アンコールワット西広場

アンコール・ワットへ向かう私たちの車の横を観光客を乗せたバイクタクシーやトゥクトゥクが走っていきます。アンコール・ワットは、アンコール遺跡群の中心的寺院遺跡です。(以下15枚の写真は2012年12月撮影)
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アンコール・ワットが、環濠を隔てた先に見えてきました。この辺りから、西参道入り口まで観光客を降ろすトゥクトゥクが行列を作っていました。参道の上を歩いていく大勢の人たちが見えます。
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観光客のほとんどが、西参道の前で自動車やトゥクトゥクを降りて、参道へ向かいます。入口の手前で降りて、環濠に沿って整備された歩道を参道へ向かう観光客もいます。一方、観光客を降ろしたトゥクトゥクは、道路を挟んだ駐車場で、観光客の帰りを待ちます。駐車場の奥には、食堂や土産物店などがあるようでした。
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西正門の入口は、大きなシンハ像とナーガが両脇を護っています。見上げたナーガ像は、青空を背景に圧倒的な迫力がありました。アンコール・ワット遺跡情報/位置:シェムリアップ空港から4.5㎞東 /建立:12世紀前半、スー李;スーリヤヴァルマン2世により、ヒンドゥー教寺院として30年を超える歳月を費やし建立される、
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左写真は、西正門前から西へ延びる道路で、トゥクトゥクの運転手たちが客待ちをしていました。杭の内側は駐車場になっていて、パラソルや屋台などの売店も出ていました。自転車にアイスボックスを積んだ女性が、アイスキャンディを売っていました。
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トゥクトゥク越しに、アンコール・ワット西正門と西塔門、そして中央祠堂の尖塔も見えています。
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西正門入口の階段を上って振り向くと、どっしりとしたシンハの後ろ姿がユーモラスに見えました。西参道の南半分は、1960年代にフランスにより修理されたものだそうです。北半分は、1952年に50mほど崩壊しフランスが緊急修理した後に、1996から2007年にかけて、上智大学の協力のもとカンボジアにより修復されたものです。
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参道の中ほどにパネルがあり、2000年から2007年に「SOPHIA MISSION,Tokyo」として行われた修復の様子が掲示されていました。「WE Cambodian Restore the Western Causeway of Angkor Wat」と書かれた下に、修復に関わったカンボジアの人たちの顔写真がありました。2012年12月に、私たちに同行してくれたブッティさんも、この修復に参加していました(写真上段右から2番目)。
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参道の北側の環濠の中では土嚢を積む作業が進んでいるようでした。西正門の南側の環濠土手の向こうには、トゥクトゥクや自動車の屋根がずらりと並んで見えていました(2013年3月撮影)。
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2013年8月に訪れた時には、西正門の北側の土手で 図面に書き込みをしている女性を見かけました。彼女たちも修復作業に関わっているようです。環濠土手では整備が行われていました。
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2014年9月の西正門の北側の様子です。環濠の土手は、観光客が歩くことのできる歩道になるようです。
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そして、西正門の前にある駐車場も整備が進んでいます(2014年9月)。
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アンコール・ワット遺跡の修復は、日本をはじめ世界各国の協力、支援によって行われています。環濠土手の歩行者用道路や、駐車場の整備は、カンボジア人自身の手によるものなのでしょうか。

