優美な<横たわるヴィシュヌ>神像も発見されています。右写真が西バライの中央に建つ西メボンの遠景です。
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アンコール・ワットを創建したスーリヤヴァルマン2世は、その水利システムによって、「神との一体化」を成し遂げようとしました。高い塔を持つ建築物と、高い場所に水を湛える技術を駆使したアンコール・ワットは、当時の人々に、自在に水を操る神のような王の姿を、強く印象付けたに違いありません。
アンコール遺跡に残る環濠や人工池(インドラタターカ、東バライ、西バライ)は、その時代を生きた王たちによる、ヒンドゥー教の神を中心に据えた水利システムの構築だったのでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子

乳海攪拌

カンボジアへの中継空港として、タイのスワンナプーム国際空港を利用したことがありました(2012年12月,2013年3月)。スワンナプーム国際空港は、2006年9月28日に新バンコク国際空港として全面開港した空港で、その外観と空港内の通路には、ナーガをイメージさせるものがありました(左写真)。右写真は、通路に置かれていた「乳海攪拌(にゅうかいかくはん)」のディスプレイです。大亀の上のヴィシュヌ神を中央に、左手前のアスラ(阿修羅)と右奥の神々が、大蛇ヴァースキを綱代わりに引き合い、海を攪拌するという、インド神話に登場する天地創造の場面です。
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アスラと神々が綱引きをする乳海攪拌のモチーフは、カンボジア、シェムリアップ市街地の国道6号線沿いのホテル前にも飾ってありました。
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アンコール・ワットを髣髴とさせる左写真の建物は、シェムリアップ市街地に建つアンコール国立博物館です(2007年11月に開館)。館内の展示室を結ぶ渡り廊下にも、乳海攪拌をイメージさせるアスラと神々の頭像が並んでいました。
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そして、博物館の受付ロビー横には、乳海攪拌の顔出しパネルが設置してありました。乳海攪拌が顔出しパネルとして作られているのは、この神話が、多くの人々に親しまれているからなのでしょう。中央にヴィシュヌ神、左右に神々とアスラが描かれ、上に大勢のアプサラスが踊っているこの顔出しパネルの絵は、アンコール・ワット第一回廊に刻まれている乳海攪拌のレリーフを模したもののようでした。 DSC00515 DSC00514

アンコール・ワット第一回廊にある乳海攪拌の壁画レリーフです。真ん中にいるヴィシュヌ神は、知力の象徴である棍棒と、創造と破壊の力を表す円盤(又はチャクラ)を持ち、足元には、彼の化身とされる亀(クールマ)が描かれています。ヴィシュヌの上に描かれているのは、乳海から生まれ、ヴィシュヌ神の妃となるラクシュミーでしょうか。周りには、海の泡から生まれたアプサラスがびっしりと彫られています。 アンコール・ワット遺跡情報/位置:シェムリアップ空港から4.5㎞東 /建立:12世紀前半、スーリヤヴァルマン2世により、ヒンドゥー教寺院として30年を超える歳月を費やして建立される.
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アスラと神々が綱引きのようにして攪拌している足元の大海には、魚やワニに交じって、攪拌する際に生まれてきた様々な生き物も描かれています。1000年間攪拌が続き、乳海から白い象アイラーヴァタや、馬ウッチャイヒシュラヴァス、牛スラビー(カーマデーヌ)、宝石カウストゥバ、願いを叶える樹カルパヴリクシャ、聖樹パーリジャータ、アプサラスたち、ヴィシュヌの神妃である女神ラクシュミーらが次々と生まれ、最後に天界の医神ダヌヴァンタリが妙薬アムリタの入った壺を持って現れます(参照:ウィキペディア)。
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写真はアンコール・トムの南大門前です。環濠に架かる橋の両側に、乳海攪拌のアスラ(右側)と神々(左側)の像が並んでいました。ブルーシートの下では、像の修復が進められていました(2013年8月撮影)。
*アンコール・トム遺跡情報 /位置:南大門は、アンコールワットの約1.5㎞北 /建立:12世紀後半に、ジャヤヴァルマン7世(1181~1220頃)により、仏教寺院を中心にした都城として造営。
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アンコール・トムは、建設に際して乳海撹拌のモチーフを取り入れたということを聞きました。中央にあるバイヨン寺院を曼荼羅山に見立て、大海に見立てた環濠の上に、アスラと神々が綱引きをする姿を設置したということです。アンコール・トム東西南北の門の前に、こうしたアスラと神々の像が造られていたようです。現在は、写真の南大門前と、東門前、そして北門の一部に残されています。
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左写真は、車で走り抜ける際に撮影したアンコール・トム北門の環濠の橋に残る神々の像です。本来横向きの神々の身体と顔が、橋の内側を向いているのがわかるでしょうか。これは、後世にこのように乗せられたものと思われます。右写真は、アンコール・トムの北門を抜けて、環濠と並行して走る道を西バライへ向かう途中で見かけた寺院です。建設途中の新しい仏教寺院でしたが、寺院の塀は、乳海攪拌の彫像で飾られていました。

