シハヌーク・イオン博物館

アンコールワットの東南方向へ、直線距離で8㎞弱のところに建つこの赤い建物は、「プリア・ノロドム・シハヌーク-アンコール博物館」です。建設に際して、イオン1%クラブ (委員長、岡田卓也氏) の資金提供と上智大学 (上智大学長、石澤良昭教授) とアプサラ機構( カンボジア政府のアンコール遺跡地域整備機構) の協力を得たことから、日本人の間では「シハヌーク・イオン博物館」として知られています。2007年11月2日に落成式典が行われ、2008年1月から一般に公開されています。
参照:http://angkorvat.jp/doc/tch/ang-tch1460.pdf
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博物館の入口に、カンボジアの国章が掲げられていました。この国章は、カンボジア王室の紋章で、1953年のカンボジア王国独立の際に制定されたものです。
この紋章は、その後のクメール共和国(1970年- 1975年)時代に廃止され、クメール・ルージュ支配下の民主カンボジア(1975- 1979年)、ベトナム軍の支援を受けてクメール・ルージュを追放した後のカンプチア人民共和国(1979年- 1989年)、ベトナム軍撤退後のカンボジア国(1989年- 1993年)と、この紋章が用いられることはありませんでした。この紋章が復活したのは、ノロドム・シハヌークを国王とするカンボジア王国が誕生した1993年のことです。国章に描かれている動物(サポーター)は、向かって左が、ゾウの鼻を持つ獅子ガジャシンハ(gajasingha)、右にシンハ(singha、獅子)がいます。その間にある王冠は日の光を放っています。下部にある帯には、クメール語で「Preah Chao」(幸いな支配者)、「Krung」(国、王国)、「Kampuchea」(カンプチア / カンボジア)と記してあるそうです(参照:ウィキペディア)

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受付では、若いカンボジア人の女性が対応してくれました(左写真)。この博物館には、上智大学アジア人材養成研究センター によって、バンテアイ・クディ遺跡から発掘された(2000年~2001年)ジャヤヴァルマン7世(1181~1220頃)治世の仏像が、保存・展示されています。またタニ窯跡群から出土した陶器も保存・展示されています(右写真)。*バンテアイ・クディ遺跡情報/ 位置:アンコールワットから約4㎞北東。スラスランの西/ 建立:12世紀末、ジャヤバルマン7世治下の仏教寺院。
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博物館1階のロビーには、1、TRADE AND EXCHANGE 2、Trade & Exchange Routes 3、Regional & International Trade について、クメール語と英語で説明された大きなパネルがありました。パネル下部に描かれていた、海上貿易のために船で海に乗り出した人々の様子や魚の線画は、とても面白いと思いました。
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パネルには、貿易・交易ルートの示された地図もありました。KHMERの東にはCHAMPA、その上にDAI VIETがあり、地図の右上には、日本のHAKATAも記されていました(左写真)。右写真の①絵図には、カミシモを着た武士の姿も見えました。
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現在博物館には、バンテアイ・クディ遺跡で発見された274体のうち、約半数ほどが展示されているそうです。DSC08567

階段を上った2階がメイン展示室になっています。多くの仏像が瞑想像であり、禅定印を結んでいるところは、日本の仏像と似ていましたが、大きく異なるのは、台座と光背がナーガのものが多く見られたことでした。
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バンテアイ・クディからは、274体の仏像が見つかりました。碑文によれば、プリア・カンには430体におよぶ仏像が、タ・プロムには283体の仏像が祀られていたようです。それらの多くの仏像は、奉納されたものと考えられています。奉納したのは、ジャヤバルマン7世をはじめとする王族たちや、その臣下、さらには、地方の領主にまで及んでいたのでしょうか。

