北スラスランの家族

北スラスラン村の北側には、見渡す限りの田んぼが広がっています。その北方向200~300m先に、東バライが造られた当時の南側土手が見えています(左写真)。東バライの南土手の西隅から、環濠のような大きな堀が田の中を南東に通っています。かつて東バライからの水がこの堀によって北スラスランの田に運ばれてきていたのでしょう。東バライが涸れた現在でも、雨季には雨水がその堀を満たし流れてきます。右写真は12月に撮影したので、水はほとんどありませんでした(撮影2012年12月)。*東バライ情報/ 位置:アンコールワット東門から東バライの南西角まで直線距離で約4㎞ / ヤショヴァルマン1世の統治時代(900年頃)に造られる。東西7,150m、南北1,740m。
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広大な田の東方向に目を転じると、木々に混じってプレループの塔が小さく見えました(左写真)。撮影した場所からプレループの塔まで、約2km離れています。望遠で撮影したプレループの写真をさらに拡大して、右写真として掲載しました。北スラスランの北から北東に広がるこれらの田は、北スラスランはじめいくつかの村の人々が耕しているようです(撮影2012年12月)。*プレループ遺跡情報/ 位置:アンコールワットから約6㎞北東。/建立:ラージェンドラヴァルマン(944~968)が961年にプレループを中心に都城を造営。
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以下に、北スラスラン村の中を北から南へ通る道沿いで会えた、「北スラスラン村の家族」を紹介していきます。

**ヤシの葉で編んだ家屋の家族**
大きなヤシの葉の壁面を持つ高床式家屋がありました。壁面の一部が取り外された2階には、女性の姿と下がっている電球が見えました。ヤシの葉で編まれた壁面は、綱がついていて、夜や、雨が降り始めた時には引き上げるのでしょう。2階にいた女性が階段のところまで降りてきてくれました。1階の柱の後ろには夫らしい男性の姿も見えました。
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左写真の若者は、彼女の息子です。敷地内に建つ別の家屋には、彼女の娘さんと孫が暮らしているようでした(右写真)。
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少し南で、木陰にハンモックを吊るして子どもの昼寝を見守っている母親らしい女性がいました。左写真の左隅の建物が住居のようで、中央のヤシの葉で囲まれた小屋は穀物小屋でしょう。その奥から、農作業用に飼われている白い牛がこちらを見ていました。
北スラスラン村の北側には、広大な田の近くで農業を生業として暮らす家族の姿がありました。
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★★離れて暮らす家族★★
北スラスラン村の中を南へ歩いていると、シェムリアップで日本語ガイドをしているという男性(Gさん)に出合いました。Gさんはこの日、北スラスラン村で暮らす母親を見舞うために、シェムリアップで暮らしている姉の家族と連れ立って、北スラスラン村に帰ってきていました。彼に案内されて、母親が暮す家に立ち寄らせてもらいました。
屋敷内に3棟の建物が見えました(写真2枚)。左の赤い屋根の2階建て建物は、Gさんのお姉さん家族がシェムリアップに移る前に暮らしていた住居、右の高床式の建物がお母さんの住居になっていました。その間に炊事小屋があり、黄色い服を着た子どもが階段に腰かけて、高床式家屋の1階に坐っている母親(Gさんの姉)と楽しそうにおしゃべりをしていました。
CIMG5914奥は姉たちが住んでいた住まい CIMG5881

左写真は、上左写真のお姉さん家族が7年前まで住んでいた家の入口付近です。閉じられた窓や入り口の上に、蓮の飾りが付いていました。「コックベイ地区北スラスラン**番地」と住所表記も残されたままでした。
CIMG5905姉は7年前までここに住まい CIMG5901

高床式家屋の2階は、大きなすだれを掛けて日差しを遮り、風通しを良くしていました。すだれは200~300ドルで購入したそうです(左写真)。1階の柱には、2か月前に設置したという衛星放送のパラボナアンテナ(200ドル)がありました(右写真)。
ネアクタ(小祠)は5~7年前に建て替えた際に、占い師の助言により、福を呼び込むという意味(中国系の考え方)で、階段の先に移したそうです(価格は200~300ドルくらい)。一般にネアクタは、家を建てる時、土地の精霊(ネアクタ)に住みかを移ってもらうために方角が良いとされる北東の隅につくられます。ネアクタという呼び方はサンスクリット語で、Gさんはポップンムと呼んでいました。
CIMG5910すだれ200~300ドル CIMG5918付けたのは2か月前 CIMG5879ポプーム(ポップは神様、プーム=ポンは村→土地の神様)

