カンボジア文化村には、民族村の展示もありました(案内板⑲~㉙)。1972年当時のカンボジアは、クメール人が86%、ベトナム人が5%、華人が5%で、その他の4%がチャム族などの少数民族でした。左写真として掲載した地図は、1972年当時の民族分布地図で、薄いベージュ色がKhmer(Cambodian)、ベージュ色はKhmer Loeu(Tribal)、そしてオレンジ色はVientnamese、 緑色はCham、薄緑色はMountain Cham、茶色はLaoと色分けされています(参照:ウィキペディア)。ベトナム人の多くは、トンレサップ湖の北部と西部に居住し、そして、クマエ・ルゥ(部族) の多くが、カンボジア東部の山岳地帯に居住していることがわかります。右写真として、カンボジアの行政区分図も、ウィキペディアから引用掲載しておきました。
⑲Phnorng Village(プノン族の村)から見ていきます。
プノン族は、少数民族(Khmer Loeu(クマエ・ルゥ))のひとつで、カンボジア東部のモンドルキリ州に住んでいます(写真1)。「山に出会う」という意味を持つモンドルキリには、標高800mの山々が連なっています。10以上の山岳民族が居住するモンドキリ州ですが、そのうちの80%近くをプノン族が占めています。写真2、3は、⑥博物館の蝋人形エリアに展示してあったプノン族の親子と伝統的住居です。 「プノン」とは「小高い丘の人々」を意味し、彼らは、オーストロアジア語族のモン・クメール語派の言語を話し、焼畑や狩猟などを生業としています(参照: ウィキペディア)。
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左写真は、プノン村展示の入口です。入口の門と道には、水牛の頭を象ったものが掛かり、周りには竹林がつくられていました(左写真)。プノン村のエリアに入ると、竹で編んだ壁面と草ぶきの屋根を持つ家屋が建てられていました(右写真)。一般に、少数民族の言語では、家を「チョン」と呼び、柱が2列に並ぶ家は「チョン(=家)・チャイ(=大きな)」で、柱が1列に並ぶ「チョン(=家)・チューン(=小さな)」と呼ぶそうです(参照:http://angkorvat.jp/doc/cul/ang-cul28010.pdf) 。プノン族の暮す伝統的な家屋は、2列の柱列の間に土間と囲炉裏があり、柱列の脇には人が座れる高さに床が作られています。そして、柱列の上には中二階が設けられ、米倉と収蔵スペースになっています。
家のそばに竹があるのは、プノン族の生活に欠かせないものだからでしょう。展示されていた井戸の周りにも竹が植えられていました(左写真)。住居の戸にも水牛の顔が描かれていました。プノン族の人たちは、水牛を使って、さつまいもやとうもろこし、キャッサバを栽培し、また狩猟や、野生の象を生け捕りにして飼育もしています。彼らはヤングと呼ばれる精霊を信仰し、特に稲の精霊、象の精霊を崇めているそうです(参照:http://www.ciesf.org/report/20100319post-135.html)右写真のイスは、族長(あるいは呪術者)の座る場所をイメージしているのでしょう。
㉔Kroeung Village(クルーン村)は、モンドルキリ州の北に隣接するラタナキリ州にあります(写真1)。 カンボジア国内で高地クメール族に分類される民族は20ほどですが、そのうち15民族が北東部高原地帯に集中しています。民族は、それぞれが用いる言葉で分類されますが、言語学上ではいずれもインドシナ半島に広く分布するモン・クメール語族に属し、伝統的に焼畑や狩猟などを生業とし、精霊信仰や食文化、工芸など様々な生活習慣を共有しています(参照:http://www.ciesf.org/report/20100319post-135.html)。
写真2は、⑥博物館の蝋人形エリアに展示してあったクルーン族の男女です。そして写真3は、「山に息づく 少数民族の暮らし カンボジア北東部 高地クメール族」に掲載されていた写真で、ヤッロォム湖やカチャン滝などの行楽地にこうした「花婿の家(左)」と「花嫁の家(右)」が復元されているそうです。花婿の家は、高さ3~4mにもなる小屋で、こうした高い場所に住むのは、婚期の男性が、自らが強く勇敢であることを未婚女性たちに示すという風習によるもので、最近でもクルーン族のアイデンティティとして、時々建造されるそうです。(http://krorma.com/magazine/f1_37_khmerleu/5/)
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クルーン村の展示場所も竹林で囲まれていました。クルーン族の伝統的な家屋は、壁面や床が竹で編まれていて、そのきれいな幾何学模様が特徴とされます(右写真)。竹で編んだ壁や床は、風通しがよく、強度にも優れているそうです。
訪れた時、クルーン村の中庭では、若い男女がショーの練習をしている最中でした。右写真は、クルーン村の入り口付近に立っていたショーの案内板です。ショーの時間になると、クルーン族の衣装を着けた彼らのショーが見られるのでしょう。
㉖Phnom Yatは、バイリン地方のKola Village( コラー村)にあります。パイリンは、カンボジア西部、タイとの国境付近に位置しています(写真1)。バイリン地方を(写真2)の民族分布図に重ねると、KhmerとKhmer Loeu(クマエ・ルゥ)の居住域にあたり、コラーは、クマエ・ルゥの部族の1つのようです。
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左写真は、コラー村展示の入口です。左奥に洞窟、中央奥に高い建物が見えました。コラー族は、ミャンマーの少数民族で、1876年からカンボジアのバイリン地方に住むようになりました。バイリン地方は宝石の産地なので、入り口に「TUNNEL OF TRESURE」(宝物の洞窟)が造られているのでしょう(右写真)。1979年にベトナムがカンボジアに侵攻した際には、バイリンは、クメール・ルージュの重要な拠点となり、彼らによって宝石のほとんどが掘られてしまったそうです。
