中央祠堂塔と沐浴池

アンコール・ワットの第三回廊へは、東南角の尖塔門に続く木製の階段を上ります。入口の塔門破風に、聖霊獣のレリーフが見られました(左写真)。精霊獣とは、ガルーダ(聖鳥)、ナーガ(蛇・竜)、象、ハヌマーン(猿)、シンハ(獅子)など、古代インドの(ヒンドゥー教)神話や叙事詩(「ラーマヤーナ」「マハーバーラタ」など)にも登場するものです。塔門を入ると、第三回廊の内側に沐浴池が広がっていて、上ってきたばかりの観光客たちが、沐浴池の縁に腰をかけて一休みしていました(右写真)。
DSC06595 - コピー DSC06587

すでに紹介したアンコール・ワット平面図から、第二回廊と第三回廊の部分を切り取り、左写真として示しました(参照: http://blogs.yahoo.co.jp/soreikemami/folder/1238789.html?m=lc)。平面図に見るように、中央祠堂塔へ通じる回廊は十字に造られ、回廊には沐浴池へ下りる階段が両側に設置されていました。右写真は、第三回廊の一角から中央祠堂塔と沐浴池を写したものです。

アンコールワットレリーフ1 - コピー DSC06571

1枚のフレームに沐浴池と屋根とが入らなかったので、上下に2枚の写真をつないで掲載しました。写真右側が中央祠堂塔、回廊でつながっている左側が、第三回廊の塔門です。第三回廊隅に建つ尖塔も見えています。写真の、沐浴池に下りる階段の上の破風は、その形をとどめていました。
DSC01952ココピーDSC01951

撮影した場所により、中央祠堂が右側または左側に見えますが、4つの沐浴池は、全く同じ様式で造られています。わずかに、沐浴池に下りる階段上にある破風の破損状態が、4つの沐浴池の違いを見せていました。
DSC06588 (2) DSC01955

観光客は、思い思いの場所で時間を過ごしていました。第三回廊に滞在できるのは1時間と決められているとのことですが、厳格ではないようです。写真左側、中央祠堂塔の傍らに制服姿の男性が座っていました。腰にトランシーバーのようなものをつけているので、観光客の人数など把握する係員なのでしょう。
DSC09363

沐浴池の真ん中に建つ中央祠堂塔です。右写真に、その一部を拡大しました。写真中央上から2体のデヴァター、右の方にガルーダ、右下隅にはアプサラが見えます。左寄りの下に彫られているのは、神話の一部を描いたレリーフのようです。
DSC06589 DSC06589 - コピー - コピー

塔の上に避雷針が見えました。ベンジャミン・フランクリンが避雷針を発明したのは1750年、アンコール・ワットが建立された600年ほど後の事です。中央祠堂塔に、避雷針に代わるものがあったのでしょうか?この避雷針はもちろん後の世に付けられたものでしょうが。
DSC01950 DSC01950 - コピー - コピー

中央祠堂塔への回廊です。右写真は、中央祠堂塔入口付近の壁に彫られたデヴァターです。
DSC09339 DSC01942

中央祠堂塔内には、ナーガの台座に坐る仏像が置かれていました。創建当時に祀られていたビシュヌ神像は、現在、西塔門で祀られているビシュヌ神の像であったと伝えられています。スーリヤヴァルマン2世は、中央祠堂に降った雨が、ビシュヌ神を祀る祠堂塔から流れ下ることによって聖水となり、その聖水を集めた池で沐浴することによって、神との一体化を望んだのでしょう。
DSC06579 DSC09362 (2)

中央祠堂塔の上部に、たくさんの蝙蝠が見えました。そして、下には無数の糞が落ちていました。
DSC01937 DSC01939

中央祠堂塔は、シェムリアップ市街地における最も高い建造物です。中央祠堂塔の高さ65mは、シェムリアップ市街地の建物規制の基準値とされています。その高く、光の差し込まない中央祠堂塔は、コウモリの格好の住処となっているらしく、その糞が石を溶かしてしまうことが、大きな問題になっているそうです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