高床式家屋の屋根から雨どいを流れ落ちた雨水が、樋を伝って大きな甕の中に溜るようになっていました(左写真)。炊事小屋の入口の横には、チョークで、fruits,orange,Apple という英単語が書きつけてありました。孫娘が学校で習った言葉を書いたものでしょうか。

CIMG5883北スラスラン雨水をためる樋と水瓶 CIMG5915姉の娘たち

井戸水を汲む母親の姿が見えました(左写真)。母親が洗い物や洗濯をするときに、日差しを遮るようにとパラソルが置かれているようです。母親と離れて暮らすGさんとお姉さん家族の母親への気遣いが、屋敷内のあちらこちらに感じられました。右写真の青い箱には、母親の家を含む周辺の4軒の家の電気メーターが入っていました、電気は村の中にある発電所(電気屋)から引いています。料金は1ワットに付き1ドルです。
CIMG5898母親井戸 CIMG5895

★★電気屋さんの発電所★★
ロハール村や北スラスラン村に引かれている電気は、北スラスラン村にある電気屋さん(発電所)から送られています。2013年3月に電気屋さんを訪れた時の写真4枚を再掲しました。左から、①屋敷入口にあるヤシの葉で葺いた建物、②発電機が入っている青い箱から、配電盤を通して、電線で村の中に電気が運ばれています。燃料はジーゼル、手前のドラム缶には軽油が入っています。③屋敷内で営んでいる店に、主人夫婦とその家族などが集まっていました。左隅の若者は従業員のようでした。④息子さんが学校の先生をしているので、机とイスが並んでいるこの場所でボランティアの学校を開いているとのことでした。
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2015年9月に訪れると、入口にあったヤシの葉で葺いた小屋の屋根がトタン葺に変わっていました(左写真)。青い発電機は、「Supper Silent」と書かれた黄色の外観の発電機に変わっていました(右写真)。
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店の奥にあったボランティアの学校は、取り壊されていました。「教員をしていた息子が転勤したので、かたずけました」という場所は、住居スペースが増やされていました。
発電所は定年後に始めたもので、料金1キロワット1ドルの受け取りと帳簿付けは妻が、1人いる従業員はメーターの取り付けなどをしています。「売り上げの7割は社会のために使う」という父の教えに従って、慈善事業への寄付もしているそうです
店の壁には、出身地(ドンム・レイロ地区)への寄付により表彰された写真が飾ってありました。電気屋さんは40キロ離れた同地区のドン・ベック村で生まれたそうです。
CIMG5966 CIMG5971料金1キロワット1ドルの受け取りと帳簿付けは妻がやる

★★長寿の祝い★★
2015年9月、11時半頃、市場西側の通り近くの家で「長寿の祝い」が行われていました。音楽が鳴り、たくさんの人々が料理の準備をしていました。料理は、村の人たちや専門のコックさんに頼んでいるようでした。
CIMG6087北スラスラン長寿祭り CIMG6101

招待客は、親戚家族(左写真)、長寿を祝われる当人の友人たち(多くは村の高齢者)(右写真)などでした。
カンボジアには家族の長寿を祝う慣習があります。長寿の祝いは、50歳を超えた人が、さらなる長寿を祈って、親戚・友人や隣近所の人を招いて祝ってもらう、家族ごとの行事です。料理を作る手伝いに多数の人手が必要なので、結婚式と同様に村のチューイ・クニア(手伝いあい)を頼みます。内戦が終わって約30年、村の年長者は、家族とともに暮らす中で伝統的な慣習を伝える役割を担っているようです。
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北スラスラン村は、アンコール朝期に造営された東バライと人造池スラスランの間に位置しています。現在は、スラスランの北辺を通る観光道路沿いの北スラスラン地内に、多くの観光客用のレストランが建ち(左写真)、また市場もつくられています(右写真)。
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北スラスラン村を概観すると、北側に農家が多く、村の中心には発電所のような事業を行う家があり、南には村の人が経営するレストランや市場があります。 シェムリアップ市街地から約12㎞の位置にある北スラスラン村では、子どもたち夫婦がシェムリアップ市街地で暮らす家族もあり、農村から都市部への人口の移動が始まっているようでした。屋敷内に一緒に暮らしてきた農業を生業とする大家族の形は、流動的に変わっていくのでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子