写真/文 山本質素、中島とみ子

バンテアイ・クディ

両側にずらりとトゥクトゥクが停まっているこの場所は、バンテアイ・クディ(写真右側)とスラスラン(左側)の間を通る道路です。アンコール遺跡が集中しているこの周辺は、小回りツアーとして多くの観光客が訪れます。右に、アンコール遺跡ツアーの小回りコースとしても紹介されている地図を掲載しました。(http://www2m.biglobe.ne.jp/ZenTech/world/map/Cambodia/Angkor-Wat-Map.htm)。バンテアイ・クディはアンコール・トムの東方向、アンコールワットの南東方向に位置します。バンテアイ・クディは、仏教徒の国王ジャヤヴァルマン7世が12世紀末に、ヒンドゥー教寺院を仏教寺院として改修したものです。北東に隣接しているタ・プロムは、ジャヤヴァルマン7世によって創建された仏教寺院です。
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バンテアイ・クディは 「僧房の砦」という意味を持ち、東西700メートル、南北500メートルで、四重の周壁に囲まれています。 ラテライトで囲まれた周壁に、四面の観世音菩薩が彫られた東塔門が立っていました。四面の観世音菩薩は、タ・プロム寺院、アンコール・トム南大門、そしてバイヨン寺院に共通するもので、一般にはバイヨン様式と呼ばれています。DSC062601

参道の先に、第三東塔門と十字形テラスが見えてきます(左写真)。テラスの前にシンハの像、周りを囲むナーガの欄干から水を湛えた環濠が見えました(右写真)。ナーガはインド神話(ヒンドゥー教)から仏教の世界に竜王として取り入れられ、仏法の守護神とされています。ナーガの頭の上にはガルーダが乗っていました。
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第三東塔門の両翼には、デヴァターやドヴァラパーラのレリーフが残り(左写真)、塔門の破風には、アプサラのレリーフがありました(右写真)。
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バンテアイ・クディの平面図です(参照:http://angkor.gogo.tc/angkor/banteay-kdei.html)。図の右側が東です。東塔門から参道を進むと、十字型テラスに至ります。その先にある塔門が第三東塔門で(上写真)、その塔門を抜けると石畳の参道になり、その先に前柱殿(前殿)があります。そして第二東塔門、第一東塔門の先に中央祠堂が建っています。西には、第三西塔門とテラスがあります。

第三東塔門の中は十字回廊になっていて、五色の飾りの下がる奥に、金色の衣をまとった仏像が祀られていました。この仏像は、後世なって持ち 込まれたもののようです(左写真)。第三東塔門を抜けると石畳の参道の先に、前柱殿が見えました(右写真)。
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写真は、前柱殿から中央祠堂方向を臨んだところです。前柱殿や第二東塔門、第一東塔門の塔(屋根)の部分は崩れてしまっているので、開放感のある通路になっていました。重なる入り口の向こうに見える塔も、崩れないようにワイヤーがまかれていました。
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柱には、踊る天女アプサラが彫られていました。バイヨン寺院のアプサラのレリーフとよく似ています。
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崩れそうに傾いた回廊のところどころが、赤く染まっているように見えました。その色は、当初回廊に塗られていたウルシが残っているのだそうです(左写真)。第二西塔門の内部に、頭の落とされた仏像が祀ってありました(右写真)。
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中央祠堂(左写真)と第三西塔門(右写真)です。
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ガイドさんが、「ここからが、一番の写真スポット」と教えてくれたのが、第二回廊と第二西塔門を、南西から臨む場所でした。ガジュマルの木が遺跡に食い込んでいる様子は、タ・プロムのようでした。
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バンテアイ・クディの魅力の1つは、ヒンドゥー教寺院から大乗仏教寺院へ、そして廃仏を経た歴史にもあります。ジャヤヴァルマン7世(1181~1220頃)が、ヒンドゥー教様式から仏教様式に改修した際に、リンガの多くは撤去され、その後、ジャヤヴァルマン8世(12431295)の廃仏埋納作業により、仏像は破壊されたり、埋められたりしました。そして今、寺院内では、仏像が祀られる一方で、リンガの台座(ヨリ)も祀られています。左写真は、西参道に置かれていたリンガで、右写真は、前柱殿付近の参道に置かれていた仏像の台座です。
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上智大学のアンコール遺跡国際調査団によって、バンテアイ・クディからたくさんの仏像が発見されたことは、この遺跡が経てきた数奇な歴史だけでなく、カンボジアの人々の宗教について考える際の、大きな材料を与えてくれました。