写真/文 山本質素、中島とみ子

強制移住の記憶

ポルポト政権下における強制移住は多くの人々が経験しています。一人の女性(トゥーチ・クームさん、71歳)に、当時を振り返ってお話していただきました。 彼女は、北スラスラン村生まれで、20歳のときに結婚し、夫の家があるロハール村に来ました。ロンノル時代、彼女が住んでいたのは、ロハール村の今の場所で、屋根は瓦葺きでしたが、小さな家だったそうです。瓦は、日本風のものではなく、薄く焼いた舌状のタイル板をさします。
ロンノル時代は、シェムリアップにいるロンノル軍の兵隊が、反対派が町まで来ないようにするために、ロケットを飛ばしてきました。森や家のそばに穴を掘っておき、ロケットや飛行機が飛んでくる前に警報が鳴るので、子どもを両脇に抱えて逃げ出したり、掘った穴の中で2,3日を過ごしたこともあったそうです。ロケットが落ちることはありましたが、ロハール村には死者はあまり出なかったようでした。また、ロケットは毎日飛んでくるわけではないので、田の仕事は通常通りにやっていました。
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ポルポトが政権をとると、子ども3人と夫と夫の母とともにチャンソー村へ移住させられることになりました。移住する2日前に言われたので、クームさんは妊娠中でしたが、荷車に80歳のおばあさんを乗せ、牛に曳かせてチャンソー村へ行きました。チャンソー村では仕事はありませんでしたが、米を持って行ったので、なんとか暮らすことができました。チャンソー村には1か月半ほど居て、その後、プノン・ボックの北側にあるタシュー村に移されました。クームさんは、タシュー村で4人目の子どもを産みましたが、米も金もなく、仕事も見つかりませんでした。そこで夫が、トタンで箱を作り、コールタールを塗って、水を入れる箱として、米と交換したりして、その日の食べ物を得ていました。その後も、何回も住む村を移されました。ポーペイチュロン村では、ポルポトの命令で、夫は田んぼの仕事をし、私は子どもが4人いたので遠くの田の仕事はできず、脱穀などの仕事をしていました。ポルポト時代は辛かったです。食事を用意するのが大変で、ほとんどおかゆばかりを食べていました。米がたくさん収穫できた時には、コメの飯を食べることもありました。

1970年3月18日 1975年4月17日 ロンノル政権 (反対派との内戦) 1970年 3月18日 親米派ロンノルによるクーデタ (シアヌークは北京に逃亡し、クメール・ルージュと提携し、抵抗)
1970年 3月20日 アメリカがロンノル政権承認
1970年 3月23日 シアヌークは民族統一戦線を結成。内戦始まる
1970年 4月30日 アメリカがカンボジア侵攻作戦開始1973年 1月27日 アメリカと北ベトナムがパリ和平協定に調印
1975年4月17日 1979年1月7日 ポルポト政権 1975年 4月17日 クメール・ルージュがプノンペン制圧。 (全住民の強制退去を命じる。以後3年8ヶ月で約200万人が虐殺される)
1975年 4月30日 ヴェトナムでサイゴン陥落=解放
1975年12月31日 シアヌークが亡命先の中国から帰国
1976年 4月 2日  シアヌークはプノンペンの王宮内に幽閉される
1977年 6月20日 フン・センが粛正を逃れてベトナムに逃亡
1978年12月25日 ヴェトナムがカンボジアに侵攻
1979年 1月 5日 シアヌークはクメール・ルージュから釈放される。 (シアヌークはベトナムの侵攻を訴えるため北京・東京経由で国連総会に向かう)
1979年1月7日      ~ 1989年9月26日 ヴェトナム軍による占領時代 (反ヴェトナム内戦) 1979年 1月 7日  ヴェトナム軍がプノンペンを解放
1979年 1月12日  ヘン・サムリンが「カンボジア人民共和国」の樹立を宣言。 1979年 2月17日  中国軍がヴェトナムへ侵攻
1981年 9月 4日  シンガポールで反政府三派が合意    (ポルポト派、シアヌーク派、ソン・サン派) (反ヴェトナム3派連合と親ヴェトナム政権との内戦始まる)
1982年 6月22日  反政府三派が反ヴェトナム「民主カンプチア連合政府」結成 (国連のカンボジア議席は1989年総会までポルポト政権が占め続けた)
1987年12月 2日  シアヌークとフン・センが初めて会談
1989年 7月30日  カンボジア和平のパリ会談が始まる。8月30日に中断1989年 9月26日  ヴェトナム軍がカンボジアから完全撤退
1989年9月26日      ~ 1993年9月21日 和平へ向かって 1991年10月23日 紛争4派がパリでカンボジア和平協定締結
1991年11月14日 シアヌークが13年ぶりに帰国
1992年 3月15日 UNTAC(国連カンボディア暫定統治機構)が発足              1993年 5月23日~28日 UNTACが総選挙実施(ポルポト派はボイコット) 選挙結果:フンシンペック党58議席/人民党51議席/その他11議席/計120議席決定
1993年9月21日      ~     現在 現「カンボジア王国」 1993年 9月21日 新憲法採択
1993年 9月24日 新憲法公布。現在の「カンボジア王国」の発足。 シハヌーク国王即位。第一首相にラナリット、第二首相にフン・センを任命。
1994年 7月    クメール・ルージュを非合法化

