クメール伝統織物研究所2013

オールド・マーケット・ブリッジから南へ700mほど下流に、クメール伝統織物研究所があります。下の2枚の写真は、2013年12月に伝統織物研究所の前で撮影したシェムリアップ川です。左写真が上流方向で、右写真が下流方向です。下流には、水門が見えています。
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クメール語と英語と日本語で書かれた看板には、「IKTT  Institute for Khmer Traditional Textiles  クメール伝統織物研究所 」という文字が読めました。この施設は、ユネスコから委託されて、 1995年にカンボジアの伝統的な絹織物の現況調査を担当した森本喜久男氏により、1996年に設立されたものです(右写真)。
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敷地内には、ここで働く人たちの自転車やオートバイが停めてありました(左写真)。すだれの日よけが大きく張られた建物の1階部分が作業所で、二階が店舗になっていました(右写真)。
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二階へ上がるときに、通った一階の作業場には、機織り機が並んでいましたが、人の姿はありませんでした。糸繰機もあり、柱には、ビニール袋に入った糸が吊るしてありました。1時20分ごろでしたので、昼休みなのかもしれません。
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二階の店舗には、タペストリーやスカーフ、ハンカチーフなどの製品がきれいに飾り付けられていました。
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ここに飾られているスカーフなどの絹製品は、繭からの製糸、染色 織りまで、すべてここで行われています。 染色には、 自然の植物等が使われ、アーモンドやココナッツヤシに混じって、ラック・ウイガラムシの巣もありました。ビンの中には、日本やカンボジア、タイなどの繭が入っていました。(左写真)。
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森本氏は、その設立趣旨の中で、「200種類以上もあったとされる伝統の絣のパターンも、その記憶の担い手とともに失われつつある。かつては村のなかで調達できた生糸も染め材も今はない。(中略)伝統織物にかかわるあらゆるものを収集・記録し、次の世代に残す必要がある。同時に、その復興と再生を促し、伝統の活性化を図ることが切に望まれた」http://ikttjapan.blogspot.jp/p/iktt.htmlと述べています。
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カンボジアでは、多くの文化と同様に、内戦の間に織物製作の技術も途絶えてしまったようです。生活文化は、変化しながら継承されていきますが、強制的な生活文化の断絶は、生活面だけでなく、人々の精神面にも大きなダメージを与えます。カンボジアの人々の生活の一部であった織物が、今、伝統織物として継承されて行く重要性を思いました。

写真/文 山本質素、中島とみ子

World English School

オールド・マーケット・ブリッジから下流へ400m、、河川整備の進むシェムリアップ川の西岸に屋台が出ていました。この場所は学校の門の前です。校門から出てきた、制服を着た男の子たちが買い物をしていました(2013年12月撮影)。時間は2時少し前。屋台には、飲み物の入った瓶や、食べ物の入っているらしい鍋ものっていました。写真の男の子は、買い物をしたお釣りをポケットにしまっているところでした。DSC02428

廻り込むと、そこにはたくさんの品物を積んだトゥクトゥクが停まっていました。スカーフやボール(左写真)、そして、反対側にはおもちゃの自動車、水鉄砲などに混じって、携帯電話のおもちゃなどが、所狭しと吊るしてあります(右写真)。
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校庭の中から屋台を覗いている小さい生徒たちがいました。彼らは、まだ、お小遣いを持たせてもらえていないのでしょうか。この学校の門のところには、World English Schoolと書かれていました。
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屋台で買ったものでしょうか、校庭では、食べ物を手にして食べている女の子たちが見えました。
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緑色のビニールボールを持った男の子が友達を集めて、場所を確保して、始めたのはバレーボールでした。
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バレーボールは、カンボジアで人気のスポーツらしく、ロハールなどの村々でも、ネット代わりのひもが貼られたコートを見かけました。
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カンボジアの多くの小学校は、教員数不足や教員の経験不足などから、体育の授業はないそうです。2006年2月から、カンボジアでの小学校体育科教育振興プロジェクトが日本の支援で行われ始めています(参照:http://www.jica.go.jp/partner/kusanone/partner/cam_11.html)

