民族村の展示

カンボジア文化村には、民族村の展示もありました(案内板⑲~㉙)。1972年当時のカンボジアは、クメール人が86%、ベトナム人が5%、華人が5%で、その他の4%がチャム族などの少数民族でした。左写真として掲載した地図は、1972年当時の民族分布地図で、薄いベージュ色がKhmer(Cambodian)、ベージュ色はKhmer Loeu(Tribal)、そしてオレンジ色はVientnamese、 緑色はCham、薄緑色はMountain Cham、茶色はLaoと色分けされています(参照:ウィキペディア)。ベトナム人の多くは、トンレサップ湖の北部と西部に居住し、そして、クマエ・ルゥ(部族) の多くが、カンボジア東部の山岳地帯に居住していることがわかります。右写真として、カンボジアの行政区分図も、ウィキペディアから引用掲載しておきました。
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⑲Phnorng Village(プノン族の村)から見ていきます。
プノン族は、少数民族(Khmer Loeu(クマエ・ルゥ))のひとつで、カンボジア東部のモンドルキリ州に住んでいます(写真1)。「山に出会う」という意味を持つモンドルキリには、標高800mの山々が連なっています。10以上の山岳民族が居住するモンドキリ州ですが、そのうちの80%近くをプノン族が占めています。写真2、3は、⑥博物館の蝋人形エリアに展示してあったプノン族の親子と伝統的住居です。 「プノン」とは「小高い丘の人々」を意味し、彼らは、オーストロアジア語族のモン・クメール語派の言語を話し、焼畑や狩猟などを生業としています(参照: ウィキペディア)。
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左写真は、プノン村展示の入口です。入口の門と道には、水牛の頭を象ったものが掛かり、周りには竹林がつくられていました(左写真)。プノン村のエリアに入ると、竹で編んだ壁面と草ぶきの屋根を持つ家屋が建てられていました(右写真)。一般に、少数民族の言語では、家を「チョン」と呼び、柱が2列に並ぶ家は「チョン(=家)・チャイ(=大きな)」で、柱が1列に並ぶ「チョン(=家)・チューン(=小さな)」と呼ぶそうです(参照:http://angkorvat.jp/doc/cul/ang-cul28010.pdf) 。プノン族の暮す伝統的な家屋は、2列の柱列の間に土間と囲炉裏があり、柱列の脇には人が座れる高さに床が作られています。そして、柱列の上には中二階が設けられ、米倉と収蔵スペースになっています。
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家のそばに竹があるのは、プノン族の生活に欠かせないものだからでしょう。展示されていた井戸の周りにも竹が植えられていました(左写真)。住居の戸にも水牛の顔が描かれていました。プノン族の人たちは、水牛を使って、さつまいもやとうもろこし、キャッサバを栽培し、また狩猟や、野生の象を生け捕りにして飼育もしています。彼らはヤングと呼ばれる精霊を信仰し、特に稲の精霊、象の精霊を崇めているそうです(参照:http://www.ciesf.org/report/20100319post-135.html)右写真のイスは、族長(あるいは呪術者)の座る場所をイメージしているのでしょう。
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㉔Kroeung Village(クルーン村)は、モンドルキリ州の北に隣接するラタナキリ州にあります(写真1)。 カンボジア国内で高地クメール族に分類される民族は20ほどですが、そのうち15民族が北東部高原地帯に集中しています。民族は、それぞれが用いる言葉で分類されますが、言語学上ではいずれもインドシナ半島に広く分布するモン・クメール語族に属し、伝統的に焼畑や狩猟などを生業とし、精霊信仰や食文化、工芸など様々な生活習慣を共有しています(参照:http://www.ciesf.org/report/20100319post-135.html)。
写真2は、⑥博物館の蝋人形エリアに展示してあったクルーン族の男女です。そして写真3は、「山に息づく 少数民族の暮らし カンボジア北東部 高地クメール族」に掲載されていた写真で、ヤッロォム湖やカチャン滝などの行楽地にこうした「花婿の家(左)」と「花嫁の家(右)」が復元されているそうです。花婿の家は、高さ3~4mにもなる小屋で、こうした高い場所に住むのは、婚期の男性が、自らが強く勇敢であることを未婚女性たちに示すという風習によるもので、最近でもクルーン族のアイデンティティとして、時々建造されるそうです。(http://krorma.com/magazine/f1_37_khmerleu/5/
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クルーン村の展示場所も竹林で囲まれていました。クルーン族の伝統的な家屋は、壁面や床が竹で編まれていて、そのきれいな幾何学模様が特徴とされます(右写真)。竹で編んだ壁や床は、風通しがよく、強度にも優れているそうです。
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訪れた時、クルーン村の中庭では、若い男女がショーの練習をしている最中でした。右写真は、クルーン村の入り口付近に立っていたショーの案内板です。ショーの時間になると、クルーン族の衣装を着けた彼らのショーが見られるのでしょう。
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㉖Phnom Yatは、バイリン地方のKola Village( コラー村)にあります。パイリンは、カンボジア西部、タイとの国境付近に位置しています(写真1)。バイリン地方を(写真2)の民族分布図に重ねると、KhmerとKhmer Loeu(クマエ・ルゥ)の居住域にあたり、コラーは、クマエ・ルゥの部族の1つのようです。
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左写真は、コラー村展示の入口です。左奥に洞窟、中央奥に高い建物が見えました。コラー族は、ミャンマーの少数民族で、1876年からカンボジアのバイリン地方に住むようになりました。バイリン地方は宝石の産地なので、入り口に「TUNNEL OF TRESURE」(宝物の洞窟)が造られているのでしょう(右写真)。1979年にベトナムがカンボジアに侵攻した際には、バイリンは、クメール・ルージュの重要な拠点となり、彼らによって宝石のほとんどが掘られてしまったそうです。