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シュムリアップ市内で、入口門の両脇に乳海攪拌の像が続く建物を見かけました。国道6号線から北に約3キロメートルほどのところにあるこの建物は、2007~8年頃に建設された戦没者慰霊塔寺院です。寺院が建つ前は、誰 の墓かわからなくなった墓が、ずっと広い範囲にあったようです。近くには、ベトナム人戦没者の墓もあったそうですが、現在はマンション等に変わってしまっているそうです。カンボジアでは、1975年から1977年にかけて、「カンボジア・ベトナム戦争」と位置付けられる、冷戦の地政学的状況下で戦われたベトナム社会主義共和国と民主カンプチアの間の武力衝突がおきます。1978年12月25日、ベトナムがカンボジアへの全面的な侵攻に踏み切り、クメール・ルージュ(カンボジア共産党)を政権から駆逐し、カンボジア国土の大半を占領しました。この寺院に祀られているのは、その戦いにおける戦没者なのでしょうか。
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ヒンドゥー教の天地創造神話として語り継がれてきた乳海攪拌は、カンボジアで、ヒンドゥー教を奉じたアンコール朝期の王たちに受け入れられました。そして、アンコール朝初の仏教徒であったジャヤヴァルマン7世も、アンコール・トムを造る際に、「乳海攪拌」が根底にあったようです。そして、人口の9割以上が上座部仏教の信徒である現在、新しく造られる寺院にも、乳海攪拌のモチーフを見ることができました。乳海攪拌という創世神話が、アンコール遺跡のある町の一つシンボルになっているのでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子

デヴァターとアプサラダンス

アンコール・ワットでは、たくさんのデヴァター(女神像)のレリーフを見ることができました。それらのデヴァターは、当時の宮廷に仕えていた女官や踊り子たちをモチーフにして彫られたとされ、その数は、1700体とも2000体とも言われています。 下の2枚の写真は、アンコール・ワット周壁の西塔門で撮影したデヴァターです。
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十字回廊の石柱にもデヴァターのレリーフが見られます。ヒンドゥー教において、デヴァターとは女神のことであり、その最高神は、ヴィシュヌ神の妻・ラクシュミーとされています。右写真は、彫りかけで未完成に終わったデヴァターです。
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第一回廊の乳海攪拌のレリーフに、乳海の泡から生まれた天女アプサラスが多数描かれています。泡からはじけ出たアプサラスは、頭に冠をかぶり、手のひらを大きくそり返し、足を曲げ、踊る姿で描かれていました。アプサラス(天女)は、神々を楽しませる天上界の踊り子で、天上界と人間界とを自由に往き来できる存在と位置づけられています。
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第一回廊沐浴池に面した壁面には、3人~4人のデヴァターが肩を寄せ合ったり、腕を組んだりした姿で彫られていました。デヴァター(女神)というより天女アプサラス(天女)に近い存在として描かれているように思いました。
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第二回廊にも、数えきれないほどのデヴァターのレリーフがあります。中でも、第三回廊西塔門に面した場所には、多数のデヴァターが見られました。左写真は、第二回廊の外壁のデヴァター、右写真は、第三回廊基壇下の経蔵に彫られているデヴァターです。大きく手をあげたその姿は、第三回廊に祀られているヴィシュヌ神を楽しませる、天上界の踊り子(アプサラス)のように躍動感に溢れていました。
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第三回廊の尖塔下部分も、たくさんのデヴァター(女神)で飾られていました。右写真は、第三回廊中央祠堂塔内部のデヴァターです。
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中央祠堂塔の上部にも、デヴァターが彫られています。デヴァターの下の方に見えるのは、アプサラスのようです。
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第三回廊の基壇下で、アプサラダンスの衣装を身に着けた若者たちにあいました。彼らは、観光客の求めに応じて、一緒に記念写真を撮影するためにここにいるようです。6人の女性が金色の冠をつけていましたが、その形は少しずつ異なっていました(左写真)。アプサラダンスでは、演目や役割によって、かぶる冠が決められているそうです。