写真/文 山本質素、中島とみ子

シェムリアップ川の河川整備

シェムリアップには、これまで計5回(2012年12月~2014年9月まで)訪れていますが、この間にも、ホテル等の建設ラッシュなど、 シェムリアップが観光地として大きく変わっていく様子が感じられました。今回は、シェムリアップ川沿いで進められる河川敷整備の様子を紹介していきます。 下2枚の写真は、2013年12月5時ごろのシェムリアップ川東岸、ワット・ポー・ブリッジ付近の河川敷です。耳にイヤホーンをつけた女性がベンチでノートを読む姿や(左写真)、木陰のベンチに座る人たちの姿を見ることができました(右写真)。シェムリアップ川の河川敷は、人々にとって憩いの場所になっていました。
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オールド・マーケット・ブリッジ付近は、河川敷の整備が行われたようで、西岸に最近つくられたアートセンター前の街路樹は、まだそれほど大きくなっていませんでした(左写真)。オールド・マーケット・ブリッジ南、東岸の河川敷には、ベンチが設置されていました。
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2013年12月の時点、オールド・マーケット・ブリッジの下流では、河川敷の整備が進んでいました。
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オールド・マーケット・ブリッジから500mほど下流、ゆるく蛇行したシェムリアップ川西の河川敷でも、整備が進んでいました(ab)。
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上2枚の写真でaの場所は、2014年9月には、その広さを利用したリトル・パークとなり(下左写真A)、路肩に堰板を建てて工事していた場所(b)は、黄色と白に塗られた縁石と、花も植えられた歩道が出来上がっていました(下右写真B)。
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少し下流、水門のある場所の手前にもリトル・パークができていました。傍には、Siem Reap Crocodaile farm(シェムリアップ ワニ飼育場)があり(右写真)、かつて、シェムリアップ川にたくさん住んでいたワニを、ここに集めて飼育しているそうです。立て看板に描かれているのは、ワニ革製品です。
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この辺りから、シェムリアップ川には数十メートルおきに橋が架かり、その橋の先には寺院の門が見えます。そして、路肩に続く白と黄色に塗られた縁石が、河川整備が行われたことを知らせていました。
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この地域に架かる橋の多くが寺院へと続き、その周りには人々が生活する地域が広がっていました。シェムリアップ川に架かる大小30 の橋のうち、州政府が造ったのは4つの橋だけで、残りは寺院によって造られたものだそうです。
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下の写真は、2012年12月当時のオールド・マーケット・ブリッジから1・5㎞ほど下流の東岸で行われていた河川整備の様子です。左写真には、土手を大きく削って護岸工事を進めている様子が見られました。土手の上には、寺院と学校があります。下流の土手も、護岸工事を終えたばかりのようで、まだ草で覆われていない場所が残っていました。護岸工事が始まる前には、この辺りの川べりには住居があったのでしょう。
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2014年9月に通った時は、大きく削られていた護岸(上写真c)には、石垣が積まれていました。そして、建設中だった建物は、明るいピンク屋根に出来上がっていました(下左写真C)。上右写真eの場所にも、橋の両側に石垣が積まれていました(下右写真E)。
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オールド・マーケット・ブリッジから約2㎞ほど下流の河川敷には、たくさんのオートバイが停めてありました。その先に見える橋は、シェムリアップ川を横切る63号公道です(左写真)。河川敷の整備は、63号公道まで完了していました。シェムリアップ川の整備等は、州政府による公共事業なのでしょう。
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1992年に、アンコール遺跡が世界遺産に登録され(2004年まで危機遺産として登録)、各国からの修復等の支援が始まりました。大きなホテルが次々に建設さて行く一方で、今回紹介したシェムリアップ川の河川敷整備は、その出発点において、川べりで生活していた人々の住居移転があったのでしょう。