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奥に見えた建物は、1922年に建てられたというPhnom Yat(プノン ヤット)のレプリカでした(左写真)。Phnom Yatが建てられた由来については、多くの物語が残されてます。
ある伝説によれば、狩人たちがジャングルで、動物を狩っているときに、この場所で魔法使いに出逢いました。 魔法使いは「Yiey Yat Yat」(またはおばあさん)と呼ばれていました、彼女は、彼らに動物を殺さないように警告しました。彼らが狩りをやめると、奇跡が起きました。狩人がジャングルに行くと、Yat山からの流れのそばでカワウソが遊んでいました。そして、カワウソが口を開けると、口の中には貴重な宝石がありました。動物を殺さない報酬として、魔法使いが与えてくれたのです。そこで、彼らは塔を建てました。 後になって、Yatおばあさんを祀るために社が建てられました。 人々は、Yiey Yat Yatに、痛いところを治してもらおうとPhnom Yatに来ます。Phnom Yatには魔法のカワウソの彫像もあるそうです。(参照:http://www.cambodiasite.nl/pailinphnomyateng.htm
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㉗Chinese Village(中国村)。中国の人たちは、華人や華僑として世界中にその居住地を広げています。
右写真は、カンボジアで暮らす華人・華僑の人たちの家屋として展示されていました。シェムリアップ周辺の村々でも、このような飾りのついた家屋を見かけることがあります。カンボジアでは、土着化した華人と、新しく入ってきた華僑の人たちとが共生関係をつくって経済活動を行っています。また、「カンボジアでは1989年の新政府による対外開放政策の実施や94年8月4日に発布された王国投資法の施行に伴い,中国大陸をはじめ,香港や台湾などの企業や実業家が同国に投資してビジネス展開させるケースが増加している」[柬埔寨潮州会館 2003;華商日報社 2002;柬埔寨中国商会編 2000](参照:http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Periodicals/Ajia/pdf/2004_08/03.pdf)、という記事に見るように、カンボジアへの投資ビジネスも盛んに行われているようです。
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下写真の仏教寺院の入り口を護っている狛犬は、カンボジアのシンハとは少し異なっていました。中国における仏教について、大まかにまとめてみました(参照:ウィキペディア)。
中国地域への仏教の伝来は1世紀頃と推定され、紀元3世紀頃より、サンスクリット仏典の漢訳が開始されます。紀元7世紀には、玄奘三蔵(600年 – 664年)が、唐の国禁を破って天竺(インド)へ仏典請来の大旅行を決行し(630年 – 644年)、彼が持ち帰った仏典は太宗の庇護を受けて漢訳が進められて、後世の東アジアの仏教の基盤となりました。
北宋以降、仏教は禅宗と浄土教を中心に盛んでしたが、元・清の時代には王朝がチベット仏教に心酔したこともあり、密教も広まります。儒教と仏教、あるいは道教を含めた三教を融合する主張も見られ、インド起源の仏教が次第に本来のインド的な特色を失い、中国的な宗教へと変貌を遂げて行きました。
第二次世界大戦後、中華人民共和国が成立すると、仏教は国家による弾圧を受けましたが、現在の中国では政府の統制の元にある中国仏教協会を中心とした活動を公認する方向に政策が転換されています。
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㉙Cham Village(チャム族の村)。チャム族(チャムぞく、占族、ベトナム語: người Chăm および người Chàm)は、主にカンボジア及びベトナム中南部に居住しています。写真1の分布図によれば、濃い緑色の地域が Cham(チャム族)の居住域で、薄緑がMountaim Cham(チャム系山岳民族)の居住域になっています。写真2は、⑥博物館に展示されていた蝋人形で、足元には占族、KHMER ISLAM(クメールイスラム)と表示されていました。チャム族(占族)は、17世紀にベトナムに滅亡させられたチャンパ王国の国民の末裔で、イスラム教を信仰し、カンボジア人の大半を占めるクメール民族とは言葉も慣習も異なっています。
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チャム族、及びチャム系山岳民族は母系制度を採っていて、家・財産を守るのは女性の役目である。結婚後は、夫が妻方の住居に入る。従って、家督や母系氏族名も王族を始めとして女性の子孫が引き継いでいます。チャム族の村の入口には、立て看板の横にリンガの形が見えました(左写真)。チャム人はリンガを祀っていますが、シヴァの象徴としてではなく、シヴァという神名も知らないまま、王家の祖先の象徴としてそれを祀っているそうです。右写真にも、リンガのような形が見えますが、先端がとがっています。
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チャム族の村の中には、モスクが建っていました。チャム族は、クメール民族とは言葉も慣習も異なるため、ポル・ポト時代には、イスラム教の寺院や教典「コーラン」は破壊され、チャム族の半数が殺されたといわれています。<参照:冨山泰『カンボジア戦記』1992 中公新書 p.33-34>http://www.y-history.net/appendix/wh0202-006_1.html
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2008年の人口統計によれば、カンボジアの総人口は約1,338万人。その構成はクメール人(カンボジア人)が約9割、残り1割を、約20余りの民族が占めています。ポルポト時代を経たことが、カンボジアの民族構成に与えた影響は少なくないといわれています。この時期は、クメール人だけでなく、少数民族の人たちにとっても、過酷な時代だったのでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子