1995年 7月    ASEANへのオブザーバー参加
1996年 8月    ポルポト派が分裂(イエン・サリらは政府に帰順)
1997年 6月10日  ソン・セン虐殺される
1997年 6月18日  ポルポトが派内で失脚。タ・モクが実権を握る
1997年 6月21日  カンボジア政府が国連に国際法廷の設置を要請
1997年 7月 5日  プノンペンでフン・セン派とラナリット派が武力衝突
1997年 7月 6日  上記の衝突でフン・セン派の勝利
1998年 4月15日 ポルポト死亡

1979年にポルポト政権が終わったその日の夜のうちに、家族はすぐに、ロハール村に帰りました。
元の住まいは全く残っていませんでしたが、外に野戦病院の木製のベッドが2つうち捨てられていたので、その上にヤシの葉をふいて寝たそうです。 思い出のあるベッドなので、自分たちが死んだときには、これで棺を作ろうと夫と話していましたが、2015年1月に夫が亡くなり、そのときにこの木で棺を作ろうと思いましたが、棺にするには時間がかかるといわれ、しかたなく、夫の棺は別の木で作りました。
夫のおかげで、50歳からは仕事をする必要もなくなり、今は二人の娘と住んでいて、助けてもらっています。「今が一番幸せだと思う」と語り終えた彼女の表情は、穏やかでした。

写真/文 山本質素、中島とみ子

長寿の祝い

市場の西側の通りを歩いていると、音楽が聞こえてきました。音楽の聞こえる家を訪ねると、建物と建物の間に張った日よけ用のシートの下に、人々が集まっていました(左写真)。井戸のところにも4人ほどの人たちがいて、大きな鍋などを洗っていました(右写真)。写真右奥に見えているのは、プサーラック(村境の市場)です。
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台の上に置かれたコンロでは、野菜炒めを作っている最中でした。女性は次の料理に使う鍋を選んでいるようです。カマドの横には携帯用ガスコンロが置かれていました(左写真)。その奥でも、大きな鍋を囲んで、料理の手順などを打ち合わせている人たちの姿が見えました。
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日よけテントの下では、大量の鶏肉が女性たちの手によって切り分けられていました。彼女たちは、丸いまな板と大きな包丁を、手慣れた様子で使っていました。日本では、近所のお手伝いに行く時、自分のまな板と包丁を持参する人が多くいました。北スラスランの女性たちも、自分たちのまな板と包丁を持ってお手伝いに来たのでしょうか。水ガメの奥で、かがみこんでいる2人の男性は魚をさばいているのかもしれません(右写真)。
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火が燃えるカマドの上には大きな鍋がかかっていました。隣に置かれたもう1つのカマドにも、男性が火を点けていました。男性は、大きなカマドや大きな鍋と一緒に、業者から派遣された専門の人のようでした。料理は村の人に頼むことが多いようです。