写真/文 山本質素、中島とみ子

UNTACと記者クラブ

シェムリアップ川の西岸、ロイヤル・ガーデンと郵便局の間の区画に、白い大きな建物がありました。シェムリアップ川沿いからは、ガーデンレストランが見えます。ここは、’FCC Angkor’で、FCCプノンペンのアンコール支店としてオープンしたレストランです。この建物は、植民地時代にフランスの知事公邸だったものを、レストランに改装したもので、さらに2005年のリニューアルでホテルが併設されました。写真に見えるプールには、海水が使われているということです。
FCCプノンペンは、冷たいビールと会話を交わすバーを求める外国人ジャーナリストや、国際援助関係者が多く訪れ、記者クラブとして名をはせたレストランです。
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カンボジアの和平への取り組みは、1989年 926日にヴェトナム軍がカンボジアから完全撤退した後から始まります。1991年に国連安保理の決議により、カンボジア紛争に関する包括的な政治的解決のために、国際連合カンボジア暫定統治機構UNTAC(United Nations Transitional Authority in Cambodia)が設置されます。UNTACの事務総長特別代表には、国連事務次長だった日本の明石康氏が就任しました。UNTACの任務は、選挙の組織・管理を初めとして、停戦の監視、治安の維持、武力勢力の武力解除、難民・避難民の帰還促進など、多岐にわたりました。1993年5月にUNTAC監視の下、憲法を制定するための国民議会選挙が行なわれ、フンシンペックが第一党となります。同年9月23日に新憲法公布、翌9月24日にノロドム・シハヌークが国王に復位し、カンボジア王国が再建されました。これに伴いUNTACは同日付けで任務を終了しました。(参照:ウィキペディア)

アンタック時代以降の年表を以下に示しました。(参照:http://homepage2.nifty.com/hashim/cambo/cambohistory.htm

1989年926
     ~
1993921
和平へ向かって 1991年1023日 紛争4派がパリでカンボジア和平協定締結
1991年11月14日 シアヌークが13年ぶりに帰国
1992 315日 UNTAC(国連カンボディア暫定統治機構)が発足
            (国連事務総長特別代表は明石康氏)
1993 523日~28日 UNTACが総選挙実施(ポルポト派はボイコット)
選挙結果:フンシンペック党58議席/人民党51議席/その他11議席/120議席決定
1993年921
     ~
    現在
現「カンボジア王国」 1993年 921日 新憲法採択
1993年 9月24日 新憲法公布。現在の「カンボジア王国」の発足。
シハヌーク国王即位。第一首相にラナリット、第二首相にフン・センを任命。
(ラナリットはシハヌークの息子でフンシンベック党、フン・センは親ベトナムのカンボジア人民党で、連立内閣成立・UNTACは任務終了)
1994 7月    クメール・ルージュを非合法化
1995 7月    ASEANへのオブザーバー参加
1996 8月    ポルポト派が分裂(イエン・サリらは政府に帰順)
1997 610日  ソン・セン虐殺される
1997 618日  ポルポトが派内で失脚。タ・モクが実権を握る
1997 621日  カンボジア政府が国連に国際法廷の設置を要請
1997 7 5日  プノンペンでフン・セン派とラナリット派が武力衝突
1997 7 6日  上記の衝突でフン・セン派の勝利
1998 415日 ポルポト死亡
1998 726日 総選挙でフン・センの人民党が勝利
19981130日 フン・センが首相に就任(新政府発足)ラナリット国会議長に
19981225日 キュー・サンファンらが投降
1999 3 6日  タ・モクが逮捕され、ポルポト派が完全消滅
1999 317日 国連事務総長が国際法廷設置を安保理と総会に要請
1999 430日 ASEANに正式加盟
1999 826日 カンボジア政府と国連が国際法廷設置をめぐり協議開始
2000 7 6日 カンボジア政府と国連が特別法廷設置で合意
2001 1 2日 カンボジア国会が特別法廷設置法案可決
2001 810日 シアヌーク国王が特別法廷設置法に署名
2003 129日 プノンペンでタイ大使館焼打ちされるなど反タイ暴動が起こる
2003 218日 プノンペンでラナリット下院議長の顧問が射殺される
2003 727日 カンボジアで5年ぶりの総選挙(結果:人民党が伸張)
2004年10月14日 シハヌークが退位、息子ノロドム・シハモニが国王に即位
2006年1018日 フンシンペック党は、ラナリット党首を解任
2006年1116日 ラナリットは、ノロドム・ラナリット党を設立
2008年 727   カンボジア国民議会選挙(結果:人民党圧勝)
2008年 925   国民議会が召集され、フン・センを首相とする政府が人民党とフンシンペック、ノロドム・ラナリット党の賛成で承認され、ノロドム・シハモニ国王によって内閣の任命が行われた
2013年728日 カンボジア国民議会選挙

これからカンボジアに刻まれていく歴史が、この国に生きる人々に、幸せをもたらすものであってほしいと願います。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ノロドム・シアヌーク