コースノール集落の家族

2013年12月に「幸福に関するアンケート」を実施した際、集まってくれたコースノール集落の人々の中に若い人たちの姿が多く見られました。その理由は、集落の成り立ちにありました。
ポルポト政権後、政府は地方行政を再編し村の中にグループをつくりました。ロハール村は、グループが編成された1979年当初の集落は、ロハール村内に、ロハール(本村)、タノール、ロンタオの3つでしたが、結婚する子供たちが増えて、1981年頃から、ロハール村の西に位置するコースノール(コック・スノール)に、新しく家を作って移り住むようになりました。そして、1987年頃から家数が増えたコースノールも、新たにグループがつくられました。この場所は、周囲より少し高くなっている小高い土地「コック(島)」に、「スノール(木の名前)」が生えていたことから、コースノール(コック・スノール)と呼ばれていたので、コースノール集落となりました。
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2015年12月に、コースノール集落で暮らす2人の女性に暮らし方などについて話を聞くことができました。1人はツレイリアさん(20歳、女性)、もう1人は、ツレイリアさんの叔母(お母さんの妹)のリーさん(36歳、女性)です。

★★土産物洋服の販売員 ツレイリアさん(20歳、女性)★★
ツレイリアさんのお母さん(40歳)はアンコール・トム郡のスワイ・チェイ村出身ですが、ロハール村出身のお父さんと結婚し、コースノール集落に家を建てて住み始めました。コースノール集落で生まれたツレイリアさんは、村に建築労働の仕事で来ていた夫と知り合い、2年前に結婚、現在8ヶ月の娘さんがいます。ツレイリアさんは、タプローム遺跡の東塔門前で土産(洋服)の販売員として働いています(給料は歩合制で1日5ドルくらい)。夫(24歳)は、トンレサップ方面のチュリオ村出身で、今は、建築労働者としてシェムリアップ市内に自転車で働きに通っています(1日5ドル)。彼女の家族は、母(40歳)と父、妹2人(13歳と8歳)、そして彼女の夫と娘の7人です。
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ツレイリアさんの7人の家族は、高床式家屋の2階で一緒に暮らしています。両親とは家計を別にしていますが、食費は彼女が負担しているとのことでした。1階は物置きなどにしていて、トイレもあります。1階の天井に、扇風機やランプ(蛍光灯)が付けられていました。
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☆ツレイリアさんの生活時間、
1、朝5時半~6時に起きて皿洗いや掃除をして、7人分の朝食を準備し、夫の弁当を作る。
2、8~9時に仕事へ行き、昼食は家へ戻って食べる。午後1時半に再び仕事に行き、4時くらいに帰ってくる。
3、夕食は6時半ころ、夫が帰ってきてから7人全員で食べる。食材はスラスランの市場で買ってくることが多い。
4、就寝前にテレビを見て、午後8時か9時ころに寝る
☆生活費
・食費は1日5ドル、米は1ヶ月75kg購入。
・電化製品は、炊飯器やモニター(DVDなどを入れて見る)。電気代は、1キロワット1ドルで、月20ドルくらいかかる。
・携帯電話を持っているのは、ツレイリアさん夫婦と母。
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朝食は豚肉の炒め物や魚の干物などとご飯。ご飯は、7人家族で、朝食は米0.75kg、昼と夜は米1kgずつを炊く。昼と夜はスープ(酸っぱいスープや普通のスープなど)や野菜(空芯菜)の炒め物など。付近で栽培している野菜などを、村の中で直接に買う。夜は貝類や串焼き(鶏のホルモン)などを市場で買うこともある。
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ツレイリアさんの両親は、一緒に土産物用の小太鼓(スコートゥーイ)を作っています。父が作ったスコーに、ニスを塗ったり、革を張るのが母の仕事です。右写真の機械でスコーの形を削りだしている男性は、ツレイリアさんの夫のようです。普段は、父がこの機械で木を削っています。
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この時、ツレイリアさんのお父さんは庭でスコーの長さに木を切り分けていました。スコーは、1週間で40~50個くらい作り、そのうち20個くらいが売れるそうです(1個3ドル)。オールドマーケットの人たちが、1週間に1度ほど買いに来ています。スコー作りに使う電気は、発電機でまかなっています。屋敷内にはマンゴーの木が2本あり、生活水は家にある井戸水をつかっています。田畑は無いので、農業はしていません。
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ツレイリアさんは、2年前に結婚式を自分の家で行いました。出席者は約400人で40テーブルを用意し、料理別に村のコック10人ほどにお願いしました。材料は自分たちで準備しましたが、コックへの支払いは、テントとセットで1テーブル5ドルなので、40テーブル分の約200ドル。その費用は夫が支払いました。
結婚証明書は結婚してから一週間後に、役所に発行してもらう。地区での発行ならば約15ドル。 郡や州までお願いすれば、それ以上になります。また、国際結婚は証明書の発行が難しいそうです。
写真は、2012年12月のコースノール集落の西南角の田んぼで、大勢の人たちが集まって「結婚式の小屋」を設営していました。ツレイリアさんの結婚式も、こうした小屋を造って行われたのでしょう。
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★★レストランの従業員 リーさん(36歳、女性)★★
アンコール・トム郡のスワイ・チェイ村出身のリーさんは、両親が亡くなっていたので、ロハール村出身の男性と結婚したお姉さん(ツレイリアさんの母)と一緒に、コースノール集落にきました。そして、夫(39歳)と知り合い結婚し、息子が1人います。2006年にお姉さんの屋敷内に土地を借り、村の人に手伝ってもらって(チューイ・クニア=助け合い)で仮の家を造りました。この家を建てる際に、マイクロファイナンスを利用したのでしょうか、ローンがあと3年残っていると話していました。
彼女は、5~6年前からタ・プローム遺跡の横にあるレストランでウェイター(ウエイトレス)として働いています。昼食付きで月45ドル程の給料です。 夫は、朝7時~午後3時まで、太鼓などの民芸品作りの仕事をしています(1日3ドル)。15歳の息子も、今はリーさんと同じレストランで駐車場の案内係として働いています(昼食付きで月40ドル)。この日、彼女の夫と息子さんは、同じ屋敷内に住むリーさんの姉夫婦が作っているスコーに使用する木材を、運んでくる手伝いをしていました(右写真)。
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☆リーさん生活時間
1、朝は4時半~5時に起床する。6時50分に家を出て仕事場に行く。
2、仕事から帰ると掃除や洗濯ものなど家事。夕食は5時に作り始め、6時に食べる。
3、寝るのは午後8時くらい
☆生活費
・食費は、1日5ドルくらい。米は、1日2kg (0.5ドルくらい)を、毎朝スラスランの市場で購入する。魚や野菜なども買う。市場に行く時間がない時は、近くの店で購入する。
・電化製品はモニターと蛍光灯。お姉さんの家から電線を引いてもらって、電気代も払ってもらっている。
・携帯電話は夫だけが所有している。
・生活水はお姉さんの家の井戸を使う。
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**アプサラ機構**
コースノール集落に新しい家が増えていった1980年代は、自由に家屋をつくることができました。アプサラ機構が1993年にでき、1998年以降にアプサラの規制(家屋の数を増やさない)が厳しくなり、屋根の数を増やさない範囲での家屋の修復・増築はできるが、新しい棟を作ることができなくなりました。
近年、タ・プロムの東塔門前に新たに建てられている土産物売り場やレストランなどは、公共に資する施設として、アプサラの規制の対象からは外れています。