奥に見えた建物は、1922年に建てられたというPhnom Yat(プノン ヤット)のレプリカでした(左写真)。Phnom Yatが建てられた由来については、多くの物語が残されてます。
ある伝説によれば、狩人たちがジャングルで、動物を狩っているときに、この場所で魔法使いに出逢いました。 魔法使いは「Yiey Yat Yat」(またはおばあさん)と呼ばれていました、彼女は、彼らに動物を殺さないように警告しました。彼らが狩りをやめると、奇跡が起きました。狩人がジャングルに行くと、Yat山からの流れのそばでカワウソが遊んでいました。そして、カワウソが口を開けると、口の中には貴重な宝石がありました。動物を殺さない報酬として、魔法使いが与えてくれたのです。そこで、彼らは塔を建てました。 後になって、Yatおばあさんを祀るために社が建てられました。 人々は、Yiey Yat Yatに、痛いところを治してもらおうとPhnom Yatに来ます。Phnom Yatには魔法のカワウソの彫像もあるそうです。(参照:http://www.cambodiasite.nl/pailinphnomyateng.htm)
㉗Chinese Village(中国村)。中国の人たちは、華人や華僑として世界中にその居住地を広げています。
右写真は、カンボジアで暮らす華人・華僑の人たちの家屋として展示されていました。シェムリアップ周辺の村々でも、このような飾りのついた家屋を見かけることがあります。カンボジアでは、土着化した華人と、新しく入ってきた華僑の人たちとが共生関係をつくって経済活動を行っています。また、「カンボジアでは1989年の新政府による対外開放政策の実施や94年8月4日に発布された王国投資法の施行に伴い,中国大陸をはじめ,香港や台湾などの企業や実業家が同国に投資してビジネス展開させるケースが増加している」[柬埔寨潮州会館 2003;華商日報社 2002;柬埔寨中国商会編 2000](参照:http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Periodicals/Ajia/pdf/2004_08/03.pdf)、という記事に見るように、カンボジアへの投資ビジネスも盛んに行われているようです。
下写真の仏教寺院の入り口を護っている狛犬は、カンボジアのシンハとは少し異なっていました。中国における仏教について、大まかにまとめてみました(参照:ウィキペディア)。
中国地域への仏教の伝来は1世紀頃と推定され、紀元3世紀頃より、サンスクリット仏典の漢訳が開始されます。紀元7世紀には、玄奘三蔵(600年 – 664年)が、唐の国禁を破って天竺(インド)へ仏典請来の大旅行を決行し(630年 – 644年)、彼が持ち帰った仏典は太宗の庇護を受けて漢訳が進められて、後世の東アジアの仏教の基盤となりました。
北宋以降、仏教は禅宗と浄土教を中心に盛んでしたが、元・清の時代には王朝がチベット仏教に心酔したこともあり、密教も広まります。儒教と仏教、あるいは道教を含めた三教を融合する主張も見られ、インド起源の仏教が次第に本来のインド的な特色を失い、中国的な宗教へと変貌を遂げて行きました。
第二次世界大戦後、中華人民共和国が成立すると、仏教は国家による弾圧を受けましたが、現在の中国では政府の統制の元にある中国仏教協会を中心とした活動を公認する方向に政策が転換されています。
㉙Cham Village(チャム族の村)。チャム族(チャムぞく、占族、ベトナム語: người Chăm および người Chàm)は、主にカンボジア及びベトナム中南部に居住しています。写真1の分布図によれば、濃い緑色の地域が Cham(チャム族)の居住域で、薄緑がMountaim Cham(チャム系山岳民族)の居住域になっています。写真2は、⑥博物館に展示されていた蝋人形で、足元には占族、KHMER ISLAM(クメールイスラム)と表示されていました。チャム族(占族)は、17世紀にベトナムに滅亡させられたチャンパ王国の国民の末裔で、イスラム教を信仰し、カンボジア人の大半を占めるクメール民族とは言葉も慣習も異なっています。
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チャム族、及びチャム系山岳民族は母系制度を採っていて、家・財産を守るのは女性の役目である。結婚後は、夫が妻方の住居に入る。従って、家督や母系氏族名も王族を始めとして女性の子孫が引き継いでいます。チャム族の村の入口には、立て看板の横にリンガの形が見えました(左写真)。チャム人はリンガを祀っていますが、シヴァの象徴としてではなく、シヴァという神名も知らないまま、王家の祖先の象徴としてそれを祀っているそうです。右写真にも、リンガのような形が見えますが、先端がとがっています。
チャム族の村の中には、モスクが建っていました。チャム族は、クメール民族とは言葉も慣習も異なるため、ポル・ポト時代には、イスラム教の寺院や教典「コーラン」は破壊され、チャム族の半数が殺されたといわれています。<参照:冨山泰『カンボジア戦記』1992 中公新書 p.33-34>http://www.y-history.net/appendix/wh0202-006_1.html
2008年の人口統計によれば、カンボジアの総人口は約1,338万人。その構成はクメール人(カンボジア人)が約9割、残り1割を、約20余りの民族が占めています。ポルポト時代を経たことが、カンボジアの民族構成に与えた影響は少なくないといわれています。この時期は、クメール人だけでなく、少数民族の人たちにとっても、過酷な時代だったのでしょう。
写真/文 山本質素、中島とみ子