民族楽器館

博物館を出て、案内板の順路⑧Souvenir Shop、 ⑩Restaurantなどの前を通って(左写真)、奥へと進むと、カンボジアの見所をミニチュアで展示したテーマパークエリアがありました。⑪烏廊(?)山Phnom Ou Dong、⑫王城Royal Palace、⑬国家博物館National Museum、⑭塔仔山Wat Phnomなどのミニチュアが見えました(右写真)。
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左写真は⑮新市場Phsar Thmeyです。右側で散水する男性と比べると、ミニチュアの大きさがわかります。レリーフの大きな釈迦涅槃像⑯臥佛Buddha Statueも造られていました(右写真)。
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⑰Arrow Entertainmentでは、観光客も弓を射ることができるようです(左写真)。右写真は ⑱小劇場 Mini Theatreです。私たちが訪れた9時40分頃)は、ショーの開演時間まで間があったらしく、ステージ前のイスで、ショーに出る女性たちの休息する姿がありました。
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下の写真は、ミニシアター前にある食堂です。女性たちが大きな器の周りに集まり、調理の最中でした。店頭にはカマドも設置してあります(左写真)。店頭には、Soup Noodle, Fried Noodle,Curry Noodle, Khmer Noodle などのメニューも、写真入りで掛かっていました(右写真)。
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案内板を掲げているのは、口から赤い舌をのぞかせ、しっぽを持った、インドにおける蛇神の諸王、ナーガラージャ(Nāga Raja)なのかもしれません(左写真)。その先の建物に、大勢の人たちの姿が見えました。そこは㉕Khmer Association in USAのようでした。
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Khmer musical instrument(民族楽器館)には、いろいろな伝統楽器が展示してありました。その奥に、トローを持った2人の男性がいました(右写真)。
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手前の若い男性が、観光客にトローの引き方を教えているようです(拡大左写真)。「トロー」は、2本の弦を弓で弾いて音を奏でる楽器で、中国の二胡に似ています(右写真)。シェムリアップでは、ロハール村などで土産物用のトローが造られていました。
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左写真は、打弦楽器 「クゥム」です。台形の箱(ハンマーダルシマー)に張られた弦を、写真に見える竹製の細いバチで叩いて音を奏でます。右写真の楽器も、クゥムでしょうか。
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ギターのようなこの弦楽器は、「サーディアウ」です(左写真)。⑥博物館に並んでいた国民的詩人Krom Nguy(ゴイ)の蝋人形が、このサーディアウを手に持っていました。彼は、サーディアウを奏でながら詩を吟じていたそうです。右写真は、⑥博物館に展示してあった「ターケー(鰐琴)」と呼ばれる弦楽器です。ターケ-は、ワニの形をした台に水平に3本の弦が張られていて、 この弦を、小さな棒状のピックで弾いて音を出します。
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左写真手前の楽器もターケーでしょうか?その奥に見える舟形をした楽器は、「ロニアット・アエッ­ク(木琴)」 です。窓際にも、美しく彫刻されたロニアット・アエックが置かれていました(右写真)。ロニアットは、ホテルのロビーなどでも演奏されていて、日本人とわかると「上を向いて歩こう」のメロディを奏でてくれました。
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大小いろいろな形のスコーも置かれていました。カンボジアでは太鼓は「スコー」といい、小太鼓は、スコー・トゥーイ(左写真)、大太鼓はスコー・トム(右写真)とよばれます。スコー・トゥーイは手で叩く場合が多く、スコー・トムは、ばちで叩きます。
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小さな打楽器を円形に配した左写真の楽器は、「コーン・トム(環状ゴング)」です。右写真の壁際で、男性が吹いていたのは縦笛の「スラライ(オーボエ)」のようです(右写真)。
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カンボジアでは、伝統舞踊やスバエク(影絵芝居)などの演奏に伝統楽器が使われています。楽器館に並ぶこれらの伝統楽器は、大劇場や小劇場で披露される伝統舞踊ショーの演奏に使われるのでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子