第三回廊へ上る

左写真は、第二回廊西中央門の内側から撮影した、第三回廊西塔門に上る石段です。写真に見るように、第二回廊の西中央門は、制止柵が設置されて通り抜けることができませんでした。以前は、ここからテラスを通って正面の石段から、第三回廊へ上ることができたそうです。
第三回廊へ上る階段の場所と順路が記された平面図を右写真として掲載しました(参照: http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage67.htm)。平面図に見るように、観光客は、第二回廊北西塔門を抜けて、第二回廊と第三回廊の間を、「第三回廊への階段」とある場所まで、緑色の矢印のように進んでいきます。ちなみに、南北100m東西115mの第二回廊の上に、一辺60mの正方形の第三回廊が造られていて、経蔵のある西側が広くなっています。
DSC09323 o0480039312969828469[1]

アンコール・ワット第二回廊の北西塔門を抜けると、目の前に大きな岩山が現れました。石を積み上げた第三回廊の基壇です。見上げた基壇の上には、そびえたつ尖塔と連子格子のついた回廊、そして塔門が造られていました。写真左の尖塔の右にに重なって見えているのは中央祠堂です。そして、写真右手前に見えているのは経蔵です。
DSC09329

第三回廊の基壇には、東西南北各面に3ヵ所、計12か所の石段が造られていますが、上れるのは、東南にある1か所になっていました。観光客の多くが、第三回廊に上ることのできる東南の階段の方向へ歩いていきます。右写真に見える塔は、第二回廊東南隅の塔です。
DSC09327 DSC09933

下の写真は、2012年12月の第三回廊へ上る階段のある東南の基壇です。東面から南面へと廻り込むあたりから、たくさんの観光客の姿が見えました。観光客は、基壇に沿って張られたロープの内側に並んで、第三回廊へと上がる順番を待っていたのです(2012年12月15時過ぎ撮影)。
第三回廊に、1度に登れる人数は100人ほどで、階段の上と下に係員がおり、無線にて連絡を取り合って、上の人数が一定数に達しないようにしているそうです。そのために行われる入場制限によって、このような行列ができていたのです。
DSC09969 DSC099701

「第三回廊への階段」は、石段の上に重ねるように設置された木製の階段で、手すりもついていましたが、写真からもわかるように、かなり急勾配でした。
DSC09939 DSC06595

2014年9月に訪れた時は、階段下で係員と観光客が押し問答をしている場面に出合いました。キャミソール姿の女性が、第三回廊へ上ることを制止されたのです(左写真)。第三回廊へ上る際には、いくつかのチェックが行われます。服装については、短パン、スカート、キャミソールなどでは第三回廊に上がれないとされています。係員は、注意事項が記された用紙を観光客に見せながら対応していました。そのほかにも、12歳以下の子供や、妊娠している女性なども上れないようです。
DSC06590 DSC09938第3回廊をはじめに登る

ロープの外で、ゲームをしていた兄妹らしい子どもたちも、年齢制限によって、家族と一緒に第三回廊に上がれなかったのでしょう(左写真)。階段下の第二回廊の前に坐っている人々の中には、服装チェックで第三回廊に上がれなかった人たちもいるようでした(右写真)。
DSC09332 DSC09371 - コピー

ガイドさんから、「第三回廊へ上るときは、長袖の上着を身に着けるように」、そして、「できれば白い色のものを・・・」と言われました。白い上着は、神に使える人々が身に着けるものなのでしょう。アンコール・ワットを建立したスーリヤヴァルマン2世は、後世に、これほどたくさんの女性たちが第三回廊に上るようになるとは、まったく思いもよらなかったことでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子

スーリヤヴァルマン2世

アンコール・ワット第一回廊の南面西側に、スーリヤヴァルマン2世軍隊の行進を描いたレリーフが残されています。スーリヤヴァルマン2世はアンコール朝第18代目の王で、その在位(1113年~1150年頃)中に、30年という年月をかけてアンコール・ワットを建設しました。
DSC08284 DSC08282 - コピー