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かつては、村民のほとんどが農業を営んでいたロハール村ですが、コースノール集落は、結婚を機に新たな住居を造って移り住んだ人たちが多く、田畑を持たない人たちも多いようです。観光地化の進展は、土産品の製作や販売などのほかに、アプサラ規制を受けない土産物店やレストランなどで、女性が働いて賃金を得る仕事の機会をつくりだしています。女性が家の外で働くことで、生活の形も変わりつつあるようです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ロハール本村の家族

人造池スラスランの北西隅に立つ案内板には、ロハール村について、「村人はすべて農民で、稲作をしながら土産用として木製のミニチュアドラム、牛車、水車および彫像を作っています。地元の人々は、これらの製品を、いろいろな場所で観光客に直売しています」とありました。以下に、ロハール本村で暮らす家族について、その住まい方を中心に紹介していきます。

★★長老の家族★★
最初にロハール村を訪れた2012年12月、ガイドさんがロハール本村で農業をしている長老の家に案内してくれました。高床式家屋の1階に吊るされたハンモックには、赤ん坊が寝ているようで、覗き込む中年夫婦や傍でミルクを作っている少女が見えました左写真)。私たちが近づくと、ハンモックを覗き込んでいた男性が出てきて応対してくれました(右写真)。

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高床式家屋の奥にある、壁面をヤシの葉で編んだ隠居家(?)から出てきたのが、ロハール村最年長の長老(93歳)です(左写真)。長老の手に握られていた杖の柄には、口を開けたナーガが彫られていて、その眼には赤い木の実がはめ込まれていました(右写真)。長老の手に巻かれていた赤い腕ひもは、「病気にならないように、元気になるように」と願をかけて結ばれたもので、子どもたちの腕にも巻かれていました。
DSC095031 DSC09509杖の竜の目は木の実(=種)