カンボジア文化村

カンボジア文化村は、シェムリアップ空港から車で10分ほどの国道6号線沿いにあります。敷地内に立つ大きな水車が、その目印になっていました(左写真)。この施設は、台湾資本によって建設されたそうです。見学時に撮影した写真を、設置されていた案内図の番号(右写真)と照らし合わせながら、文化村を見ていきます。
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左写真は④View Towerです。登りませんでしたが、この上から文化村全体が見渡せるそうです。⑥Entrance and Tieket Check inで入場券を購入し中へ入りました(中写真)。順路のスタート地点を示す立て看板には、英語と中国語とクメール語の表記がされていました(右写真)。
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順路⑦の博物館(Museum)に向かいました。博物館では、アプサラダンスを踊る女性の蝋人形が、迎えてくれます(写真1)。このエリアには、カンボジアの歴史を代表する人物の蝋人形が、年代順に並べられていました。
写真2は、1世紀のカンボジアで、男性がひざまずいている女性は「柳葉女王」と表記されていました。1世紀~6世紀にかけてのカンボジアの大部分は、扶南(フナン)王国がを支配していたとされます。梁書(629年)には、扶南をたてた「混塡」(Kaundinya I)は、「徼」(マレー半島かインドネシアの島)からこの地に来て、土地の女王「柳葉」(Queen Soma)と結婚し、その子供に王権を与えました。そして、その子供が七つの町を作ったと伝えられています。また、1世紀ころからインドシナ半島にはインド文化が伝わり、扶南もその文化的影響を強く受け、ヒンドゥー教が伝わると官僚に多くのインド人が採用され、サンスクリット語が法律用語として使われました(参照:ウィキペディア)。写真3は、柳葉女王の背景に描かれている扶南の様子です。馬に乗った兵士と、山の麓に寺院や高床式家屋が建ち並んでいます。扶南は、インドと中国の中間地点にある水路の要衝だったので、3世紀頃から商業国家として繁栄し、稲作も発達していたそうです。
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6世紀になると、扶南の属国だった真臘(チェンラ)が勃興し、7世紀には扶南を滅ぼします。現代カンボジア国家の起源は、この真臘王国とされます。真臘王国では、インド文化の影響を受けサンスクリット文字を使用する一方で、クメール文字も使われ始めました。そして、ジャヤーヴァルマン1世の治世(657年ー681年頃)に、その領土は最大となります。
写真4は、アンコール朝の最盛期をつくったジャヤバルマン7世((在位: 1181年 – 1218年/1220年)です。彼は、チャンパ王国を併合するなど、現在のカンボジア、タイ、ラオス、南部ベトナムまで版図を広げていきました(写真5)。この時期に、現在のタイまで続く国道をはじめとして、主要な道路網の整備がすすみ、病院も100以上が建設されました。
写真6は、1296年に、元のフビライ・ハン使節の随員としてカンボジアを訪れた周達観です。この時期のアンコール朝は24代王シュリーンドラヴァルマン(1295~1308)治世にあたります。周達観は、翌1297年に帰国し、見聞録『真臘風土記』を著しています。
アンコール王朝は、1432年、アユタヤ王朝の侵略を受けて王都が陥落します。その後、17世紀から19世紀は、シャムやベトナムからの侵略や干渉がつづき、国内は混乱の中にありました。
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1863年から、フランスによるインドシナ半島の植民地化が開始され、カンボジアも、1893年にフランスの保護領になります。写真7はノロドム・シハヌーク(シアヌーク)です。1940年に、日本軍がインドシナ半島に侵攻した機に乗じて、ノロドム・シハヌーク(シアヌーク)王は、1945年にカンボジアの独立を宣言します。翌46年に再びフランスの統治が再開されましたが、シハヌークは粘り強く独立運動を続け、1947年に憲法を公布し、1949年にフランス連合内での独立を獲得し、そして1953年には警察権・軍事権を回復して、 「カンボジア王国」として、完全独立を達成しました。
写真8は、ノロドム・スラマリット王(King NORODOM SURAMARITH)(1896-1960)と妃です。
写真9は、ロン・ノル(1913年11月13日 – 1985年11月17日)です。彼が主導したクーデター(1970年3月18日)により、国家元首ノロドム・シハヌークは追放されます。そしてロン・ノルは、王制を廃止してクメール共和国を成立し、首相、大統領を歴任しますが、クメール共和国は5年で崩壊しました。
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写真10は「尊納僧王(Chuon Nath)」です。彼は、カンボジアの民謡を元に、カンボジア国歌をつくった人です。1941年に制定された国歌は、フランスからの独立時(1947年)に、改めて独立国の国歌として採用されました。しかし、シアヌーク国王がクーデターにより追放されると(1970年)、この国歌も廃止され、1975年にクメール・ルージュ下で一時復活しましたが、翌1976年に、他の曲に置き換えられます。そして、国歌として復活したのは、王党派のフンシンペック党が選挙に勝利した(1993年)後のことでした。
写真11は、国民的詩人Krom Nguy(ゴイ)(1865~1936)です。ゴイは幼少期より寺院で教育を受けた農民で、農民の生活、農民の苦しみ、カンボジアの独立や文化の危機をテーマにした多くの作品を、声楽の伴奏弦楽器であるサーディアウを奏でながら、平易な語彙で村人に歌い聞かせました。
写真12は、1960年代のムービースターと当時の軍司令官(将軍)の制服(UNIFORM OF MILITARY COMMANDER)です。描かれている背景は、アプサラ庁舎を思わせるものでした。
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写真13は、「幸福家族」と表示がありました。母親と父親、そして3人の子供が住むこの家は、部屋の中に階段が見えるので、高床式家屋ではないようです。父親は、テレビの横に置かれた電話で通話をしています。母親は小さい子供の面倒を見ています。そして、一番上の男の子(写真14)は、クメール語の本で勉強をしています。こうした家族が、現代カンボジアの人々が幸福と感じる家族の形の1つなのでしょうか。展示の傍らで、蝋人形の修理作業をしている人たちがいました(写真15)。
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蝋人形のエリアを過ぎると、古代の発掘物が展示されていました。
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博物館に展示されていた歴史上の人物の蝋人形を概観しただけでも、カンボジアがこれまで様々な混乱の中にあったことがわかります。その最たる混乱ともいえる内戦を経た現在、人々の顔には、笑顔が見られます。カンボジア王国の文化や伝統の継承を、国民が主体となって担う日も、近い将来に実現することでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子