写真/文 山本質素、中島とみ子

アンコール遺跡国際調査団

シェムリアップ川が国道6号線に交わる近くに、上智大学アジア人材養成研究センター (上智アジアセンター)があります。高床式の建物が2棟続くこの研究センターは、破風の部分にヤシの葉が使ってあり、2階にはすだれがかかっていました。
この上智アジアセンターの前身であるアンコール遺跡国際調査団は、1980 年に再開されたアンコール遺跡管理事務所を支援するかたちで始まり、内戦中にも兵隊に守られて遺跡保護の応急工事などを手伝ってきたそうです。2002年に設立された上智大学アジア人材養成研究センターは、カンボジアに本部を置き、「アンコール遺跡国際調査団活動基本理念」に基づいて活動しているそうです。(参考 :http://angkorvat.jp/history.html
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上智アジアセンターの具体的な活動としては、(1)遺跡の調査研究と保存修復、(2)カンボジア人の専門家の養成、(3)「遺跡・村落・森林」の共生、の3プロジェクトに分けられます。
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アンコール遺跡国際調査団(上智アジアセンター)は、1991年3月から実習研修の一環として、バンテアイ・クデイ寺院での発掘 調査活動を行っていましたが、2001年に、200体以上の仏像を発見しました。たくさんの仏像が埋まっていた場所は、バンテアイ・クデイ寺院の東門を入り、200メートルほど行った、ラテライトが敷かれた参道の脇でした。*バンテアイ・クディ遺跡情報/ 位置:アンコールワットから約4㎞北東。スラスランの西/ 建立:12世紀末、ジャヤバルマン7世治下の仏教寺院。
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上の写真で、ラテライトの敷かれた参道の右奥の小さな建物(D11と呼ばれる)付近が発掘された場所です(左写真も)。2000年に偶然1体の仏像を発見し、2001年3月に再びここを発掘したところ、274片という大量の石像が見つかったそうです。案内板には、発掘時の様子が掲示されていました(右写真)。
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バンテアイ・クディ遺跡での発掘調査は、カンボジア人の専門家を養成する活動として行われたものでした。アンコール遺跡国際調査団(上智アジアセンター)は、「自然 (森林) と文化 (遺跡)、人々 (地域住民)」、この3つの共存と、「カンボジア人による、カンボジア人のための、カンボジアのアンコール遺跡の保存修復」を掲げています(参照:http://angkorvat.jp/doc/tch/ang-tch1530.pdf)。その一環として活動する中で、多くの仏像が発見されたことは、遺跡の保存修復を担っていくカンボジアの人々にとって、とても有意義な経験になったでしょう。これら発掘された仏像は、集められて、人為的に埋められていたと考えられています。現在、出土品は、シハヌーク・イオン博物館に展示されています。
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上智アジアセンターでは、アンコール遺跡地域に住む周辺住民に対する文化遺産教育活動も行っているそうです。シハヌークイオン博物館に展示されていた写真には、バンテアイ・クディ遺跡と出土品、そしてその下に、地域の小学生たちが発掘時の様子の説明を聞いている写真や、シハヌークイオン博物館に展示されている出土品の説明を受けている写真がありました。文化遺産教育の目的は、カンボジア人が自らの文化遺産の重要性を認識し、自分たちで遺跡の保存修復をおこなえるようになることです。そのために、次の世代を担う子どもたちが、このような教育の機会を与えられることは、とても意義のあることに思えます。2011 年12 月には、バンテアイ・クデイ内に「アンコール文化遺産教育センター」が開設されています。DSC08555

上智アジアセンターは、調査の目的をバンテアイ・クデイ寺院が建てられてから現在まで、どのように人々に利用されていたのか、その歴史を明らかにすることとしています。現在、バンテアイ・クデイ寺院の遺跡メンテナンスの清掃活動や建物のサポート活動は、周辺の村人たちによって行われています。上智アジアセンターの活動によって、村人たちは、「石の家」と呼んできた遺跡が、自分たちの歴史を語る文化遺産であることに気付きはじめているようです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