長老が座ると、近所の子どもたちも交じって高床式家屋の一階はにぎやかになりました。カンボジアでは、末娘が親と一緒に住み田畑を相続します。姉たちは、結婚すると屋敷内に家を建ててもらって住み、男の兄弟は結婚すると嫁の家で一緒に暮らすことが一般的です。そこにいる全員の親族関係をたずねる時間がありませんでしたが、長老の93歳という年齢から考えると、左写真中央柱の前に坐っている女性が、長老と一緒に住んでいる末娘か、娘の子どもでしょう。その右に坐っている男性は彼女の夫です。その後ろの女性2人と、左隅の青いシャツを着た少年、長老の左隣りのピンクの服を着た少女たちは、長老の孫あるいはひ孫、そしてハンモックの中の赤ん坊は玄孫になるのかもしれません。
DSC095261 DSC09477稲籾の倉庫

穀物小屋には、12月に刈りいれたばかりの籾殻の付いたコメがいっぱいに入っていました。これらは種籾としても使われるようです。炊事場は高床式住居の横にあり、UNICEF、2006と書かれたポンプもありました。2頭の白牛も飼っていました。電気は、北スラスラン村の電気屋(発電所)から引いていて、雨よけのトタン板でくるまれた電気メーター器が,屋敷内の木に取り付けてありました(右端写真)。
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★★強制移住を経験した女性クームさん (2015年9月)★★
ロハール村には、強制移住を経験した人が多くいます。現在、2人の娘さんと暮らしているクームさん(女性・71歳)もその1人です。彼女は、北スラスラン村生まれで、20歳のときに結婚し、夫の家があるロハール村に来ました。
ロンノル時代は、シェムリアップにいるロンノル軍の兵隊が、反対派が町まで来ないようにするために、ロケットを飛ばしてきました。森や家のそばに穴を掘っておき、ロケットや飛行機が飛んでくる前に警報が鳴るので、子どもを両脇に抱えて逃げ出したり、掘った穴の中で2,3日を過ごしたこともあったそうです。ロケットは毎日飛んでくるわけではないので、田の仕事は通常通りにやっていました。
ポルポトが政権をとると、子ども3人と夫と夫の母とともにチャンソー村へ強制移住させられることになりました。移住する2日前に言われたので、クームさんは妊娠中でしたが、荷車に80歳のおばあさんを乗せ、牛に曳かせてチャンソー村へ行きました。チャンソー村には1か月半ほど居て、その後、プノン・ボックの北側にあるタシュー村に移されました。クームさんは、タシュー村で4人目の子どもを産みましたが、移住先では米も金もなく、仕事も見つかりませんでした。そこで夫が、トタンで箱を作り、コールタールを塗って、水を入れる箱を作り、米と交換したりして、その日の食べ物を得ていました。その後も、何回も住む村を移されました。ポーペイチュロン村では、ポルポトの命令で、夫は田んぼの仕事をし、クームさんは子どもが4人いたので遠くの田の仕事はできず、脱穀などの仕事をしていました。ポルポト時代は辛く、ほとんどおかゆばかりを食べていましたが、米がたくさん収穫できた時には、コメの飯を食べることもありました。