2012年12月に、プリヤ・コー遺跡近くの革細工工房(Little Angels)を訪れた時、ノロドム・シアヌーク(Norodom Sihanouk)の大きな写真が飾ってありました。彼は、私たちが訪れる2か月前の2012年10月に死去したために、人々は彼の死を悼んで写真を飾っていたのでした。彼の葬儀は2013年2月1日に行われました。DSC07709

今回は、シアヌークとカンボジアとの関わりについて、年表をもとに見ていきたいと思います。ノロドム・シアヌークは、1922年10月にプノンペンで生まれました、祖父であるシソワット・モニヴァン国王の崩御により、1941年18歳で国王に即位しました。しかし、1955年3月2日、シアヌークは王位を父に譲って退位し、同年4月 7日にサンクム(社会主義人民共同体)を組織し、総裁になります。政治家としてのシアヌークが率いたサンクムは、1955年9月11日の総選挙で全議席を獲得し、その後の総選挙にも大勝して、1970年まで全議席を独占しました。そして、政治家シアヌークは、ロンノル政権下、ポルポト政権下、ベトナム軍による占領下の時期を、生きることになります。
(参照:http://homepage2.nifty.com/hashim/cambo/cambohistory.htm

1953年119

1970318
シアヌーク時代 1953年11月 9日 シアヌークが完全独立を宣言
1955年 3月 3日 シアヌークは王位を父に譲って退位
1955年 4月 7日 シアヌークはサンクム(社会主義人民共同体)を組織、総裁に
1955年 4月18日-24日 シアヌークはバンドン会議に出席。非同盟中立政策
1955 911日 総選挙の結果、サンクムが全議席を獲得                                             (その後4年ごとの総選挙に大勝し、1970年まで全議席を占める)
1957年     イエン・サリが帰国
1961年     タイと国交断絶
1963年     南ヴェトナムと国交断絶し、北ヴェトナム代表部をプノンペンに設置
1965 5 3日 アメリカと断交。ホーチミン・ルート構築を援助。
             (ホーチミン・ルートはカンボジア国内を通過)
1967 424日 国会議員キュー・サンファンが地下活動に入る
1968 117日 クメール・ルージュが武装闘争を開始
1969 3月    アメリカがカンボジア爆撃開始
1970年318

1975417
ロンノル政権
(反対派との内戦)
1970年 318日 親米派ロンノルによるクーデタ
(シアヌークは北京に逃亡し、クメール・ルージュと提携し、抵抗)
1970 320日 アメリカがロンノル政権承認
1970年 3月23日 シアヌークは民族統一戦線を結成。内戦始まる。
1970 430日 アメリカがカンボジア侵攻作戦開始
1973 127日 アメリカと北ベトナムがパリ和平協定に調印
1975年417

197917
ポルポト政権 1975年 417日 クメール・ルージュがプノンペン制圧。
(全住民の強制退去を命じる。以後38ヶ月で約200万人が虐殺される)
1975 430日 ヴェトナムでサイゴン陥落=解放
19751231日 シアヌークが亡命先の中国から帰国
1976 4 2日  シアヌークはプノンペンの王宮内に幽閉される。
1977 620日 フン・センが粛正を逃れてベトナムに逃亡
19781225日 ヴェトナムがカンボジアに侵攻
1979 1 5日 シアヌークはクメール・ルージュから釈放される。
(シアヌークはベトナムの侵攻を訴えるため北京・東京経由で国連総会に向かう)
1979年17
     ~
1989926
ヴェトナム軍による占領時代
(反ヴェトナム内戦)
1979年 1 7日  ヴェトナム軍がプノンペンを解放。
1979 112日  ヘン・サムリンが「カンボジア人民共和国」の樹立を宣言。
1979 217日  中国軍がヴェトナムへ侵攻
1981 9 4日  シンガポールで反政府三派が合意
         (ポルポト派、シアヌーク派、ソン・サン派)
(反ヴェトナム3派連合と親ヴェトナム政権との内戦始まる)
1982 622日  反政府三派が反ヴェトナム「民主カンプチア連合政府」結成。
(国連のカンボジア議席は89年総会までポルポト政権が占め続けた。)
(残虐行為の認識があったにもかかわらず、米日中などの支持によって)
1987年12月 2日  シアヌークとフン・センが初めて会談
1989 730日  カンボジア和平のパリ会談が始まる。830日に中断。
1989 926日  ヴェトナム軍がカンボジアから完全撤退