僧侶と遺跡

2013年3月21日、日の出を見るために朝早くアンコールワットへ行きました。日の出を見るツアーは、年間を通して行われていますが、アンコールワット中央塔の真上に昇る太陽を見ることができるのは、1年のうち春分の日(2013年は3月20日)と秋分の日(9月23日ころ)の2回です。
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その日の午後、タ・プロム遺跡に行きました。アンコール遺跡で、僧侶を見かけることはこれまでもありましたが、タ・プロムでは、何人ものオレンジ色の僧衣を身にまとった人たちを見かけました(右写真)*タ・プローム遺跡/位置: アンコールワットから北東へ直線距離で4km弱/建立: ジャヤヴァルマン7世(1181~1220頃)が仏教寺院として創建。後にヒンドゥー教寺院に改修される
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僧侶たちは、大きなガジュマルの木が覆いかぶさっている祠堂入口の前で、記念撮影をしていました。アンコール朝初の仏教を信奉した王(ジャヤヴァルマン7世)が建立したタ・プロムは、彼らにとって、特別な意味を持つ遺跡なのかもしれません。DSC02431

僧侶たちに付き添うように、白い上着姿の男性たちが一緒に廻っていました。ガイドさんかと思いましたが、僧侶たちの属する寺院で働いている人たちかもしれません。以前、タイの僧院を訪れた時に出会った人たちも、白い上着を着ていました。
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カンボジアでは一生に一度は出家するのが望ましいとされているために、短期の出家をする人が多いそうです。タ・プロムで出会った僧侶の何人かは、一時出家僧かもしれません。
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修復中の前柱殿(左写真)でも、東門付近(右写真)でも、オレンジ色の僧衣は、ひときわ目をひきました。この日が3月21日だったので、仏教と春分の日との関連について調べてみました。日本では、春分の日の太陽が真東から登る日を中日〔ちゅうにち〕として、その前後3日間を「彼岸」と呼びます。彼岸という言葉は仏教用語からできたものですが、彼岸に先祖の墓参りなどを行うのは、他の仏教国には無い日本固有の信仰だそうです(参照:http://iroha-japan.net/iroha/A05_zassetsu/03_higan.html)。
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東門の前に僧侶たちが集まっていました。よく見るとその輪の中に、少年と少女がいました。離れた場所からでしたが、彼らの雰囲気から、僧侶が2人の子供たちに説教を施しているように感じました。アンコール遺跡で、土産物などを観光客に売る子供たちがいますが、ここタ・プロムでも、参道で観光客に声をかけて土産物を売る子供たちの姿を見かけました。
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東塔門手前の参道脇で、僧侶たちが休んでいました(左写真)。僧侶が少年に話しかけていましたが、少年の腕には何本もの腕輪が見えました(右写真)。少年は、土産物を売っていたようです。カンボジアでは、7歳から14歳の子どもの半分以上(140万人以上)が経済活動に従事しているそうです。(出典:’Child labor surges with building boom’, Phnom Penh Post 2008年5月16-29日号)参照:http://panasonic.co.jp/citizenship/welfare/ryukoku_kouza/series_1/index_12.html 
2013年7月4日の「カンボジア 児童労働根絶へ」のニュースは、「カンボジア労働省は複数の非政府組織(NGO)などと協力して「教育と生活を通じた搾取的児童労働の根絶プログラム」を実施する」と発表しています(参照:http://www.sankeibiz.jp/macro/news/130704/mcb1307040601026-n1.htm)。
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遺跡で土産物を売る子供たちについて、重労働ではないからと見過ごされがちですが、子どもたちが学校へ通えているか、また、強制と搾取が行われているかという点から児童労働の問題として考えなくてはならないでしょう。僧侶たちは、地域の人々を見守る大きな役割を担っているようです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