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彼女たちの冠の部分を拡大した写真で、その名称と役割を確認していくことにします。上右写真は、少女(役)がかぶる「クバン」と呼ばれる冠で、つけることが許される最初の冠だそうです。ナーガを頭に戴いているような形に見えます。下左写真は、「ロックラウ」と呼ばれる冠で、女官であることを示しているそうです。この「ロックラウ」は、「クバン(上右写真)」の次に許される冠です。アンコール・ワットのレリーフには、この「ロックラウ」を付けたデヴァターが多く見られました。下右写真は、ストゥーパ(聖なる塔)を模したとされる格の高い冠で、「モコッ・アプサラ」と呼ばれ、最後に付けることが許される冠です。(参照:http://ameblo.jp/sakarak/entry-11130195720.html
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シェムリアップ市街地パブストリートにある「テンプルクラブ」でアプサラダンスを見ました。「テンプルクラブ」は、研修生たちが舞台での経験を積むために、観光客にアプサラダンスを見せている場所です。最初に登場したのは、「クバン」と呼ばれる少女(役)の冠をかぶった踊り子でした(左写真)。その後、「ロックラウ」の冠を付けた踊り子たちが登場し、踊りを披露してくれました。客席と舞台が近いので、彼女たちの一生懸命さが伝わってきました。
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2013年8月には、「クーレン2(クーレンピー)」で、アプサラダンスを鑑賞しました。「クバン」を付けた少女役と猿役の踊り手が写っている左写真は、インド神話(ラーマーヤナ)を題材にした演目です。右写真は、ソロの踊りを披露した「ロックラウ」を付けた踊り子です。アプサラダンスでは、顔の表情は変えずに、手・足の指、ひじを反り返らせ、ゆっくりとした動作で豊かな感情を表現します。こうした動きの型は4500種類ほどもあると聞きました。
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アプサラダンスは、アンコール朝時代、王や神々への祈りのために舞う踊りとして、王たちによって保護されてきました。アンコール朝は、1432年タイのアユタヤ朝(ボロマラーチャー2世)によって滅亡しますが、その時に捕虜として連れ去られたアンコール朝の宮廷舞踊家や音楽家たちによって、アプサラダンスをはじめとするクメール文化は、アユタヤ朝に受け入れられて行きました。
一方、カンボジアでは、1841年に王位についたアンドゥオン王子が、宮廷における伝統芸術の復活を目指し、1906年には、シスワット王がフランスのマルセイユで開催された植民地博覧会に、74名の王立舞踊団を引き連れて上演を行っています。 1930年にカンボジア美術局から王宮に宮廷舞踊団が返還されると、ノロドム・シアヌーク(1941年即位)の母親コマサック王女が、宮廷の女性舞踊を復興させました。具体的には、ラーマ物語のサル役などに男性を起用し、王族の娘も舞踊団に加わるようになり、また、 アンコール・ワットを背景とした舞台で上演し、舞踊の衣装をアンコール・ワットにみられる浮彫りをもとにして、古代のクメールにみられた舞踊様式に戻ろうとしました。
1975年から3年間のポル・ポト時代には、弾圧の対象となり、9割の舞踏家や楽師の命が失われ一時滅亡の危機に陥りますが、1980年、王室や生き残った舞踏家たちにより、王立芸術大学が再開し、古典舞踏も蘇りました。(参照:WikiPedia )
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コマサック王女がその復興を目指したアプサラダンスは、アンコール・ワットに彫られているデヴァターをもとにした衣装を身に着けて、アンコール・ワットを背景にした舞台で上演することでした。アンコール・ワットに刻まれている多数のデヴァターは、アプサラダンス復興に大きな役割を果たしていたのです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