シアヌークがカンボジア国王として在位していた時期は、1941年4月25日~1955年3月2日(13年間)と1993年9月24日~2004年10月7日(11年間)の2期にわかれます。

写真/文 山本質素、中島とみ子

郵便局

シェムリアップ川の西岸、ロイヤル・インディペンデンス・ガーデンから20~30m南に、シェムリアップの郵便局があります。明るい緑色と白の塀には、河川敷の街燈と同じような灯篭が見えました。
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塀の中には、ネアクタも祀られていました(左写真)。郵便局の正面入り口の門には、「POSTs AND TELCOMMUNICATIONS SIEM REAP PROVINCR」の看板と、黄色いポストが取り付けられていました(右写真)。世界の国々では、赤色、青色、黄色など様々なポストが使われています。赤いポストは、イギリスを中心に、イタリア・オランダ・ポルトガル・ポーランドなどで使用され、青色ポストはアメリカなど、黄色いポストは、ドイツ・フランスなどで使用されています。そして、中華人民共和国やアイルランドは深緑色、チェコ、エストニアなどはオレンジ色です(参照:ウィキペディア)。カンボジアで黄色いポストが使われているのは、かつてフランスの保護国であったためでしょう。郵便局の建物も、その時代に建てられたもののようです。ちなみに、イギリスの郵便制度を導入した日本では、赤いポストが使われています。
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入口の両側を金色のガルーダが護り、その内側には、フランス語のPOSTE(入口左)、クメール語と英語のPOST(入口右)の表記がありました(左写真)。「カンボジア郵便(Cambodia Post: C.P.)」が、郵便分野におけるサービス提供者に指名され、国営企業として発足したのは、2010年6月21日のことです。
入口の上や受付カウンターの上に見える「EMS」は、Express Mail Service(国際スピード郵便)のことで、国際連合(UN)下部組織のユニバーサル・ポスタル・ユニオン(UPU)によって管理されています。(参照:http://krorma.com/cambodia/mail/
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カンボジアでは、郵便ポストが無いので、手紙等を出すときは郵便局まで行きます。また、家や会社への配達も無く、郵便局留めか私書箱宛になります。写真は、2013年12月午後3時20分ごろの郵便局の受付の様子です。左写真は、手紙や小包を出すカウンターらしく、奥に、手紙などが置いてありました。右写真のカウンターは、荷物を受け取るカウンターのようです。
カンボジアのインターネットは、カナダのInternational Development Research Center(IDRC)の支援をうけた郵電省が1997年に導入し、現在はカムネット(CamNet)という名称でテレコム・カンボジアが運営しているそうです(参照:ウィキペディア)。
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カンボジア現代史のうち、カンボジアが、フランスの保護国であった時期の年表を、以下に示しました。(参照:http://homepage2.nifty.com/hashim/cambo/cambohistory.htm) 1941年10月28日に 、シアヌークが、フランス領インドシナ総督ジャン・ドゥクーの裁定により、国王に即位しましたが、その背景には、シハヌークがノロドム、シソワット両家の血筋を引いていることと、まだ若年のため宗主国フランスの意向に沿うだろうという思惑があったと見られています。

1863年8月12日

1953年11月9日
フランスの保護国 1863年 8月12日 カンボジアがフランスの保護国になる
1887年      ヴェトナムとカンボジアに仏領インドシナ連邦が成立
(ハノイに総督府が置かれる)
1899年      ラオスが仏領インドシナ連邦に編入される
1907年      シェムリアプ地方、タイからカンボジアに返還される
1930年      インドシナ共産党成立
1940年 9月26日 日本軍が北部仏領インドシナに進駐
1941年 7月28日 日本軍がカンボシアを含む南部仏領インドシナに進駐
1941年10月28日 シアヌークが国王に即位
1941年12月 8日 日本が太平洋戦争を始める
1945年 3月 9日 日本軍がインドシナ駐留仏軍を武装解除(仏印処理)
1945年 3月12日 シアヌーク国王がカンボジアの独立を宣言
1945年 8月15日 日本が太平洋戦争で敗北
1945年10月    仏軍がプノンペンを制圧し、カンボジアを再植民地化
1949年      ポルポトがパリに留学
1950年      イエン・サリがパリに留学
1953年      ポルポトが帰国