クメール民家センター

バンティアイ・クディと道路を挟んだ北側に、「KHMER  HABITAT  INTERPRETATION  CENTER」があります。日本語では、「伝統的なクメール住居と中庭(屋敷)を説明するセンター」となるのでしょうか。案内図に見るように、センター内には、高床式伝統家屋②、ごみ置場(草等から堆肥をつくる?)③、野菜畑④、果樹⑤、池⑥などが造られ、また、観光客用のトイレ設備⑦や駐車場スペース⑧もできていました。*バンテアイ・クディ遺跡情報/ 位置:アンコールワットから約4㎞北東。スラスランの西/ 建立:12世紀末、ジャヤバルマン治世下の仏教寺院。
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ガイドさんの案内で、クメール住居に関する展示のある高床式家屋に向かいました(左写真)。傍らにコンクリート製のネアクタが建っていました(右写真)。この祠は、カンボジアの農村に多く見られます。すでに紹介したように、ネアクタは、ネアク=人、タ=ご先祖様、という言葉が示すように、祖霊崇拝として、さらにもっと広く、土着信仰の精霊として祀られています。精霊であるネアクタは、木にも石にも水にも土にも何にでも宿っていると信じられ、家を建てるときに、土地の一角(多くの場合は方角が良いとされる北東の隅)に、木製やコンクリート製の祠を建てて、ネアクタに移住してもらいます。その祠がネアクタの家とか小屋( ktomneak ta)といわれています(参照:http://angkorvat.jp/doc/cul/ang-cultu2080.pdf)。
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階段を上った部屋には、ガラスケースに入ったクメール家屋の模型が4つ展示されていました。これらの模型は、屋根の形に違いが見られました。センター内に建つこの高床式家屋の屋根(上左写真)は、左端に掲載した模型に似ていました。
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部屋の壁には、高床式家屋に関する写真パネルが展示してありました(左写真)。右写真のパネルには、前回紹介したバイヨン寺院のRedidence of a Mandarin(王宮)、Medical Clinic(医院)、Guest House(ゲストハウス)、Market(マーケット)などの写真があり、横に、1296年にカンボジアを訪れた、中国人”Zhou Daguan(周達観)”の見た、当時のクメール家屋の様子が記されていました。それによると、当時、王宮をはじめ、王族や高官の家、そして寺院などの屋根は、タイルで覆われていて、一般の人々の住居の屋根は、葉で覆われていたようです。周達観は、カンボジアで見聞きしたことを、1297年に見聞録『真臘風土記』として著わしています。
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下左写真(①)は、「THE RONG DOEUNG HOUSE」に関するパネル、その次(②)は、「Roof Decorarion」の写真パネル、そして、右写真のパネル(③)には、「KHMER HOUSES IN 18-19 CENTURY」(18世紀から19世紀のクメール家屋)について、以下のように記されていました。
アンコール朝時代の木造の家屋は、今は残っていませんが、その様式や知識は今に伝えられています。それは、クメール文化が世代を超えて過去から受け継がれてきたためです。18世紀から19世紀に建てられた寺院では、僧坊や宿坊の壁に古い時代の絵が描かれていて、そこには住まいの絵もあります。それをみると当時の建物が、今の住まいとあまり違っていないことに気づきます。このことから、現在のクメール家屋の様式は古い時代の様式が伝えられてきたことがわかります。近代の例外として、地面に直接に建てられたビラやアパートなどの外国の建築様式が出てきています(試訳)。
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左写真は、家屋の東側に広がる菜園です(2012年12月撮影)。この菜園では、地元の野菜に代えて、現在は輸入に頼っているレタス、カリフラワー、ニンジン、バジル、トマトなどの野菜を栽培する試みが行われているそうです(参照:http://autoriteapsara.org/pdfdoc/khmerhabitatcenter.pdf)。果樹や野菜の苗などを育てるためのポットが、たくさん置かれていました(右写真)。
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野菜栽培に関する試みは、隣接するロハール村の農家でも、2013年3月当時、「Home Vegetable Garden Demo Plot」(屋敷内の野菜畑に関する試み)(①)として始まっていました。その様子は、すでに「ロハール村の野菜作り」として掲載しましたが、今回その中から、6枚の写真を再掲載しました(2013年3月撮影)。 この野菜畑には、手前からナス、トウガラシ、トマト、空芯菜、そして丈の高いゴウヤが、畔ごとに栽培されています(②)。そして、トマトはこの時青い実をつけていました(③)。池の縁には、ペットボトルの鉢を吊るして、サラダ菜やナスなどの苗が育てられていました。*ロハール村情報/位置:アンコールワットから約4㎞北東、バンテアイ・クディの北側。西はタ・プロムに接し、東は北スラスラン村と接している。
一般に、野菜栽培に適しているのは乾季の始まりのころで、乾季も終わりころになると、乾燥して栽培が難しくなり、一方、雨季は、スコールなどで野菜が腐ってしまうことが多く、栽培は難しいそうです。

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2013年12月には、ロハール村で「Promote Intergrated Farming to Adapt to Climate Change」と書かれたポスターを目にしました 。「気候変動に適応する総合的農業の促進」を謳ったこのポスターからは、カンボジアの村の人々の目指そうとする暮らし方が見えてきます。

「KHMER HABITAT INTERPRETATION CENTER」は、観光客にとっては、伝統的なクメール家屋と暮らし方を見せてくれる一方で、村の人たちには、伝統的な暮らしに基づいた、環境に適応した効率的な暮らし方の方向性を示す役割も担っているのだと思います。それは、ホテルやレストランに提供できるような野菜作りのプロジェクトや、ポスターに見るような、太陽光パネルや風力発電を活用した自立した農村の姿を示しています。

写真/文 山本質素、中島とみ子

生活のレリーフ

バイヨン寺院の第一回廊には、戦に向かう兵士や凱旋する兵士、トンレサップ湖での水上戦などとともに、アンコールトムで生活していた人々を描いたレリーフも残されています。総面積900haのアンコールトム城内には、12世紀から15世紀にかけて、約10万の人々が暮らしていたとされます。今回は、刻まれたレリーフから、アンコール朝期の人々の暮らしに、思いを馳せていきます。CIMG1926集会・鳥を抱えてえいる・闘鶏用の鶏