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1979年にポルポト政権が終わったその日の夜のうちに、家族はすぐに、ロハール村に帰りました。
元の住まいは全く残っていませんでしたが、外に野戦病院の木製のベッドが2つうち捨てられていたので、その上にヤシの葉をふいて寝たそうです。自分たちが死んだときには、これで棺を作ろうと夫と話していましたが、2015年1月に夫が亡くなり、そのときにこの木で棺を作ろうと思いましたが、棺にするには時間がかかるといわれ、しかたなく、夫の棺は別の木で作りました。
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★★グループリーダー ソックさん★★
ロハール村の第1グループ(25家族)のグループリーダーを1979年から務めているソックさん(63歳男性)の家を訪ねました。(2015年9月インタビュー)
ポルポト政権が倒れた1978年以降に政府は地方行政を再編し、1979年から、村の中に地域的なグループを作りはじめました。ロハール村の中は、現在は7つのグループに分けられ、ロハール本村に第1から第3グループ、コックスノールに第4、ロンタオに第5、タノールに第6、第7グループがあります。
赤い椅子に坐っている男性がソックさんで、左に坐っている女性が奥さん、後ろの2人は奥さんの姉妹です。ソックさんは、ロハール村から6キロ先のアンポール地区アラ・スワイ村(現在のノコール・トム地区)で(1952年に)生まれました。ポルポト時代には、家族とともにプノン・ボックという山のあたりに強制的に移住させられた経験を持ちます。移住先でロハール村生まれの現在の奥さんと結婚し、ポルポト政権崩壊後(1978年)に奥さんの家があったロハール村に、子ども1人を連れて帰ってきました。家は壊されていましたが、自分で木を伐りだして小さな小屋を作って住みました。
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ソックさんの現在の仕事は農業で、米を作っています。小さな田を合わせて、1ヘクタールから2ヘクタールあり、「(妻の)祖父の代からのもので、土地の(所有/居住)証明書ももらったので、米を作らないともったいない」と、ソックさんは話します。
1985年頃から、暇なときに土産物(おもに牛車のミニチュアや箸)を作っています。息子さんも土産物つくりをしています。牛車のミニチュア作りは、米つくりよりも収入はよいそうで、作ったものは土産物売り屋に売っています。大きいものは、店からの注文を受けて作ります。大きい牛車は、一個160ドルくらいになりますが、作るのに1か月くらいかかるそうです。
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ロハール村には、チューイ・クニア(家を作るときなどの「助け合い」)やプロワスダイ(田植えや稲刈りなどの「手伝い合い」)というしくみがあります。ソックさんは、2000年に家を大きく作り直した際に、村の人にチューイ・クニア(助け合い)を頼んだそうです。作り直した家は、左写真に見るように、入り口階段の中段から炊事場へとつながっていて、使い勝手がよさそうでした。最近では、チューイ・クニアで高床の住まいを高く持ち上げることが多く、頼まれたら助けあうそうです。
ソックさんの奥さんが店を始めたのは、3年くらい前からのことです。1日に10ドルから15ドルくらいの売り上げがありますが、よく売れるのは子どものお菓子などです。奥さんが3日に1回くらいサールー市場へ行って仕入れてきます。
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**マイクロファイナンスと家族**
2015年12月のロハール本村で、勧誘員から資金融資の説明を聞いている家族を見かけました(左写真)。農業を生業としてきたロハール村の家族の中に、土産物の製作などによる経済活動が加わったことにより、銀行から融資の勧誘も始まっているようでした。カンボジアでは、NGOのマイクロファイナンス(小規模金融サービス)もありますが、上限金額が少ないために、商業銀行のマイクロファイナンスを利用してオートバイなどを購入し、現金収入につなげようとする人たちが増えてきているようです。右写真は、2012年12月に集会所で行われていた融資などの説明会の様子です。
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かつての日本の長男相続の慣行(長男だけが田畑や屋敷を相続し、他の兄弟姉妹は家の外に出る)とは異なり、カンボジアでは誰が相続するか(誰が屋敷に残るか)は、柔軟に決まります。仕事に就いたり、結婚をする年長の子(男女とも)が屋敷に残る場合もあり、また、他出することもあります。現状は娘(その中でも末の娘)が屋敷に残って親と同居することが多く見られますが、これは末子(末女子)が相続する慣行というより、状況に応じて(結婚する双方の親の意向、本人の意志、経済的状況などに応じて)、屋敷に残るかどうかを選択しているようです。兄弟姉妹が順に他出して行き、その結果として、弟妹が親と暮らすことになるのかもしれません。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ロハール村2015