タ・プロムの修復

タ・プロム遺跡について、前回(西塔門から)、前々回(東塔門から)紹介してきましたが、今回は修復作業の様子を、2012年12月と2013年3月の写真で紹介していきます。*タ・プローム遺跡/位置: アンコールワットから北東へ直線距離で4km弱/建立: ジャヤヴァルマン7世(1181~1220頃)が仏教寺院として創建。後にヒンドゥー教寺院に改修される。
左写真はタ・プロム寺院の東門で、この東門を入ったところで、前柱殿の修復作業が行われていました。『地球の歩き方 10〜11 アンコール・ワットとカンボジア』掲載のタ・プロムの平面図に記載された右側の赤い斜線部分が、前柱殿の修復中の箇所にあたります(右写真)。
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東門を入ると、前柱殿があったとされる場所に、工事車両が置かれ、たくさんの作業員が修復作業の真っ最中でした。写真の中央奥、観光客が出入りしている場所が東門の裏側(西面)です。東門を入った観光客は、修復作業を見ながら、設置された板張りの順路を進んでいきます。
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パラソルの下では、石を彫る人たちも見えました。ポルポト政権下では技術者も排除の対象とされたために、技術を伝承する石工さんたちは少ないと聞きました。彼らの手元をよく見ると、石に文様を彫っていました。遺跡の修復作業は、技術者の養成と技術の伝承を担う場としての役割ももっているようです。
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修復の進む前柱殿は、残されたデバターの像や石の文様を頼りに、欠けている部分を新しく加えながら、まるでジグゾーパズルのような作業が行われていました。
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重い石の運搬や設置にクレーン車や現場用の機械などが使われていました。
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左写真は2012年12月、右写真は2013年3月21日に撮影した同じ場所です。修復は、少しずつですが着実に進んでいるようでした。
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日よけシートの間から、何本もの石柱が組まれている様子も見えました。
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タ・プロム遺跡の修復は、インドの協力によって行われています(左写真)。これまで行われた修復箇所のBEFOR AFTER の写真が掲示されていました(右写真)。
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①3rd ENCLOSURE Gallery, EAST, SOUTHERN WING(第3回廊、東門、南翼)
②ENTRANCE GOPURA ON 5th ENCLOSURE WEST(第5周壁西塔門のGOPURA)『地球の歩き方』の平面図(2008年)に記された左側の赤い斜線部西塔門は、2012年時点では、すでに修復を終えていました。
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③TOWER ON CENTRAL AXIS(中央祠堂の塔)DSC06401 - コピー (2)

④CAUSEWAY BETWEEN 3rd & 4th ENCLOSURE WEST(第3から第4周壁へのテラスと西門)
『地球の歩き方』の平面図(2008年)に記された左側の赤い斜線部部のテラスと西門も、修復を終えていました。
⑤ENTRANCE GOPURA ON 4th ENCLOSURE WEST(第4周壁の西入口のGOPURA)
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タ・プロム遺跡で、観光客の目を惹くのは、周壁や回廊、塔の上に生えているガジュマルの木です。左写真の回廊の上で成長した木は、その根を切られていて、それを支えるために何本もの鉄骨が設置されていました。左隅の仏陀の彫刻を見られるように修復されたのでしょうか(左写真)。右写真のガジュマルの木も、回廊の屋根を崩し、生き物のように石の上を延びています。
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タ・プロム遺跡の修復計画に関して、議論が行われていたそうです(2006年10月現在)。それは、巨大なガジュマルの木は遺跡を破壊しているのか、それともいまや遺跡を支えているのかという議論です(参照:ウィキペディア)。タ・プロム遺跡で、塔を覆っているガジュマルの木や、塔の間に分け入っている様なガジュマルの木を見ると、こうした議論の必要性がわかります。

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タ・プロム遺跡の魅力の1つは、人間が造った文明 と、ガジュマルの木に見る自然の生命力が、微妙なバランスで、共存しているところにあるのでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子

東塔門からのタ・プロム

タ・プロム遺跡を2度目に訪れた際には(2013年3月)、東側から入りました。今回は、この時の写真を中心に紹介していきます。*タ・プローム遺跡情報/位置: アンコールワットから北東へ直線距離で4km弱/建立: ジャヤヴァルマン7世(1181~1220頃)が仏教寺院として創建。後にヒンドゥ-教寺院に改修される。
東塔門付近の案内板の周りに見える人々の多くは、土産物を売るために集まっているようでした。その先に東塔門があり、観光客が入っていきます。タ・プロムの正面入り口は東塔門ですが、こちらから入る観光客は、西塔門ほど多くないようです。DSC02400[1]