壁画に描かれているスーリヤヴァルマン2世のレリーフで、最も有名な場面が左写真です。王座の上にひときわ大きく描かれている人物がスーリヤヴァルマン2世です。レリーフについて、『アンコール・ワットへの道』の著者石澤良昭氏は「アンコール・ワットの創建者スールヤヴァルマン2世の精悍な容貌が雄偉に描かれ、王座から拝謁にやってくる人たちを見下ろし、威厳をこめて指示している」と記しています。また、「世界の覇者である王は将軍たちを従え、天蓋、払子、旗幟が建ち並び、騎兵たちを従えている。戦象の上に立ち上がっている王の勇姿はとても活動的である」と評しているのは、右写真の場面でしょうか?
DSC08299 DSC08316コピー

戦象の上で、槍を投げようとしている将軍(左写真)や弓を構える将軍たちの姿も生き生きと描かれています。
DSC08309 DSC08339コピー

騎馬兵たちの乗る馬も躍動感にあふれていました。スーリヤヴァルマン2世の治世は、国内各地の敵対勢力との争い、国外では西のタイ、東のベトナム、そして南のチャンパーとの争いが続いていました。そうした中で、1145~1149年には、チャンパ王国を支配しています。第一回廊に刻まれているスーリヤヴァルマン2世の行進の様子は、そのころのものなのでしょう。
DSC08338 DSC08332

スーリヤヴァルマン2世軍隊の行進レリーフは、南面の西側半分ほどで終わります(左写真)。その先には塔門があり、透かし彫りの柱やデヴァターが見られました(右写真)。
DSC08341 DSC08342

スーリヤヴァルマン2世は、東北タイのピマーイ地方の王家出身の16代王ジャヤヴァルマン6世(1080~1107)と、その兄17代王ダラニーンドラヴァルマン1世(1107~1113)の、2人の先王の甥にあたります。東北タイのピマーイ地方の出身であった16代王と17代王の2人の王は、ともに歴史上ではアンコールに足跡を残すことはありませんでした。しかし、アンコール・ワットに先立ち、そのモデルとして計画されたといわれているベン・メリア寺院は、16代王ジャヤヴァルマン6世の治世にその建立が始まったとされます。
アンコール・ワットの建立は、東北タイのピマーイ地方の王家出身の王たちの、3代に渡る夢だったのかもしれません。しかし、17代王ダラニーンドラヴァルマン1世は、在位からわずか6年にして、甥であるスーリヤヴァルマン2世によって刺殺されてしまいます。
スーリヤヴァルマン2世が、アンコール・ワットを霊廟として建立したこと、そして、東北タイにピマイ寺院を建立したことは、そうした彼の出自と歴史に由来するのでしょうか。
DSC08343

アンコールワット外周壁に建つ西塔門内には、かつて中央祠堂に祀られていたというビシュヌ神像がありました。この像は、スーリヤヴァルマン2世をヒンドゥー教のビシュヌ神に見立てものともいわれています。右写真は、シェムリアップ市街地(オールドマーケット橋の東岸)に立つビシュヌ神像です。ヴィシュヌは法螺貝と輪宝と宝珠を持ち、杖をつく姿で描かれています。スーリヤヴァルマン2世が統治した12世紀は、ヴィシュヌ神の建造が流行したそうです。
DSC06490 - コピー CIMG6868維持神ヴィシュヌ - コピー 

ビシュヌ神は太陽神であり、太陽の意味を持つ「スーリヤ」の名を冠したスーリヤヴァルマン2世は、自らの霊廟としたアンコール・ワットで、王と神の一体化を望んだのでしょうか。

写真/文 山本質素、中島とみ子

十字回廊

アンコール・ワット第一回廊にある西塔門は、2015年9月時点においても、修復が続いていました。この西塔門の先に十字回廊と呼ばれる場所があります。右写真としてアンコールワット伽藍の平面図を掲載しました(参照:http://blogs.yahoo.co.jp/soreikemami/folder/1238789.html?m=lc)。平面図に見るように、十字回廊は第一回廊と第二回廊の間に造られています。十字回廊には4つの沐浴池の跡があり、アンコール朝時代には、お参りする人々が身を清めるために沐浴する場所でした。西側2つの沐浴池は第一回廊に接し、東側2つの沐浴池は第二回廊に接しています。そして4つの沐浴池の真ん中を、十文字に回廊が通っていることから、十字回廊と名付けられたようです。
DSC09475 アンコールワットレリーフ1