まず、壁面の最上段のレリーフから見ていきましょう。左側には眠ている男性、中ほどには、男性たちが食事をしているところへ、運んできた食事を器から移している様子などが彫られていました(左写真)。右写真のレリーフには、集まってなにやら相談をしているようですが、彫られているのは女性たちのようにも見えます。柱の模様や屋根の上の飾りなどから、アンコールトムの建物内を描いたものなのでしょう。
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左写真の建物は、宮殿のように見えます。畏まって控えているクメール人たちを前にして、中央に坐っている人は王様で、後ろの冠を載せた女性は王妃かもしれません(左写真)。右写真も、左写真と同じような構図ですが、彼らの髪型(後ろで束ねている)やあごひげを蓄えた姿から、このレリーフの人たちは中国系のようです。彼らは大事そうに鶏を抱えているので、この場面は、闘鶏を行うにあたって、偉い人に挨拶をしているところのようです。ちなみに、中国南斉の歴史書「南斉書(帝高の建元元年(479年)から和帝の中興2年(520年)までの歴史)」に、中国では闘鶏が盛んだったことが記されているそうです(参照:http://www.uraken.net/rekishi/reki-tonan02b.html)。
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左写真は、闘鶏の場面を描いたレリーフです。左側にいるクメール人たちに向かって、身を乗り出している人たちは中国系らしく、後ろで壺を持った人は胴元のようです。賭けに熱狂している人々の様子が伝わってきます。アンコール朝時代から現在までカンボジアの人々の楽しみとして受け継がれてきた闘鶏ですが、2009年には、フン=セン首相が、賭博のための闘鶏は禁じるが、闘鶏本来の目的は鶏の品質向上にあるとして、闘鶏自体は禁じないと演説したそうです(参照:http://cambodiawatch.net/cwnews/shakai/20090401.php)。アンコール朝時代には、闘鶏とともに、 闘犬もおこなわれていたようです(右写真)。現在のカンボジアで行われているのは闘鶏だけです。
CIMG1944 CIMG1951闘犬(今はない)

王宮でチェスに興じる人々のレリーフもありました。カンボジアのチェス(Ouk Chatrang)は、駒の動きや配置がマークルックと全く同じで、元は一つのゲームだったと考えられています。そのマークルックは、日本の将棋やヨーロッパのチェスと同様に、古代インドのチャトランガを起源としています(参照:ウィキペディア)。
CIMG1953将棋を指している場面

一続きのレリーフを、2枚の写真として示しました。左写真には、酒を飲んで踊る人たちがいます。右写真には、賑やかに料理をする人たちがいます。カマドに載せた鍋で料理が作られていきます。中央の大きな鍋では猪豚が茹でられているようです。左側の小さいカマドでも、調理をしています。
CIMG1929酒を飲んで踊る人々 CIMG1928調理中・魚を焼いて串にさしている

左写真は、「KHMER HABITAT INTERPRETATION CENTER」(クメール時代の家屋構造などをパネルで展示説明しているセンター)のもので、マーケットと説明がありました。バイヨンの壁画で撮影した右写真のレリーフは、マーケット(市場)の様子を描いているレリーフです。髪を束ねた福耳のクメール女性が、マーケットの中で働いています。このレリーフは、クメール時代の市場の建物のようです。
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下の写真のレリーフに見える建物もマーケットのようです。マーケットの中には3人の女性が見えます。後ろの2人は、売る品物を並べているのでしょう。手前の女性は、昼寝をしているようにみえます。その右側で、男性が酒を飲んでいます。左側では、荷物を手渡している男性がいます。現代のプサールーマーケットやオールドマーケットでも、働いている大多数は女性でした。
CIMG1945 (2)CIMG1946 (2)

以下の写真も、「KHMER HABITAT INTERPRETATION CENTER」に掲示してあるもので、①は中央に王様が座っているRedidence of a Mandarin(王宮)、②は出産シーンが描かれたMedical Clinic(医院)、③はGuest House(ゲストハウス)です。
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ゲストハウスの中を描いたレリーフがあります。ゲストハウスの中では、3人のクメール人が壁や荷物に寄りかかって眠っています。外には、天秤棒に荷物を振り分けて持っている人や、日本の飛脚のように肩に担いでいる男性が描かれています(左側)。そして、右側では、女性たちが魚を調理しています。
CIMG1942

荷物を運んでいるところを描いたレリーフはいくつか見られました。左写真のレリーフでは、荷物を2人の男性が天秤棒で担いでいます。重そうなので酒が入っているのかもしれません。右写真のレリーフにも、天秤棒の先に荷物をつけて運んでいる男性が見えます。その横には、2人の女性が鶏に水を飲ませている?場面も描かれていました。
CIMG1935 - コピー CIMG1950

左写真のレリーフは、トンレサップ湖で投網をしているところで、亀や魚やワニなども彫られています。右写真のレリーフは森の中で、弓矢を持って鹿を狙う人(左)や、猪に追われて木の上に逃げている人が彫られています。
CIMG1949投網 CIMG1938猿・猪(ブタ?)