現在、この東塔門は崩れたままで周囲に石が積み上げられていました。左右には、デバターのレリーフが残っていましたが、上部は崩れてなくなっていました。右写真は、東塔門の内側から外に向かって写したものです。両側の壁面から推察すると、大きな塔門だったのでしょう。
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東塔門に続く参道の両側にも、ガジュマルの木が立ち並んでいました(左写真)。地面から生えているように見えますが、実際は他の木の周りに気根を垂らして、幹のように成長したガジュマルの木でした。気根は地面に届くと自生しはじめるので、結果として、元の木を枯らしてしまいます。そのために、ガジュマルの木は、絞め殺しの木ともいわれているそうです。右写真のガジュマルの木の、中が空洞になっているのも、そうした経緯を経たからなのでしょう。東門の脇を通って寺院の中へ入りました(右写真)、
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下2枚の写真は、2012年12月に撮影したもので、遺跡修復のためにガジュマルの木が切られていました。木に絡みついているガジュマルの木の左上が伐採されていたり(左写真)、周壁に絡まるガジュマルの根(幹)が伐採されて、その切り口を見ることができました(右写真)。1年を通して熱帯性気候のカンボジアで生育するガジュマルの木の断面に、年輪らしいものは見られませんでしたが、円形に成長した根では、黒っぽい外側と、明るい内側との区別が見られました。
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『地球の歩き方 10〜11 アンコール・ワットとカンボジア』から、タ・プロムの平面図を再掲載しました。東門を含めた赤い斜線の修復箇所は、2013年3月に訪れた時も修復工事が続いていました。そのため、観光客は、桟橋のように作られた順路を進むことになります。
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順路は、周壁をまたいで前柱殿の内側にも続いていました(左写真)。シートの中に、修復されつつある前柱殿が見えました(右写真)。
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東門から前柱殿にかけて行われていた修復の様子(左写真)は、次回紹介する予定です。私たちは、山積みになった石の横を通って、東側入口の塔門へと向かいました(左写真)。
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回廊や祠堂の入口のまぐさ石(リンテル)には、仏像のレリーフが見られました。
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中央祠堂を囲む回廊)に並ぶデバター(左写真)の中に、印を結んだような手の形をしているものが見られました(右写真)。
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デバター像を注意して見ていくと、観世音菩薩のような顔をしたものがありました。日本国政府アンコール遺跡救済チーム(JSA)の調査では、バイヨンの観世音菩薩像の尊顔は全部で173 現存し、デーヴァ(男神)、デヴァター(女神)、アシュラ(悪魔)の3種類に分類できるとされます。これらのデバターは、バイヨンの観世音菩薩を彫った石工さんたちの手によるものなのでしょうか。*バイヨン遺跡情報/位置:アンコールワットの約1.5㎞北に位置するアンコール・トムの中央/建立;ジャヤヴァルマン7世(1181~1220頃)がアンコール・トムの中心寺院として創建。
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タ・プロムを建立したジャヤヴァルマン7世の宗教観について、遺跡内の説明板には、「広義としては明らかに大乗仏教の範疇ですが、より厳密にいうと、ジャヤバルマン7世の代に特異なクメール仏教の理念」であると記されていました。ラテライトの周壁に囲まれた、東西1000メートル南北700メートルという広大な敷地内では、クメール仏教の下、さまざまな位階に分かれた僧侶など、たくさんの人々が集まって暮らしていたのでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子

西塔門からのタ・プロム

タ・プロム遺跡には、2012年12月、2013年3月、2013年8月の計3回訪れました。今回は、2012年12月のタ・プロム寺院の西塔門から中央祠堂付近の写真を中心にを紹介していきます。タ・プロム遺跡は、アンコールワットから北東へ直線距離で4kmほどのところにあります。アンコール・トムを造営し、バイヨン寺院を建立したアンコール朝21代目の王ジャヤヴァルマン7世(1181~1220頃)が、12世紀末(1186年)に、母の菩提を弔うために建立した仏教寺院がタ・プロムです。この寺院は、創建当初「ラジャヴィハラ(王家の僧院)」と呼ばれていましたが、今日では「タ・プロム(プラーフマ翁)」として知られています。
観世音菩薩が四面に彫られた西塔門と、ラテライトの外周壁は、アンコール・トムの南大門と類似していました。