2014年12月に訪れると、郵便局の建物の前にEMSと描かれた、郵便局の建物と同じカラーデザインの自動車が停めてありました。そして、以前は気がつかなかったのですが、郵便局の中に赤いポストが設置されていて、「PLEASE CHECK YOUR PERSONAL BELONGINGS BEFORE LEAVING」と書かれていました。
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カンボジアの郵便制度も変化していくのでしょうか。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ロイヤル・インディペンデンス・ガーデン

ストーンブリッジを渡った西岸に、ロイヤル・インディペンデンス・ガーデンと呼ばれる一画があります。チャールズ・デ・ゴールに沿った場所には、シンハが四方を護る噴水がつくられていて、小さな子供を連れた家族連れの姿が見られ、市民の憩いの場所になっているようでした。ちなみに、チャールズ・デ・ロードは、フランス領時代に造られた道路で、ストーン・ブリッジからアンコール・ワットの環濠まで続いています。
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チャールズ・デ・ロードと国道6号線が交わるスクエアーに、デヴァター像が立っていました。その手が、印を結んでいるのに気がつきました。遺跡で見たデヴァターの多くは手にハスの花を持つ像でしたが、タ・プロム遺跡の中央祠堂を囲む回廊で、このように印を結ぶデヴァター像を見かけました。*タ・プローム遺跡情報/位置: アンコールワットから北東へ直線距離で4km弱/建立: ジャヤヴァルマン7世(1181~1220頃)が仏教寺院として創建。後にヒンドゥ-教寺院に改修される
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国道6号線の南側には、ロイヤル·レジデンス(王様の別荘)があります(左写真2014年9月撮影)。2013年12月に訪れた時には、この場所に、国王ノロドム・シハモニ(在位2004-)の写真が掲げられていました(右写真)。前国王、ノロドム・シアヌークは、2012年10月に死去し、葬儀は2013年2月1日に行われています。
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ロイヤル・インディペンデンス・ガーデンの中に寺院がありました。この寺院は、プレアンチェーとプレアンチョムの2体の仏像が祀られていることから、プレアンチェー・プレアンチョム寺院と呼ばれているそうです。
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たくさんの人々が、入れ替わり立ち代わりお参りをしていました。 靴を脱いで階段を上がっていった先にある2体の仏像が、プレアンチェーとプレアンチョムです。この寺院では、「アッチャ」と呼ばれる人に占い(コンピー)をしてもらえるそうです。アッチャについて、遠藤宣雄氏は『カンボジアにおける寺院と地域社会との関係』の中で次のように述べています。「昔僧侶を経験した人で、僧侶のことも、また、俗世間についても分かっている。村のアッチャは村長を補佐して村の運営を行い村人をリードして仏教儀式を指揮する。寺院アッチャは住職を補佐し寺院の運営や寺院と社会との連結を円滑にする」したがってアッチャを抜きにカンボジアの仏教社会は語れない」。
写真の右に見える白い服を着た人たちが、アッチャなのでしょうか。白い服を着た人の中に、女性らしい人の姿も見えたので、占いをする人の中には、アッチャ以外の人もいるようです。
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2012年12月には、お寺の入口で、放鳥をする女性を見かけました。女性が籠から鳥を出していました(左写真)。それを受け取った女性は、門のそばへ行きました(右写真)。
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女性は、少しの間鳥を見つめていましたが、やがて、2匹の鳥を空へ飛び立たせました。籠に閉じ込められている鳥を空へ放つ放鳥は「放生(ほうじょう)」のうちの1つで、仏教における善行の1つとされています。自らの手でかごを開けて空へ放つことにより、善行が積まれるという考え方に基づくものですが、自分の中の悪運なども取り除いてくれるとも考えられているようです。
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シェムリアップ市街地の一画を占める、ロイヤル・インディペンデンス・ガーデンにある大きな木々には、たくさんの蝙蝠が住みついているそうです。

写真/文 山本質素、中島とみ子

Angkor National Museum(アンコール国立博物館)