十字回廊の西側に位置する2つの沐浴池の跡です。組まれたパイプや下がっているシート(左写真)、そしてパイプ階段(右写真)が見えるのは、西塔門の修復が行われているためです。この2つの沐浴池では、下りる石段が西側についていました。池の底には板状の石が敷き詰められていますが、どの石にも小さな穴があいていました。石を運ぶ際に綱を通した穴だそうです。
DSC06556 DSC09308

西塔門は、上左写真の右側、そして上右写真の左側に位置します。修復中なので通ることはできませんでしたが、十字回廊から西塔門の方向を臨むと、参道の先に西塔門(王の門)が見えました。
DSC09311 DSC09313

沐浴池に面した西側、第一回廊の壁は、連子格子とデバターのレリーフで飾られていました。
DSC06556 - コピー DSC09308 - コピー (2)

第二回廊に接した東側2つの沐浴池から、池の石積みの上に、第二回廊の基壇である石積みが重なり、その上に第二回廊の連子格子が見えました。左写真は北東の沐浴池、右写真は南東の沐浴池で、共に十字回廊から写したものです。東側の沐浴池では、下りる石段が東側に設置されていました。
DSC06551 - コピー2 DSC09320

前図(アンコール・ワットの平面図)を90度回転させて一部を拡大したものが下図です(左写真、左側が北方向です)。上右写真で観光客が腰かけている沐浴池は、平面図右上に位置します。彼らが眺めている視線の先には、たくさんの仏像が並ぶ回廊が見えました(右写真)。平面図(左写真)で探すと、右側(南)の回廊で「仏像が並ぶ(千体仏)」と記されている場所になります。
bc46dc34d33ff3e6e7c20f3c4698b2f81-602x1024[1] - コピー DSC09321

その回廊に並んでいる仏像は、アンコール・ワットを訪れた人々によって奉納されたものだそうです。シンハ像やレリーフの仏像、そしてナーガの台座に坐る、首の欠けた仏像が何体もありました。ポル・ポト政権以前は100体もの仏像が並んでいたということです(左写真)。右写真の大きな仏像は、いつの時代に持ち込まれたものかはわかりません。
DSC09318 DSC09928

その大きな仏像の前から十字回廊に入りました。この先に、17世紀にここを訪れたという森本右近太夫一房の墨書きが残っていました。ガイドさんが、「森本右近太夫一房という日本人が、父の菩提を弔うために仏像を寄進した、という内容が書かれています」と説明した石柱には、墨の跡だけが見えました。
DSC06546 DSC09925

4つの沐浴池を区切っている十字回廊に壁面はなく、天井を支える石柱だけが並んで建っています。その天井や石柱には、現在も彩色の残る場所が多く見られました。
DSC06543 DSC06550

DSC06547 DSC06548

沐浴池の北側にある回廊の、平面図に「エコーが響くポイントと書かれているところでは、ガイドさんに「壁に背をつけ胸を叩くと音が響く場所」と教えられて、胸を叩く観光客が多く見られました。ここは、人間の邪気を飛ばすための場所とも言われています(左写真)。右写真は、その先にある「下書き状態のアプサラー(レリーフ)」の1つです。修復過程のレリーフかと思いましたが、アンコール・ワットには、創建時から、未完成のレリーフや下書き状態のものが残されているそうです。
DSC06539 DSC09923

完成まで三十年もの年月を費やしたアンコール・ワットですが、それだけの歳月をかけても完成しないほど、創建者スーリヤヴァルマン2世の描いた夢は壮大なものだったのでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子

アンコール・ワットの尖塔

アンコール・ワットの環濠に架かる西参道の先には、3基の西塔門が建っています。現在は上部が欠けていますが(左写真)、かつては尖塔で飾られていました。西塔門(王の門)を抜けると、東に伸びる内参道(長さ350m)の先に、3基の尖塔が見えます(右写真)。真ん中が中央祠堂、両側に見えるのは第三回廊の尖塔です。
DSC08230 DSC06505

春分の日と秋分の日には、西塔門(王の門)の真上に、そして中央祠堂の真上に昇る太陽を見ることができます。下2枚の写真は、前回「アンコールワットの日の出」で紹介した、春分の日の翌日に撮影した日の出です。
DSC02229 DSC02214