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タ・プロム遺跡の西塔門から続く参道沿いには、ひときわ目立つガジュマル(榕樹・スポアン)の木がありました。ガジュマルという呼び名は、沖縄の地方名で、「絡まる」という意味をはじめ、『風を守る』⇒『かぜまもる』⇒『ガジュマル』となったという説があるそうです。榕樹はガジュマルの漢名、スポアン(Spung)は英名です。ここでは、ガジュマルの木と記述します。
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参道を進むと、やがて西門に続くテラスに至ります。左写真はテラスの欄干を飾っているガルーダの彫刻です。ガルーダは、人間に翼が生えた姿で描かれ、両脇には翼のようにナーガが彫られていました。インド神話では、ガルーダ族は、人々に恐れられるナーガ族と敵対関係にあり、それらを退治する聖鳥として崇拝されているそうです(参照:ウィキペディア)。右写真は、左右両翼をもつ西門です。
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タ・プロムの平面絵図は、『地球の歩き方10〜11アンコール・ワットとカンボジア』に掲載されていたもので、2009年8月当時の遺跡の修復箇所や見どころなどが記されています。私たちが訪れた2012年12月には西塔門、そしてテラスと西門は修復が終わっていました。

左写真は、西側入口の塔門とそれに続く回廊です。回廊の壁面には、仏像のレリーフが削り取られた痕跡が見られました(右写真)。上の平面図でブルーに塗られた箇所に、こうした削り取られた跡が残っているようです。
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ジャヤヴァルマン7世(1181~1220頃)が仏教寺院として創建したタ・プロム寺院は、2代後の王ジャヤヴァルマン8世(1243~1295)の治世に行われた廃仏政策により、ヒンドゥー教寺院へと改修されました。回廊屋根のリンガもその際に付けられたのでしょう(左写真)。崩れ落ちて地面に埋まったリンガもありました(右写真)。
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回廊には、デバダーや連子格子の窓などが残っていました。
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さらに中に入ると、観光客が集まっている一画がありました。見ると、回廊の上に巨大なガジュマルの白い幹が絡みつき、縦横無尽に伸びたその根の上に、回廊の屋根に乗りかかるようにガジュマルの木が立っていました。ガイドさんたちは、「ここが絶好の撮影ポイント」と言って、案内している観光客をその前に順番に立たせて記念撮影をしていました。
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中央祠堂東側の伽藍には、たくさんの気根を絡ませたガジュマルの木がそびえたっていました。
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回廊には、何体ものデバターが見えましたが、観光客のカメラは、入り口のまぐさ石に刻まれた仏像を覆い尽くそうとするガジュマルの根(気根)に向いていました(左写真)。そして、まさに仏像の彫刻を覆い尽くそうとしているガジュマルの木もありました(右写真)。
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タ・プロム寺院建立から約800年、アンコールの都が放棄された1431年頃から約600年。遺跡を覆っているガジュマルの木は、いったいどれくらいの時間を経てきたのでしょうか。
ちなみに、日本でガジュマルを育てた人によると、手のひらサイズのものが、5~6年で1メートル以上に成長するそうです。カンボジアの気候では、それをはるかに超える速さでガジュマルの木は成長していると思われます。

写真/文 山本質素、中島とみ子

遺跡と暮らす(タ・プロム)

2013年3月のタプロム遺跡東入り口付近の光景です。観光客を乗せてきたトゥクトゥクが何台もとまっています。*タ・プローム遺跡/位置: アンコールワットから北東へ直線距離で4km弱/建立: ジャヤヴァルマン7世(1181~1220頃)が仏教寺院として創建。後にヒンドゥー教寺院に改修される
写真左隅に、伝統楽器スコーとトローが見えます。傍に坐っている女性が、土産物として売っているのでしょう。