このレリーフは、戦争の勝利を祝う凱旋パーティの準備をしているところだそうです。大勢の人たちがいくつもの器を盆にのせて運んでいきます。男性に交じって女性たちの姿も見られます。
CIMG1958CIMG1959右から食事を作り運んでいる場面

真ん中に見える女性は、ご飯を炊いているようです。
CIMG19601

家の中で食事をする夫婦や、家の外で魚を焼いている夫婦などが彫られたレリーフもありました。中ほどの魚を焼いている右側の女性は、長い髪を後ろ下ろしているので、若い夫婦のようです。
CIMG1939食事

バイヨン寺院に残るこれらのレリーフは、ポルポト政権下でそれまでの歴史と文化の多くを失ってしまったカンボジアの人々にとって、現在まで残された数少ない生活文化の記憶なのです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

バイヨンの僧房

バイヨンの南西方向に、大きな仏像が見えました。太い柱で屋根がかけられた大仏の前には、大小いくつもの仏像が置かれていました。ここで占いをしてくれるのだそうです。この時も、1人の僧侶が、若い男女を前に占いをしていました。僧侶の左側には、白い服を着た男性が座っていました。CIMG1974占いと●で寺を運営

僧侶からの話を聞いている男性の横にカメラが置いてあったので、この2人は、カンボジア国内から観光に訪れた人たちのようです(左写真)。ナーガを背負い、ナーガの台座に坐る金色の仏像も見えました(右写真)。
CIMG1973占いをしてもらっている CIMG1974占いと●で寺を運営 - コピー

傍に停まっていたトゥクトゥクは、2人を乗せてきたのでしょうか(左写真)。占いの収入は、僧坊の運営費に充てられているそうです。僧坊は大仏の後ろの方角にありました。右写真が僧房です。CIMG19721バイロンの横に大仏 CIMG1977寺の本堂

僧坊の左の床下に太鼓が見えました。僧坊では、この太鼓を叩いて、昼食の時間を知らせます。そして、木に吊るされた、乗用車のホイールのようなものを叩いて、僧侶による講義の開始を知らせるなどしているそうです(下左写真)。また、僧坊の階段は、聖水をかけてもらう場所になっていて(上右写真)、階段の横には水を入れる甕やバケツなどが置かれていました(下右写真)。
CIMG1992学校によくある授業時間の開始と終わりを知らせる金物 CIMG1989本堂右・聖水を受ける場所

写真は、僧坊の裏側です。
CIMG1997本堂裏

左写真が僧坊の内部です。正面の左側の黄色い布がかかっている場所が本堂で、右側が厨房などになっています。10時50分ごろの厨房では、僧侶や僧坊で手伝いをする人たちが昼食をとっていました。立っている女性は、食事の世話をしているようでした(右写真)。
CIMG1981 CIMG1982正面が本尊・右が厨房

僧坊の裏の井戸では、2人の女性が洗い物をしていました(左写真)。髪の毛を剃った彼女たちは、僧坊の手伝いをしながらここで暮らしているようです(左写真)。右写真の小屋は、宿坊になっているのでしょうか。
CIMG1986僧の食事を作る女性たち CIMG1987僧の住まい

僧坊からバイヨンを右に見て進むと、左側の脇道の奥に、石の祠のようなものが立っていました。近づくと、プリア・コー(ロリュオス遺跡)などで見られたカーラが彫られたリンテル(まぐさ石)で飾った墓(Tombe)でした。これは1916年に亡くなったフランス人兵士の墓で、ガイドさんの話によると、フランスによる占領当時、遺跡を護るためにフランス兵がカンボジア人を雇っていたそうですが、給料に関するトラブルのために、このフランス人兵士が殺されてしまったそうです。
CIMG1998フランス占領当時遺跡を守護する兵隊が雇った住民に給料を払えずに殺された CIMG1999フランス人兵士の墓1916カンボジア人はフランス嫌い

バイヨンに向かって建つ仏像殿もありました。仏像の前には、寄付金箱が3つ並んでいました(右写真)。
CIMG2000バイヨンに向かう仏像殿 CIMG2002

バイヨン遺跡の南西の林の中に、バイヨンの僧房はありました。カンボジアでは一般に、寺院の周りを囲むようにして村がありますが、現在のアンコール・トムの城内に村はありません。観光客からの寄付金や、占いなどで、僧坊は運営されているようです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

アンコール朝とバライ

アンコール王朝において、治水は王の最優先政策とされていました。今回は、JICA(国際協力事業団)が1996年から1998年にかけて行った地形図作成事業によって明らかになったアンコール地域の地形図を参照しながら、アンコール朝に開堀されたバライ(人工池)と川について、これまで撮影した写真とともに見ていきます。地形図は、『アンコール帝国・興隆衰亡の自然地理的背景ーJICA地形図判読による新知見ー』(http://angkorvat.jp/doc/tch/ang-tch0622.pdf)掲載のものを画像化させていただきました。
はじめの図(図‐2)は、シェムリアップ扇状地における弧状等高線を表した図です。北から東に描かれている、50mの太い等高線部分はクーレーン山麓で、その中ほどから流れ下るのがシェムリアップ川です。シェムリアップ川が40m等高線と交わる辺りに、C、ラージェンドラバルマン1世(944~968)が建設した分水堰があります。西への流れはOU Phaat川になり、シェムリアップ川は南へ流れ下ります。南下したシェムリアップ川は、東バライの土手に沿って西へ流れ、アンコール・トム(図の中の正方形)の東側を南下します。アンコール・トムの東の長方形が東バライ、西の長方形が西バライです。東バライ、西バライともに、扇状地の傾斜を利用して造られているのがわかります。東バライの東側を南北に流れているのが、ロリュオス川です。