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招待された村の人たちは、すでにゴザの上に坐っていました。座っていた男性や女性のほとんどが髪を剃っていて、クロマー(カンボジアのスカーフ)を肩にかけていました(左写真)。右写真の若者や幼児は、村外から祝いにやってきた親戚たちなのでしょう。
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招待されたお年寄りたちにも、それぞれ役割があるようでした。左写真の男性は、飲み物などが不足しないようにチェックしていました。その後ろに、バナナの葉を持った女性が見えますが、彼女は、バナナの葉の片方を切り取って、右写真のような形に作っていました。昔はバナナの葉をお皿代わりにしたと聞きましたが、これは祝いの席の飾り物なのでしょうか。
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前の方では、飾りものに何かをはさんでいる女性がいました(左写真)。よく見ると、飾り旗の間に挟んでいたのはお金でした。長寿を祝う、お祝いのお金なのでしょう。
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女性たちの間に、飾り付けられた祝いの膳がいくつか見えました。右写真の右の方には、台付きの皿に乗ったタバコが見えます。
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高床式の2階には、男性たちの姿が見えました。階段の上の男性が、今日の長寿の祝いの当事者の男性(87歳)です。
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長寿の祝いは、さらなる長寿を祈るために、60歳を超えた人が一生に一度、祝いの席を設けて、親せきや近隣、友人たちを招いてごちそうをするものです。ただし、金銭的な余裕があれば、1回だけでなく何回でも長寿の祝いを開いてもよいそうです。ちなみにこの男性は1回目の長寿の祝いだそうです。長寿の祝いは半日から、長い時では1日半もかけるそうです。
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この日集まった人たちの多くは、ポルポト政権とそれに続く内戦の時代の記憶を共有しているのでしょう。この国の長寿の祝いは、特別な思いが込められているのかもしれません。

写真/文 山本質素、中島とみ子

プサーラック(村境の市場)

北スラスラン村も、ノコール・トム地区内で、その変化が大きい村です。北スラスラン村は、スラスランの北側に位置し、西のロハール村に隣接する村です。2015年9月には、スラスラン(左写真)の北側の道路を、東から西へ向かって歩きました。*スラスラン遺跡情報/位置:アンコールワットから約4km北東にある人造池 /創建:10世紀半ばに開削。12世紀末ジャヤバルマン7世(1181~1220頃)治下に大規模な改修工事がなされる。
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時間は10時30分頃、自転車に乗った、緑の上着姿の女性2人が、私たちを追い越して行きました。遺跡や道路を掃除する仕事をしている彼女たちの自転車には、草刈り鎌がついていました。1人の女性が道路沿いの店へ立ち寄りました。そこは自転車修理店でした。
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店の人が、ハンドルの辺りを修理していたので、ブレーキの故障だったのでしょう。もう一人の女性は、その先の道を右へ曲がっていきました。曲がった道の先には、小屋掛けの店やパラソルを広げた店などがたくさんできていました。そこは、最近できた北スラスラン村の市場でした。入口付近では、自動車に積んできた鞄シートの上に広げて売っていました。
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すぐに自転車の修理を終えた女性も、鎌を手に市場の中へ入っていきました。先に行った女性は、市場の中て彼女がくるのを待っていました。
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市場の中には、両替所が作られていて、左から、シンガポール、アメリカ、ユーロ、中国、韓国などの紙幣が貼られていました(右写真)。観光客が、自国の通貨をカンボジアのリエルに両替するというよりも、むしろ、店の人たちが、観光客の支払った紙幣を、カンボジアリエルあるいは米ドルに両替するための両替所なのかもしれません。ちなみに、2015年9月11日の為替レートは、日本円1円が約34リエルで、1USDは約4069リエルですが、最近のカンボジアでは、日常的に米1ドルが4000リエルで換算されています。
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私たちは、市場の西側の道を通り、ロハール村へ向かいました。向こうからやってきた女性とあいさつを交わしているのは、私たちのガイドをしてくれている男性です。
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通りの左(西側)にも店舗が並んでいて、その中に、両替店(左写真)や縫製店(右写真)を見かけました。市場の中に2軒の両替所があることから、この市場の盛況さがうかがえます。
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辛く煮た貝を荷台に積んだ男性のバイクが、市場を横切っていきました。この辺りが、市場の北端のようでした。この新しく造られた北スラスラン村にある市場は、「プサーラック」と呼ばれます。プサールは市場の意味、ラックは「境の棒」という意味で、ロハール村と北スラスラン村の「村境の市場」という名称のようです。この市場にはロハール村の人も20軒ほど、店を出しているそうです。
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以前は、スラスランの西側に、近隣の村人たちが買い物をする市場があり、南スラスラン村の人も店を出していたそうです。左写真はテラスのあるスラスラン西側で、オートバイに乗った男性の帽子の先にシンハ像のテラスが見えます。そして、木々の向こうにブルーシートが見えるでしょうか。この辺りが、以前市場があった場所のようです。
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スラスランの西側にあった市場は、1983年にスラスランの北側に移転したということです。私たちが訪れた2012年12月時点では、スラスランの北側(道標から東)の道沿いの店は、吊るされた肉の塊や袋入りのお菓子など、周辺の村人たちが買いものをする市場の雰囲気を残していました。カンボジアのお好み焼き(バンチャエウ)を作って食べさせる場所もありました。
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1年後の2013年12月に訪れた時には、テントを連ねて広げられた売店には、観光客用の商品が並べられていました。特に、道路に面した場所には、昨年までは見られなかった串刺しなどの食べ物がずらりと並んでいました。1年前、地元の人たちがバンチャエウを食べていた場所(上右写真)では、集まってきた観光客に、女性が、吊るしてある焼いたトリ肉を切り分けて売っていました(下右写真)。
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アンコール・トムの壁画にも、市場は描かれています。市場は、地元の人々にとっては、生活に欠くことのできない場所であり、また、観光客にとっても、その土地の人々の暮らしを感じることのできる魅力的な場所です。北スラスランに新たにつくられた市場「プサーラック」は、地元の人たちと観光客との出会いの場にもなっていくのでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ロハール村のグループリーダー