ジャヤヴァルマンⅦ世病院からチャールズ・デ・ゴールを1.2㎞ほど南に下ったところに、Angkor National Museum(アンコール国立博物館)があります。この博物館には、アンコール遺跡群に埋もれていた仏像や神像が、展示されています。道路沿いに立つ旗に描かれているのは、それらの神像や仏像のようでした。
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旗に沿って進むと、博物館への入口がありました。尖塔をもつ白い建物の壁面に、ナーガをモチーフにしたロゴと、Angkor National Museumの文字が見えました。このアンコール国立博物館がシェムリアップに完成したのは、2007年11月のことです。ちなみに、首都プノンペンにある国立博物館は、1920 年に開設されています。
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白とベージュを基調に、屋根を明るい赤茶色で統一した博物館の建物には、尖塔がつくられていて、アンコールワットをイメージしたものであることがわかります。1枚の写真に入りきらないので、チャールズ・デ・ゴール沿いから写した4枚の写真を並べて紹介します。左1枚目には、塔と飾り窓が見えます。2枚目はく回廊のイメージですが、この建物の後ろに広い建物が続いています。3枚目には、須弥山を象った尖塔が3本立っています。入口の形は、アンコールワット西大門などと似ています。
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カンボジアでは奇数が縁起の良い数字とされています。アンコール・ワットの尖塔は、建設当初は9本ありましたが、周りの4本の上部が壊されたため、現在は5本になったということです。アンコール国立博物館でも、縁起の良い3本の尖塔を造ったのでしょう。
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写真中央の入口から入ると吹き抜けの大きな螺旋状の通路があります。上りきったところに受付があり、入場券を購入し、日本語の音声ガイドを借りました。その先の一画に、乳海攪拌の顔出しパネルがありました。左写真は神々で、右写真は阿修羅です。上の方には、たくさんのアプサラが踊っていました。「乳海攪拌」とは、ヒンドゥー教における天地創造神話で、その内容は、ヴィシュヌ神の化身である巨大亀クールマに大マンダラ山を乗せ、大蛇ヴァースキを絡ませて、神々はヴァースキの尾を(左写真)、アスラ(阿修羅)はヴァースキの頭を持ち(右写真)、互いに引っ張りあうことで山を回転させると、海がかき混ぜられ、海に棲む生物が細かく裁断されて、やがて乳の海になったというものです。攪拌は1000年間続き、乳海から白い象アイラーヴァタや、馬ウッチャイヒシュラヴァス、牛スラビー(カーマデーヌ)、宝石カウストゥバ、願いを叶える樹カルパヴリクシャ、聖樹パーリジャータ、アプサラスたち、ヴィシュヌの神妃である女神ラクシュミーらが次々と生まれました(参照:ウィキペディア)。
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館内はBriefing HallExclusive GalleryGallery AGallery BGallery CGallery DGallery EGallery FGallery G、にわかれていました。写真撮影は禁止されているので、アンコール国立博物館のホームページアドレスを掲載しました。http://www.angkornationalmuseum.com/anm_galleries/14
写真は、Gallery E の扉の前です。アスラ(阿修羅)と神の頭像が、渡り廊下に並んでいました。これらはレプリカのようで、この場所は写真撮影が許されていました。ちなみに、Gallery E には、アンコール・トムに関する展示がされていました。
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この場所は、展示室Eと展示室Fを結ぶ渡り廊下の機能を持っていますが、左写真のように、王様の沐浴場を思わせる造りになっていました。
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博物館の中には、アンコール遺跡などから発掘された仏像や神像が、ライトアップなどの背景の中で、その魅力を存分に見せてくれていました。日本の仏像と大きく異なっていたのは、ナーガの光背をつけたものや、ナーガの上に坐っている像が多く見られたことでした。王朝の文化を語るものとして、書物や絵画などの展示がみられないことに、この国の歴史を改めて思い起こされました。