第三回廊から臨む

アンコール・ワットの第三回廊西塔門に立つと、二段重ねの破風が目に飛び込んできます。第二回廊の西正塔門を飾る破風です。その奥のブルーのシートは、修復中の第一回廊西塔門です。西へまっすぐに伸びる参道の両側は、見通しよく整備されていて、長さ350mの参道の先に建つ西参道正門まで見渡すことができました。参道の両側に建つ経蔵も、その全形を見せていました。写真手前は、第三回廊西塔門の張り出しと柱です。この場所は、他の東南北に造られている塔門より、張り出しが長くなっています。
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第三回廊から眺めた風景と方角とを確認するために、アンコール・ワットの平面図を2つ示しました。左に、アンコール・ワット西方向の建造物が記された平面図を再掲(参照:hhttp://www.ne.jp/asahi/y-sakai/fukui/sub64.html)、右には、各回廊(第一回廊、第二回廊、第三回廊)の塔や塔門を確認することができる伽藍の平面図を再掲しました(参照:http://blogs.yahoo.co.jp/soreikemami/folder/1238789.html?m=lc)。
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第二回廊西正塔門の左右に建つ経蔵は、破損がひどく屋根も崩れていました。左写真は南側の経蔵、右写真は北側の経蔵です。
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第二回廊の南西隅(左写真)と西北隅(右写真)に、たくさんの石が置かれているのが見えました。経蔵の屋根を形づくっていた石も、この中にあるのでしょう。
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第三回廊西塔門から西南方向を臨むと、西南角に立つ第二回廊の塔や第一回廊の塔の後ろに、高い木々が密集していました(左写真)。南の方向に見えた、木々の間に見える赤い屋根は、アンコール・ワットの南側に建つ寺院です(右写真)。手前の木陰で休んでいる、緑色の制服を着た清掃員の人たちが、豆粒ほどの大きさに見えました。
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観光客用の木製階段がある東北角から、東方向を臨むと、東正面塔門から東へ伸びている道が見えます。この道は、アンコール・ワット内に入る自動車が通る道路になっています。自動車は、東回廊から北回廊へ走っていきます。右写真で、第一回廊の上に、自動車が走っているのが見えるでしょうか。
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左写真は、北西方向を写したものです。第三回廊と第二回廊、その下に第一回廊も見えています。アンコール・ワットの北西方向には、アンコール・トムがあります。右写真には、第二回廊の北西隅の塔の先端の少し左側に、石の塔のようなものが見えますが、高さ約43メートルといわれるバイヨンの中央祠堂と周りを囲む回廊かもしれません。
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掲載した写真でみたように、アンコール・ワットの周壁内は、整備された西側を除いて、木々で囲まれ、そして、森が続いていました。アンコール・ワットの第三回廊から臨んだアンコール遺跡の周辺も、森のように木々で覆われていました。
フランス人博物学者アンリ・ムオーの調査によって「発見」された1860年頃のアンコール・ワットは、ジャングル(森)に埋もれていたとされます。ところが、アンコール朝時代には、アンコール・ワット周壁内に、2800人から4000人もの人たちが暮らしていたという調査結果が報道されました(2015年10月17日放映NHKスペシャル「カンボジア  アンコール遺跡群」)。ヘリコプターによるレーザー調査を分析した結果によると、アンコール・ワット第一回廊外側の周壁内に、直径25mのため池の跡が見つかり、そばには土を盛って25m×40m位の大きな建物が建っていたことが解ったそうです。大きな建物の周囲には、いくつもの小さな家屋の跡があり、そこでは人々が生活する村(町)が形成されていたようです。そうした村の跡が、周壁内にはいくつも見つかっているとのことでした。
アンコール朝期、スーリヤヴァルマンが第三回廊から臨んだのは、密林ではなく、人々が生活する町の光景だったのでしょうか。
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アンコール・ワット北側に建つ寺院の敷地内で、面白いものを見かけました。同じ高さに輪切りにされている大きな切り株のようなもので、中には六角形のほぞ穴(柱穴?)が空けられていました。近年建てられたという北側の寺院を造る際に掘り出されたものなのでしょう。かつて、アンコール・ワット内に建っていたという木造の建物は、こうした大きな木を土台として使っていたのでしょうか?

写真/文 山本質素、中島とみ子