現在のノコール・トム地区には、ロハール村を含めた6つの村(ほかに北スラスラン村、南スラスラン村、クロワン村、アラ・スワイ村、アンジャイ村)が属しています。
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ポルポト政権が倒れた1978年以降に政府は地方行政を再編し、1979年に、村の中にグループを作りました。ロハール村の村長さんの案内で、第1グループ(25家族)のグループリーダーを1979年から務めているソックさんの家を訪ねました。
ロハール村の中は地域的に7つのグループに分かれ、ロハール本村に第1から第3グループ、コックスノール(スノールという木がはえていた島のような小高い所の意味)に第4、ロンタオに第5、タノールに第6、第7グループがあります。各グループのリーダーは、村長が選んで、地区長に報告します、
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ソックさんは、ここから6キロ先のアンポール地区アラ・スワイ村(現在のノコール・トム地区)で(1952年に)生まれました。ポルポト時代に、家族とともにプノン・ボックという山のあたりに強制的に移住させられた経験を持ちます。ロハール村生まれの現在の奥さんと結婚し、ポルポト政権崩壊後(1978年)に奥さんの家があったロハール村に帰ってきました。
家は壊されていましたが、自分で木を伐りだして小さな小屋を作って住みました。2000年に家を大きく作り直した際には、村の人にチューイ・クニア(助け合い)を頼んだそうです。
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ソックさんの現在の仕事は農業で、米を作っています。小さな田を合わせて、1ヘクタールから2ヘクタールあり、「祖父の代からのもので、土地の(所有/居住)証明書ももらったので、米を作らないともったいない」と、ソックさんは話します。1985年頃から、暇なときに土産物(おもに牛車のミニチュアや箸)を作っています。息子さんも土産物つくりをしています。
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牛車のミニチュア作りは、米つくりよりも収入はよいそうで、作ったものは土産物売り屋に売っています。大きいものは、店からの注文を受けて作ります。大きい牛車は、一個160ドルくらいになりますが、作るのに1か月くらいかかるそうです。土産物の材料は、おもに黒檀と白譚ですが、これらは、売りに来たものを1キロいくらで買っています。左写真のような長い黒檀は、今は少なくなっているそうです。
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土産物つくりの組合(テックライソー)が作られていて、ロハール村、北スラスラン村、南スラスラン村、クロワン村などの人が加入しています。組合の目的は、土産物を作っているところを観光客に見てもらい、そして販売するという仕組みを整えることだそうです。この組合には、土産物を作る人だけでなく、観光客に牛車ツアーを提供している人たちも入っています。ロハール村では、土産物を作っている52家族、牛車ツアーを提供している10人が、組合に属しているそうです。組合のリーダーと副リーダーは選挙で選ばれますが、現在は二人ともロハールの人が選ばれています。組合へは、 売り上げの中から数パーセントを電話代他として収めます。
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ソックさんの家では、3年くらい前に店を始めました。店で売る品物は、奥さんが3日に1回くらいサールー市場へ行って仕入れてきます。1日に10ドルから15ドルくらいの売り上げがありますが、よく売れるのは子どものお菓子などです。
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ロハール村には、チューイ・クニア(家を作るときなどの「助け合い」)やプロワスダイ(田植えや稲刈りなどの「手伝い合い」)というしくみがあります。プロワスダイ(手伝い合い)は現在でも行われていますが、手伝ってくれた人数分を返さなければならないので、米つくりの仕事については、プロワスダイではなく、お金(賃金)を払って頼む人も多くなっているようです。2,3年前からは、田植えをしなくてすむ直播きの田も増えています。チューイ・クニア(助け合い)については、高床の住まいを高く持ち上げることが多く、1時間から2時間くらいの仕事なら、頼まれたら助けあうそうです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ロハール村の変化