写真/文 山本質素、中島とみ子

ジャヤヴァルマンⅦ世病院

ナーガ・ブリッジの西岸、南北に走るチャールズ・デ・ゴールの道路沿いに、ジャヤバルマンⅦ世病院があります。遺跡の行きかえりによく通るこの場所には、いつも、たくさんの人の姿がありました。道路沿いにジャヤヴァルマンⅦ世の頭像が描かれた立て看板が立ち(左写真)、病院の屋根の上にはジャヤヴァルマンⅦ世の頭像が設置されています。わかりにくいのですが、右写真には、中央の白いポールの左、木々の間にジャヤヴァルマンⅦ世の頭像が写っています。
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病院の前の混雑に拍車をかけているのが、バイクタクシーやトゥクトゥクの運転手たちと、物売りの女性たちです。シェムリアップには公共交通がないために、病院への行きかえりはバイクタクシーやトゥクトゥクを利用するので、運転手たちは、診察が終えるまでここで待っているようです(左写真)。
右写真で女性が持つ竹の先にあるのは、お菓子かおもちゃのようです。人が多く集まるこの場所は、物売りをするのにも格好のポイントになっているようです。
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この病院は、1992年にスイス人のベアート・リヒナー医師によって設立されました。小児科と産婦人科があり、産婦人科は規模は小さいけれど、1日に50人ほど産まれているそうです。また、16歳未満の子供は無料で診察してもらえることから、薬をもらったり、診察を受けるために、毎日多くの人々が順番を待って並んでいます。写真は2014年9月、8時40分ごろの様子です。写真の左奥の建物が受付する場所になっていて、2人の男性が、列の整理をしているように見えます。写真右の赤い立て看板には、「SEVERE  EPIDEMIA OF HAEMORRHAGIC  DENGUE  FEVER」(デング熱の感染から救おう)と書かれていました。DSC064531

道路沿いの建物に、「Kantha Bopha Academy for Pediatrics」(小児科のためのカンタポパアカデミー)と書いてありました(左写真)。
Cambodia Volunteerのサイト(http://cambodia-volunteer.com/kanta-bopha-foundation-%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%91%E7%97%85%E9%99%A2/)によれば、Kanta Bopha Foundation は、プノンペンに三箇所、シェムリアップに一箇所施設を有し、全ての16歳未満の子供を無料で診察していて、その運営費の殆どが寄付金で賄われているそうです。
また、医師ベアート・リヒナーについても、次のように紹介されていました。リヒナー医師は、スイスで小児科医の免許を取得後、1947年スイス赤十字を通じてプノンペンのカンタ・ボパ小児病院に派遣されましたが、クメール・ルージュのプノンペン占拠により強制帰国を余儀なくされます。1992年、ノロドム・シアヌーク前国王とカンボジア政府の要請で、リヒナー医師がプノンペンに渡り、カンタ・ボパ病院の再建にあたりました。
右写真では、Concertのお知らせが、建物の前や窓に貼ってあるのが見えます。リヒナー医師は、毎週ジャヤヴァルマンⅦ世病院でチェロコンサートを行うなど、人材育成や労働環境を整えることにも力を注いでいるということです。
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ジャヤヴァルマンⅦ世は、アンコール王朝初の仏教徒の国王で、その在位中(1181-1218頃)に、アンコール・トムをはじめ、バイヨンなどの仏教寺院を建立、再建したことで有名ですが、慈善事業に熱心であったことも知られています。彼は、ヤショヴァルマン1世時代の病院を再組織化し、ジャヤーヴァルマン自身が病人の療養と薬剤の供給に携わっていたそうです。首都を中心とした王道に沿って102の病院(アーロギャーシャーラ)を建設するなど、彼が行った慈善事業は高く評価されています。そうしたこともあって、シェムリアップのこの病院が、ジャヤヴァルマンⅦ世の名を冠し、病院の屋根に、その頭像を掲げているのでしょう。ちなみに、ジャヤヴァルマンⅦ世の実際の頭像は、プノンペンにある国立博物館に所蔵されています。
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病院の前を、子どもを抱いた母親たちが並んで歩いていきました。子どもたちの年齢が同じくらいに見えるので、予防接種か健康診断などが行われたのかもしれません。いずれにしろ、子どもを持つ母親たちにとって、この病院の存在は、とても心強いものになっていることでしょう。DSC06449

ジャヤヴァルマンⅦ世の言葉として、「身体を冒す病は心も蝕む。民の苦しみが大きくなれば王の苦しみもそれだけ大きくなる」と、碑文に残るとされているそうです(参照:ウィキペディア)。ジャヤヴァルマンⅦ世の存在は、現代カンボジアでも多くの人々の共感を得ているようです。

写真/文 山本質素、中島とみ子