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遺跡の東塔門から入ると、参道の脇に、自転車に乗った制服姿の若い女性の一団にあいました。この緑の制服は、行政と契約したフランスの企業に所属している清掃員であることの証です。手に手に、ホウキやチリトリを持った彼女たちは、カメラを向けると、笑顔を返してくれました。
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東塔門を入ると、2人の少女を見かけました。1人は土産物の入った籠を下げ、もう1人は絵葉書を胸に抱えてるように見えました。そして、大きなカジュマルの木の根元には、スコーとトローが並べられていました。
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タプロム遺跡の東に位置するロハール村ロンタオ地区で、すでに紹介したように(前回、前々回)、こうした伝統楽器スコーとトローが制作されています。これらも、ロンタオの人たちが造ったものなのでしょうか。右端のスコーは、胴の部分に彫刻が施されていました。
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2012年12月には、タプロムの西門から入りました。参道の木陰で音楽を奏でているのは、地雷等により負傷した人々の楽隊です。彼らのうちの右から2番目の男性と1人置いた左の男性が手にしている楽器は、トローでした(左写真)。その先の参道では、トローとスコー、それに仏像が並んで売られていました(右写真)。
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遺跡の中では、タ・プロムを描く青年(左写真)や、手作りの腕輪(ブレスレット)を売る女性を見かけました(右写真)。
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2013年8月の西塔門付近の駐車場には、スコーを抱えて観光客に声をかける青年や少年の姿がありました。
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タ・プロム遺跡に並ぶ伝統楽器スコーやトローの多くは、遺跡のすぐ東にあるロンタオ地区(ロハール村)の人々による手作り品なのでしょう。、訪れる観光客にとって遺跡に並ぶ土産物品は、その地域の文化を知る手掛かりとなり、また、そこで暮らす人たちの生活をより身近に感じさせてくれる力になっています。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ロンタオ地区の住居

ロハール村は、東からロハール、ロンタオ、コースノール、そして北のタノールと4つの地区で構成されています。*ロハール村情報/位置:アンコールワットから約4㎞北東、バンテアイ・クディの北側。西はタ・プロムに接し、東は北スラスラン村と接している。
ロンタオは、楽器村として紹介しましたが、ロハール本村の西に位置する地区です。DSC01379

ロンタオ地区の北入り口付近で、畑の中に屋根だけをかけた小屋が見えました(左写真)。カンボジアでは、土葬をする場合にこうした屋根をかけると聞きました。道沿いに、屋敷内にストゥーパが建っている家があったので、立ち寄らせてもらいました(右写真)。
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ストゥーパ(仏塔)は、一般にインドの墓のことを指します。カンボジアでは、死者のほとんどが火葬され、寺のストゥーパに収められるようですが、この家では、屋敷内にストゥーパを持っていました。そばには野菜畑があり(左写真)、屋敷の一隅には井戸がありました(右写真)。DSC01367 DSC01369

綿の木もありました。3月のこの季節、カンボジアの綿の木は、花が咲いているものや(左写真)、殻がはじけて中から綿が出ているものがありました(右写真)。右写真には、大きなつぼみも見えています。
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ロンタオ地区でも、高床式の住居が多く見られます。庭には大きな水瓶や(左写真)、荷車などが置いてありました(右写真)。
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高床式の家屋は、壁面をヤシの葉で葺いた住居や、ヤシの葉とトタン板の壁面の家、板張りの家屋など様々でしたが、床下の1階部分は吹き抜けにして、生活の場になっていました。そして、ヤシの葉で屋根を拭いた簡単な楽器作りの作業小屋もありました。
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多くの屋敷内には、井戸やネアクタ(小祠)も見られ(左写真)、また、炊事場などがあります(右写真)。
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炊事場は、地面にカマドが作られ、台の上に食器などが置かれていました。写真は、スコーづくりの小屋に隣接している炊事場です。
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ロンタオ地区には、中国系の人たちも住んでいます。その住居は、1階部分も壁面で囲ってあり、比較的新しいように見えました。左写真の家屋の入口には、中国風の紙飾りが入口に下げられています。右の写真の家の入口の上にも、同じ紙飾りがみえました。そして中国の民族衣装を着た女の子の絵が貼ってあります。
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前回紹介した、トローを製造販売している家の中にも、同じ紙飾りがありました(左写真)。右写真は、その家の外観です。この家の井戸は、電気で水をくみ上げる装置がついているようでした。
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部屋の中には、ディスプレイやステレオなどの電化製品がおかれていて、日本でも使われている待機電力を無くすための4個口のコンセントにコードが差し込まれていました。
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そして、レンガ造りのキッチンには、多くの鍋に混じって、中華鍋が壁にかかっています。カマドや、携帯用のガスボンべコンロもありました。
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ロンタオ地区には、カンボジアの伝統的な高床式の住居に混じって、新たな2階建ての住居が見られました。楽器作りによる収入が、この地区の住居や生活に変化を与えているようです。

写真/文 山本質素、中島とみ子