ノコール・トム地区の範囲には、近隣の ロハール村、北スラスラン村、南スラスラン村、クロワン村、アラ・スワイ村、アンジャイ村の6カ村があります。今回は、ロハール村の2012年12月~2015年9月の間の変化を、村の店と村の集会所(コミュニティセンター)について見ていきます。ロハール村は、最初に地区がつくられたフランス保護国時代はコム・アンポール(「コム」はコンミューンの略語で「地区」の意味)に属していて、1988年頃に1年間ほどコークチョーク地区に属しましたが、1989年から新しく編成されたノコール・トム地区に属しています。初めてロハール村を訪れたのは、2012年12月でした。村の中にある一つの店舗は、ヤシの葉で編んだ壁面を持つ高床式の家屋の1階部分に、商品を並べていました。商品が雨でぬれないように、ヤシの葉で下屋のように張り出しが作られていました。DSC09665 - コピー

2013年3月に同じ店舗を訪れると、ヤシの葉で作られていた下屋が、赤いトタン板に変わっていました(左写真)。左写真で、ヤシの葉が3本立て掛けられているのは、日差しを防ぐためなのでしょう。2013年12月には、店の横に木材(板)がたくさん積まれていました(右写真)。店を改修するようでした。
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2014年9月に通ると、店は、ヤシの葉から板張りの壁面に改修されていました。店の横に置かれた古材の上には、鍋やまな板、魚焼き網などが置かれ、その横では鍋をのせたコンロで火が燃えていました。古材は、燃料として使っているようでした(左写真)。そして、2015年9月に撮影した店の様子が右写真です。古材も片付いて、すっかり新しい店舗になっていました。
ロハール村では、村内を巡る牛車ツアーによって、遺跡観光の人たちを村の中へと導いています。そのためでしょうか、村内には、改修された家屋が多く見られました。
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その変化に驚かされたのは、ロハール村と北スラスラン村の境に建つ集会所でした。 下2枚の写真は2012年12月に撮影した集会所です。壁面に数字の書かれた紙が貼られていたので、この時集会所で行われていたのは、融資などの説明会だったのかもしれません(左写真)。2013年12月に、私たちがアンケートを実施させてもらったのも、この集会所でした(右写真)。
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集会所の傍らに建つ小さな堂は、豊作を感謝して穀物を供える場所になっていました。子どもたちの遊び場でもあるようでした。
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2015年9月に訪れた集会所は、仏教寺院のような壁画で埋め尽くされていました(左写真)。そして、傍らにあった豊作を感謝して供えものをしていた堂内の奥の壁にも、閻魔大王を想像させる絵が描かれていました(右写真)。
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集会所の正面柱には、クメール文字の書かれたものが貼ってありました。そして、外壁には、天国と地獄図の壁画が描かれていました。
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ロハール村には、タノール集落にある寺院の一画にも集会所があります。この集会所の内側にも仏教壁画がありました。この集会所でもアンケートを実施させてもらいましたが、集落の人たちは、集会所の中に入ることなく、前庭でアンケート用紙に記入していました(2013年3月撮影)。
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スラスランの南に(ノコール・トム地区長事務所の北)に位置する南スラスラン村では、2012年12月時点で、集会所の一隅に仏像が描かれ、寺院の祈りの場のようになっていました。
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寺院を中心に形成されてきたカンボジアの村々は、今、地区長事務所や村の集会所を通して、「仏教国カンボジア」としての地方行政システムが構築されつつあるようです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ノコール・トム地区長事務所