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アンコール朝の歴史は、アンコール朝初の王ジャヤヴァルマン2世が、9世紀初頭(802)に、聖地とされていたクーレーン山の頂上で、即位の儀式を行った時から始まります。クーレーン山から湧き出て水はロリュオス川となり、アンコール朝最初の王都(ハリハラーヤ)を潤しました。ハリハラーヤの造営を行ったのは3代目の王インドラヴァルマン1世(877~889)で、彼は、プリヤ・コー(879)やバコン(881)を建立し、アンコール朝初の人工貯水池(バライ)インドラタターカ(東西3.2km南北0.7km、貯水量1000 万㎥)の開堀をおこないました。ロリュオス川の水は、インドラタターカの北東隅から注ぎ込み、プリヤ・コーやバコンを囲む環濠を流れ、やがて近隣の稲田を潤していきました。
写真は、現在の国道6号線の南に残るプリヤ・コー遺跡(①)、そしてバコン遺跡(②)とその環濠(③)です。
DSC07716DSC07802DSC07735

インドラヴァルマン1世の死後、王位継承の内紛でハリハラーヤが破壊されたため、4代目の王を継承したヤショヴァルマン1世(889~910頃)は、新都ヤショダラプラをアンコールの地に造営します。その一方で、インドラタターカの中心にロレイ祠堂を建立し、4つの祠堂の真ん中に立てたリンガの上から水を流して雨乞いを行なっていたと言われています。インドラタターカは、季節河川であるロリュオス川を水源としていたために、乾季には水量が少なくなり、やがて水が涸れてしまいます。写真④はインドラカタータの中に造られた小島の船着場跡、⑤は小島の上に建てられたロレイ祠堂です。小島の上から臨むと、水田が広がっている様子が見えました(写真⑥の左奥)。
DSC07913-300x225[1]DSC07923元は赤レンガの上に白漆喰DSC080121[1]

図は、9-10世紀のアンコール地域(図-6)と、11世紀のアンコール地域(図‐7)です(http://angkorvat.jp/doc/tch/ang-tch0622.pdf)。9世紀から10世紀のアンコール地域には、東バライが書き込まれています。シェムリアップ川がアンコールトムと東バライの間を南流するようになったのは後世のことと推定されています。

6-7-8

東バライは、4代目の王ヤショヴァルマン1世(889~910頃)によって開かれ、初期にはヤショダラタターカと呼ばれました。東バライは、北のクーレーン丘陵から流れるシェムリアップ川の水を利用する方式を取り入れました。東西7,150m、南北1,740mの規模を持ち、約5,000万㎥の水を保持していたそうです。その中央に建つ東メボンは、9代目の王ラージェンドラヴァルマン1世(治世944-969)が952年に創建した寺院で、ヒンドゥー教の神が住む須弥山を囲む天地創造の海を表す、象徴的な役割を担っていたとされます(写真⑦)。東バライも、時を経て水が涸れてしまいましたが、現在のバライの中には、水田が広がり(写真⑧)、プラダック村もできています(写真⑨)。
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11世紀のアンコール地域の図(上記の図-7)では、東バライが拡張され、西バライも開堀されています。西バライの開掘は、13代王スールヤヴァルマン1世(1011~1050)によって始まり、14代王ウダヤディティヤヴァルマン2世(1050~1066)の時代に完成します。西バライ(東西8km、南北2.2km)は、アンコール朝を通じて最も大きな人造池で、ウダヤディティヤバルマン2世が築いた西メボン(人口の島)には、バライの水位を測る機能が持たされていました。そして、彼の建てた西メボン寺院址からは、ブロンズ製の優美な<横たわるヴィシュヌ>神像が発見されているそうです。写真⑩は西バライの南西隅、⑪の写真には遠くに西メボンの島が見えています。写真⑫は西バライの北東隅の様子です。
DSC03055-1024x768[1]DSC07910-コピー-300x225[1]DSC01765

また、クーレーン山に残るクバルスピアン遺跡の創建者もウダヤディティヤバルマン2世と言われています。川底には、横たわるヴィシュヌ神像が何体も彫られていました。西バライには、クバルスピアンのあるクーレーン山を源流とするシェムリアップ川の水が流れ込んでいます。
CIMG2395到着 CIMG2395到着 - コピー CIMG2399盗まれた上半身修復後

12世紀のアンコール地域の地図(図-9)をみると、ロリュオス川から西へ、アンコールトムの南環濠にのびる運河(幅約30~40m)の跡が記載されています。アンコールトムは、21代王ジャヤヴァルマン7世(1181~1220頃)治世に建設されましたが、その建設資材は、運河を通じて運ばれたようです。この運河が、バンテアイ・クデイの少し西で分岐しているのは、それ以前のアンコール・ワットの建設にも、この運河が使われたと考えられることから、アンコール・ワット建設時、つまり18代王スールヤヴァルマン2世(1113~1150頃)の治世時に開削された可能性も指摘されています(参照:http://angkorvat.jp/doc/tch/ang-tch0622.pdf

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アンコール地方の水利システムの特徴は、シェムリアップ扇状地の地形を利用した巨大なバライ(人工池)の開削に求めることができるでしょう。10世紀初めに東バライが造られて以降、11世紀から12世紀にかけて国内の至るところにバライが造られていきました。ところが13世紀に入ると、水利システムは、河川に橋を架けるダム方式に変わっていったようです(参照:クメール方式貯水池の歴史展開 ジャック・デュマルセイ)。そして、アンコール王朝は、アンコール・トムを建設したジャヤヴァルマン7世(11811220頃)の治世に最盛期を迎えます。

写真/文 山本質素、中島とみ子