ロハール村はノコール・トム地区に属しています。ロハール村を含めた6村(ロハール村、北スラスラン村、南スラスラン村、クロワン村、アラ・スワイ村、アンジャイ村)を統括しているノコール・トム地区長事務所は、スラスランから500~600m南の道路沿いに建っています(左写真)。ホワイトボードや机・イスが置かれたロビーの両側に、地区住民に関する書類などが保管された部屋があります。内戦時代に失われてしまった人々の住民登録台帳を作成することが、地区長事務所の大事な仕事の1つになっています。地区の人々は、結婚届や独身証明書などが必要なときに地区長事務所を訪れます。また、健康管理やAPSARA関係のミーティングも地区長事務所で行われます。
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ロハール村の東南入口に立つ道標の矢印は、周辺に点在するアンコール遺跡への方向を示しています。ここは、アンコール遺跡の小回りコース(緑の線)と大回りコース(赤い線)が合わさる地点で、東にスラスラン、西にバンテアイ・クディがあります(参照地図:http://blog.livedoor.jp/buschiba/archives/52360506.html)。*ロハール村情報/位置:アンコールワットから約4㎞北東、バンテアイ・クディの北側。西はタ・プロムに接し、東は北スラスラン村と接している。
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スラスランの北西隅に立つ案内板(左写真)に、クメール語と英語でロハール村の紹介がありました(右写真)。記載されていた英文からの概要を、青字で示しました。
ロハール村は、南(写真下)をBanteay Kdei(バンテアイ・クディ)寺院、西をTa Prom(タ・プロム)寺院に接し、東は北スラスラン村(Srah Srang(スラスラン)の北部)に接しています。また、北方向にはNrak Poan(ニャック・ポアン)寺院があります。
ロハール村の由来については、「昔むかし、王さまがSrah Srang(スラスラン:王の沐浴の池)で沐浴し、濡れた衣服や宝石を近くの場所で乾かすように家来に命じました。布を乾かした場所が「Veal Rohal」、その近くの村を「Phum Rohal」(布を乾かした村)と命名したという伝説が残っています。 」
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案内板にあるロハール村の絵地図を拡大しました(上方が北です)。写真右下に赤丸で示されているのが、道路標識が立っている場所です。ロハール村は、道標から北に延びる道の両側に広がるロハール本村、西側のコースノール集落、ロンタオ集落、そして北西にあるタノール集落とで構成されています。
村の人口は1,143人、282のファミリーが住んでいます。村人はすべて農民で、稲作をしながら土産用として木製のミニチュアドラム、牛車、水車および彫像を作っています。地元の人々は、これらの製品を、いろいろな場所で観光客に直売しています。」
2015年現在、ロハール村には1,645人(うち女性は922人)が暮らしています。そして、日本の屋敷にあたるファミリー数は280、1つの屋敷内に数家族が住むこともあるため家族数は326あります。2000年時のファミリー数も280であり、ファミリー数の変化がないのは、アプサラ機構(アンコール地域遺跡保護管理機構: Authority for the Protection of the Site and the Management of Angkor Region、略称APSARA、1993年発足)による、住まいに関する規制が1998年以降強まったことによると考えられます。
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ロハール村では、52家族が土産物を作っています。土産物つくりの組合(テックライソー)があり、ロハール村、北スラスラン村、南スラスラン村、クロワン村の人が加入しています。
ロハール村でつくられている土産物は、写真左から牛車、トロー、木製のミニチュアドラム(スコー)など、右写真の水車は、ホテルや観光地などに置かれるようです。組合の目的は、観光客に土産物を作っているところを見せ、販売する仕組みを整えることで、この組合には牛車で観光させる人も入っています(ロハール村内に10人)。組合のリーダーと副リーダーは選挙で選ばれますが、現在は2人ともロハールの人が選ばれているそうです。組合員は、売り上げの中から数パーセントを電話代他として組合に収めています。

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2015年12月、ロハール村南の道路沿いの整備が進んでいました。ロハール村入口にある建物の1つ(左写真の左の建物)が、観光客用の有料トイレに改装されていました(右写真)。
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また、クメール民家園の入口に、新たに左写真のようなゲートが設置されていました(左写真)。そして、タ・プロム遺跡東側の道路沿いには、レストランが建ち始めていました(右写真)。
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タ・プロム遺跡東塔門の東側は、ロハール村コースノール集落地内になります。コースノール集落にレストランが建ちはじめたのは、ここ数年のことです。
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タ・プロムの正面入り口は東塔門ですが、こちらから入る観光客は西塔門ほど多くありません。タ・プロム遺跡の修復と、東塔門前の開発が進んだことにより、東塔門から出入りする観光客も増えてきているようでした。土産物のトローやスコーを積んで売っているトゥクトゥクが停まっていましたが、ロハール村の人たちが作ったものなのでしょうか。
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ロハール村の中には、最近、英語学校ができました。
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アルファベットや身体各部の名称、動物の呼び名など、簡単な英語が絵入りで壁に貼ってありました。一番右の写真は、この英語学校をつくったお坊さんの写真のようです。
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カンボジアの地図や、アンコール・トムの壁画の絵もありました。
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環境に対する関心を呼び覚ますための「Aquatic Systems」 「Forests」の絵も貼ってありました。
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周辺にアンコール遺跡が点在するロハール村では観光地化が進み、土産物の屋台やレストランができて行く中で、英語に対する関心が高くなっているようです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