シェムリアップ郊外の村で、寺院のような屋根をした赤い建物を見かけます。この建物は、地区を統括する地区長事務所と呼ばれています。すでに紹介しましたが、カンボジア地方行政のシステムには2系列があります。1つは、「州 (khet,province) -郡 (sork,district) -町 (khum,commune)」 、もう1つが、「特別市 (krong,municipality) -区 (khan,district/section) -地区 (sankhat,commune/quater)」 という系列で、地区長事務所は、後者の地区を単位として造られています。現在の地区は、フランス植民地時代に区割りされたものを、ポルポト政権が倒れた1978年以降に、政府が再編したものです。
掲載した地区長事務所の写真は、左から、トンレサップ湖手前に建つチョンクニエス地区長事務所、東メボン付近に見えた地区長事務所、そして以前紹介した西バライ北西に建つドーン・ケオ地区長事務所、そして、一番右が、今回紹介するノコール・トム地区長事務所です。地区長事務所は、外観も内部も同じ造りになっていました。
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ノコール・トム地区長事務所は、スラスランから500~600m南の道路沿いに建っています。この地区長事務所は、近隣の6つの村(ロハール村、北スラスラン村、南スラスラン村、クロワン村、アラ・スワイ村、アンジャイ村)を統括しています。他の地区長事務所と同様に、正面には、シハヌーク前首相夫妻の写真と、現首相の写真が飾られていました(以下7枚2013年3月撮影)。*スラスラン遺跡情報/ 位置:アンコールワットから約4km北東にある人造池/ 建立:10世紀半ばに開削。12世紀末ジャヤバルマン7世(1181~1220頃)治下に大規模な改修工事がなされる。
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中央部が、東西に吹き抜けになっているロビーで、ホワイトボードの前に机とイスが四角に置かれていました(左写真)。右写真でホワイトボードの前に坐っている男性が、地区長です。この場所で、会議をしたり、各団体からの支援などに対応しているようです。
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左写真は、副地区長と一緒に私たちに対応してくれた女性です。彼女の後ろに部屋が見えていますが、ロビーの両側には、各々2部屋づつあります。これらの部屋には、地区住民に関する書類などが保管されていて、地区の人々は、結婚届や独身証明書などが必要なときに地区長事務所に来るようです。内戦時代に失われてしまった人々の住民登録台帳を作成することが、地区事務所の大事な仕事の1つになっています。
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地区長事務所の南隣に、カンボジアの国旗が掲揚された建物がありました(左写真)。2013年12月に訪れた時には、北西方向に赤い建物があるのが見えました(右写真以下3枚2013年12月撮影)。木々に囲まれていた地区長事務所周辺は、周囲の木々が伐採され、道路から見通せるようになっていました。
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2013年12月には、朝9時少し前に地区長事務所に立ち寄りました。前庭に、オートバイが何台も停まっていました。地区長もオートバイに乗ってやってきました。公共交通のないシェムリアップでは、公務員の交通手段もバイクのようです。日中は30度前後になるこの時期でも、朝はひんやりとするので、地区長はじめみんな上着を羽織っていました。
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各地の地区長事務所は、地区の再編成がなされた1989年以降に設置されていくことになります。しかし、1991年に国連が入り、1993年に国会議員の選挙が国連の管理下で行われるまでは、社会情勢も不安定でした。またNGO等の援助が入る以前は、国中で施設の建設費等も捻出できる状態ではありませんでした。実際に地区長事務所の建設が始まったのは、2000年以降のことで、ノコール・トム地区長事務所は2005年から2006年にかけて建設されました。