内参道から見える3本の尖塔の中央は、地上65メートルの高さをもつ中央祠堂です。この中央祠堂は、太陽神ヴィシュヌが降臨し、王と神が一体化する聖なる場所と考えられていたようです。右写真は、かつて中央祠堂に祀られていたというヴィシュヌ像で、現在は、西塔門(王の門の南側の塔)に置かれています。ヒンドゥー教寺院として創建されたアンコールワットは、14世紀(ジャヤヴァルマン7世治世下)には仏教寺院として使われるようになり、その際、中央祠堂のヴィシュヌ像は、ナーガの台座に坐る仏像に置き換えられました。その後、村人によって、このヴィシュヌ像が西塔門に運び込まれたということです(右写真)。
DSC09243 - コピー DSC06490

経蔵は、内参道の中ほど、参道を挟んで南北に対称に配置されていました。写真の両端の建物が経蔵です。
DSC08250

経蔵の手前で参道から降りると、尖塔が4本に見えてきます。参道の北側では、それまで第三回廊南西の尖塔に重なっていた南東の尖塔が見えます(左写真の右側)。一方、参道の南側では、第三回廊の北西の尖塔の後ろの北東隅の尖塔が見えてきます(右写真の左側)。
DSC09898五本の塔が3本に見えるのはシバ神ビシュヌ神と〇〇神 DSC09239

経蔵の東側に造られている聖池のほとりからは、5本の尖塔を見ることができます。左写真は、北の聖池の西側、右写真は南の聖池の西側から撮影したものです。
DSC09906 DSC08272

北の聖池のほとりは、中央伽藍を臨む絶好のポイントの一つで、日の光を浴びた5基の尖塔が、聖池に映り込み、聖池にはたくさんのハスのつぼみが見えました(2012年12月午後2時43分に撮影)。 中央祠堂は神々が住む須弥山を表し、周囲の回廊や尖塔はヒマラヤ連峰、そして環濠は無限の大洋を象徴しているとされます。建設当時には、中央祠堂と、それを囲む第三回廊隅の4本、第二回廊隅の4本とをあわせて9本の尖塔が建っていたそうですが、現在では第二回廊の尖塔は欠け落ちています。尖塔の形は、ハスのつぼみをモチーフにしているそうです。
DSC09908

オレンジ色の衣を着た僧侶が3人、南の聖池の手前を歩いてきました。彼らが向かった先は、南の経蔵です(2012年12月撮影)。カンボジアでは、「一時僧」の慣習が今でも受け継がれています。出家する理由の1つには、知識を増やし、社会のことを知るとされています。アンコール遺跡でよく見かけた僧侶の多くは、一時僧として修業をしている人たちなのかもしれません。アンコール遺跡を巡ることも、僧としての修養に含まれているのでしょう。
DSC08260 DSC08261

経蔵の中に入った僧侶たちは、興味深そうに見学をしていました(左写真)。アンコール・ワット前庭にある2つの経蔵は、すでに修復を終えていました(右写真)。北(写真右側)の経蔵は、日本の支援で2005年までに修復を終えました。修復に際し、新部材の彫刻面の表面仕上げについて、JSAでは、「オリジナル材と新材との違和感が生じない」かつ「オリジナル材と新材の明確に判別できる」ように、オリジナルの彫刻仕上げとほぼ同じ状態まで彫刻を施した後に、Bush Hammerと鑿で表面を荒らして柔らかい仕上がり(参照:http://angkor-jsa.org/)にしているそうです。
DSC08267 DSC08276

第一回廊の北西角からは、アンコール・ワットの中央伽藍が、中央祠堂を頂点に大きな山のように見えました第二回廊に尖塔が残っていたら、もっと雄大な山に見えたことでしょう(左写真)。修復中の西塔門は、かけられたシートの後ろに、わずかに尖塔の先が3つ見えていました。
DSC09917 DSC09475

第一回廊の南西角から見えた尖塔です。
DSC09468

アンコール・ワットは、参道を挟んで建物や池などが、南北対称に造られていました。こうした対称的な建築様式には、天文学の知識がいかされていたのでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子