サンダイ村の家族

サンダイ村入口付近にあるクワイさんの店を訪れたのは、2012年12月の午前8時半ごろでした。道路沿いに並ぶパラソルの間から、奥の庭に坐っているクワイさんの姿が見えました(左写真)。クワイさんは、この道路沿いに転居してきてから村人用の商店を経営していましたが、3年前(2009年)からは、家族でバームシュガーを造り始め、土産品として売っています。*サンダイ村情報/ 位置:バンテアイ・スレイの南約10㎞ /村の成り立ち: バンテアイ・スレイに通じる道路道路(国道67号線)ができた後、州知事の指示により、周辺の森で暮らしていた人たちが道路沿いに転居してできた村。
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クワイさん(上右写真)には9人の子供がいます。奥さんはすでに亡くなっていますが、長男家族と一緒にこの場所で暮らしています。屋敷の方からペットボトルに入った樹液を運んできた男性が、クワイさんの長男(Sさん)です(左写真)。子どもを抱いて店番をしている右写真の女性は、Sさんの妻で、抱いている小さい子供は、Sさんの孫です。
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Sさん(51歳)夫婦にも、子どもが8人います。左写真、パームシュガー売り場で店番をしている女性は、Sさんの娘さんとその子供です。クワイさんにとっては孫とひ孫になります。売り場の横で、パームシュガーを型に入れている2人の少女も、クワイさんの孫です(右写真)。
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売り場の台の上に、茶色の水あめ状のパームシュガーが入った入れ物がおいてあり、蓋の上にはヤシの葉で作った小さな環が束ねられていました(左写真左)。その横で、少女たちは2つのスプーンを上手に使って、鍋の中からまだやわらかいパームシュガーを、板の上に並べた環(型)の中に入れていました(右写真)。
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クワイさんと家族の住居は、土産物売り場の奥にありました。手前の高床式家屋が住居で、ヤシで葺いた小屋(左写真左)が炊事場、その奥の小屋は穀物倉庫です。炊事場の前にいる女性は、クワイさんの娘さんのようです。屋敷内の木々は、クワイさんが長男のSさんと一緒に、この場所に移ってきてから植えたものです。ココヤシはもとから生えていたそうで、そのヤシの木にSさんが登って見せてくれました。椅子の横にいるのは、Sさんの息子さんです(右写真)。
DSC06003 DSC06004ヤシの木に登る息子

Sさんはあっという間にココヤシの実を採って下りてきました。ヤシの根元横には、葉を伸ばした椰子の実が置かれていました。完熟して落ちた椰子の実は、放っておくと1年位で芽が出て、5~6年経つと花を咲かせ実をつけ始めます。そして、60~70年間、季節に関係無く、次々と実を付け続け、その数は1年間でおよそ100~200個にもなるそうです(参照http://blogs.yahoo.co.jp/pocosuenaga/37609706.html)。
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しばらくすると、Sさんが登ったヤシの木に、息子さんも登りはじめました。それを見守る家族たちの様子が上右写真です(椅子に坐っている女性はSさんの奥さんで、そばの小さな子供はクワイさんのひ孫です)。ヤシの木に登る姿も、ココナッツの実を体に挟んで下りてくる姿も、Sさんと息子さんとはまったく同じように見えました。ヤシの木の左側に若者の姿が見えますが、彼もSさんの息子なのでしょう。
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息子さんがヤシの実を採って下りてきたとき、Sさんはテーブルの上で漁に使う網を修理し始めていました(上右写真)。屋敷内にある井戸の傍らに魚を獲るカゴが掛けてあったので、近くで漁ができるようです(下左写真)。また、高床式家屋の横に大きなタイヤの付いた耕耘機らしいものも見えたので、コメも作っているようです(右写真)。
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網を修理したり、薪をつくったり、Sさんは忙しそうに働いていましたが、そんな中、庭に植えてあるミルクフルーツの木に登り、食べごろの実も採ってきてくれました。Sさんは、カンボジアでは伝統的な模様とされる刺青(入れ墨)をしていました(右写真)。昔、男たち(兵士たち)は、身を守る経文を書いた布を首に巻いていましたが、あるときの王様が、戦いの邪魔になるとして、布の代わりに、体に刺青(入れ墨)を入れるようにと指示をした、という話をガイドさんから聞きました。Sさんの刺青も、内戦時代のものだったのかもしれません。
DSC06017 DSC06026息子51歳

2人の少女が乗ったオートバイが入ってきました。彼女たちもクワイさんの孫で、小学校へ行っていた後ろの少女をバイクで迎えに行ってきたそうです(左写真)。ちなみに、カンボジアではオートバイの運転に年齢制限はなく、免許証の取得も必要ありません。サンダイ村入口付近の国道67号線沿いにあるクワイさんの店には、私たちがいた短い間にも観光客が訪れていました(右写真)。
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パームシュガー造りは、カマドで樹液を煮詰め、かき混ぜて冷やし、それを型に入れるなどの過程は、女性の仕事になっているようですが、朝晩2回、オウギヤシの木に登り樹液を採取することは、男性の仕事になっています。ヤシの木の登り方は、クワイさんから長男のSさんに引き継がれ、そしてその息子さんへと引き継がれていくのでしょう。クワイさんの家族は、観光客に土産物として売るパームシュガーを造る過程において、家族の絆をより深めているように思えました。
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クワイさんの店のある場所には、道路の両側に何本ものオウギヤシの木が立ち並んでいます。椰子の木の寿命は、人間の寿命と同じ位と言われているそうです。国道67号線をつくる際、州知事は、人々がここでパームシュガーを造って生活できるようにと、オウギヤシやココヤシの木を道路沿いに残す計画を立てたのでしょうか。

写真/文 山本質素、中島とみ子