写真/文 山本質素、中島とみ子

木材を積んだ車

国道6号線沿いに、テントを連ねて食堂や果物などを売る店が続いていました(2014年9月撮影)。テントの後ろに見える建物は、オールドマーケットのような市場になっています。ここは、ロレイ遺跡から国道6号線を南東へ20㎞ほど行った、Damdek(ダムデック)の町です。*ロレイ遺跡情報/ ヤショヴァルマン1世(889~910頃)が、父インドラヴァルマン1世によってロリュオス地方に開掘された人工池インドラタターカ(東西3.2km南北0.7km、貯水量1000 万㎥)の中心に893年に建立。
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食堂の先は、バナナやドリアンなどの果物が並び、テントの軒下にフランスパンが吊るされていました(左写真)。テントが途切れた脇道に、木材をびっしり積んだ車が停まっていました(右写真)。DSC083651 DSC08366

近づくと車に積まれた木材の上から、白い袋と斧を下の男性に渡そうとしているのが見えました。荷物を受け取ろうとしている男性は、ここで車から降りたようです。彼は、車の上の男性たちと一緒に、この大量の木材を伐り出してきたのでしょう。この車は、バンパーを外したトラックのように見えました。DSC08367 - コピー - コピー

木材の上で男性が定位置に戻ると、車は動き出し、シェムリアップ市街地の方へハンドルを切りました。そして、6号線からベンメリアへ向かう私たちの車とすれ違いました(右写真)。カンボジアでは、車が右側を通行します。
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道の両側には赤と白の杭が設置されていて、東側は、2、3階建ての建物の1階に店舗が造られていました(左写真)。一方西側は市場の西面に営業している店が並んでいます。市場は道路沿いに150m以上続き、赤と白の杭も市場の終わりまで続いていました(右写真)。
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ダムデックからベンメリア遺跡への道路が整備されたのは2004年のことです。現在はベンメリア遺跡まで1.5~2時間で行けるようになりましたが、整備前は3~4時間かかっていたそうです。*ベン・メリア遺跡情報/位置: アンコールワットから東へ直線距離で約40km/建立:碑文は見つかっていませんが、11世紀末から12世紀初めころの遺跡とされています。
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市場を過ぎて5分後、前に子どもを乗せた自転車の女性が、道沿いの家へ入っていきました(左写真)。道路整備によって、村人も自転車での通行が容易になったようです。さらに5分後に見かけた店の前には、井戸がありました(右写真)。
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2012年12月、2013年3月、2014年9月と、通ったベンメリア遺跡への道沿いでは、宅地造成が進み、新しい建物が造られていく様子が見られました。ダムデックですれ違った車に積まれた木材は、造成に伴って彼らが伐採してきた木々なのでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子

University of South East Aisa

ハイスクール・ロードを東へ行くと、アンコール・ハイスクールと道路を挟んだ北側に、University of South East Aisa があります。左右の建物が大学の校舎で、左の建物には図書室が入っています。この大学は2006年に開校したそうです。
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門を入ってまっすぐ進むと、ジャヤヴァルマン7世の像の奥に、インフォメーションセンターがありました。インフォメーションセンターに入ると受付があり、カウンターの中に3人の女性が坐っていました。
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彼女たちは、おそろいの白いブラウスを着ていて、学生のようにも見えました。受付の右手側にデスクがあり、男性と小さな女の子がこちらを見ていました。時間は12時少し前、女の子は学校帰りに父親(?)のところへ立ち寄ったという雰囲気でした。
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図書室のある建物へ向かいました。図書室では、パソコンを前に、調べ物をしている学生がいました。
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私たちが、カンボジアに関するデータの載っている本を探していると、司書の人も一緒に探してくれました。
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高校生を対象とした本の中に、データの載っているものを見つけました(左写真)。貸し出しが可能かどうかたずねると、パスポートを預かるシステムをとっているとのことでした。このときは、時間がなかったこともあり、あきらめましたが。翌日、空港で、同じデータの載っている英語版の本を見つけることができました。右写真のものはクメール語版ですが、英語版のものを購入しました。
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観光地の情報は、多く発信されるようになりましたが、カンボジアの生活文化に関する情報を掲載した本は、多くはないようでした。カンボジアの人々の中にある文化の記憶が、書物として蓄積されていくことで、カンボジアの未来はより豊かになっていくものと思います。

写真/文 山本質素、中島とみ子